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1943年の映画、終幕で写る軽便鉄道機関車の、袋井市浅羽公園に残るレプリカ。
トップページ > 見聞録 > 『姿三四郎』-黒澤明監督と原作者・富田常雄に敬意を表して(番外編#9-1)

※トップ画像は、かつて藤枝-袋井間に就航していた静岡軽便鉄道機関車の、袋井市浅羽公園に残る
レプリカ。

『姿三四郎』(1943)ロケ地巡り番外編(1)


1943年の映画の終幕部分

本企画「黒澤監督と原作者・常田 富雄に敬意を表して」の番外編として、1943年の映画の終幕部分に
ついて、その展開に付いて取り上げていきます。

元々、黒澤 明監督作品のロケ地を巡る本企画は、映画に出てくるロケ地を巡り、映画の内容と、その
場所の現在の様子がどうなっているのかを紹介していくという構想から始まっています。『姿三四郎』
にて本シリーズの4本目、本来ならばこれまでに取り上げてきた作品と同じように、映画のロケ地のみ
を取り上げていく方針でした。

しかし、執筆者であるU.Mが原作(新潮文庫の3巻構成中古本)を取り寄せ、原作よりに取り上げていく
ことに企画を変更、原作に出てくる場所を62ヶ所(最終的にはもう少し増えると思われる)探索すると
いう、前の企画である『天国と地獄』(1963)よりも訪問個所が増えることとなりました。

企画を変更するに当たり、快くそれを受け入れ、イラストの提供をして下さった古賀スタジオの古賀
マサヲ氏には深く感謝する次第です。


さて、ここより、1943年の映画の終幕部分のロケ地に付いて取り上げていきます。これまでの番外編
は原作に出てくる場所に関係する内容でしたが、今回は初めて、映画のロケ地を取り上げることになり
ます。


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汽車の客車の中より、窓の外に流れる景色が映り、カメラがパンして、三四郎が手前に、その後ろに
村井 小夜が座っている図となります。

小夜は、「私、横浜までお送りするなんて言い出して、ご迷惑だったでしょうか」と切り出します。
三四郎は小夜に背中を見せたまま、照れ隠しで「良いです」と応えます。


1943年の終幕部分、明治時代に開通していた、新橋-横浜間の鉄道の中で談笑する姿三四郎と村井小夜。
((c)古賀スタジオ・古賀 マサヲ氏提供)


父の半助に三四郎を見送るように命じられたと言い、三四郎が良いです、と断ろうとした時、小夜が何か
目に入ったと違和感を訴え、手拭で小夜の目に入ったごみを取ろうとするも、そのままにして「僕、すぐ
帰ってきます」と微笑みを見せた後、「お父さんをお大事に」と続けます。

小夜は、三四郎の温かい言葉に、目から滲んだ涙を拭います。

若い男女の淡い恋と、非常に少ないセリフでありながら、小夜と三四郎の未来を予感させる、さわやかな
名場面です。

この後、汽車は3つの客車を引きながら、もうもうたる煙を棚引かせて遠ざかっていく場面に切り替わり、
映画は幕となります。


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日本国内初の鉄道路線: 新橋-横浜間を結んだ官設官営鉄道

本稿の執筆時点で映画の公開から75年(各地を探索した時点でも70年以上が経過)しているため、特定が
難しい場所もありましたが、汽車の場面に付いては静岡軽便鉄道駿遠線(新袋井-地頭方-新藤枝)の、中遠
鉄道区間(新袋井(袋井市)-新横須賀(現: 掛川市))で収録されたものと見られます。


まず、日本の鉄道第1号は東京・新橋-横浜・関内を繋いだ官設官営鉄道です。これが、後の東海道本線と
なり、日本全国に展開する鉄道網の基礎となります。

1870(明治2)年3月5日に測量着手、1872(明治5)年9月12日(太陽暦で10月14日)に開通します。停車
場は新橋・品川・川崎・鶴見・神奈川・横浜で全線18マイル(約23km)でした。レール軌間は3フィート
6インチ(1067mm)で、これが日本国内在来線の標準軌と呼ばれる軌間(国際的には狭軌)となります。

新橋-横浜間を鉄道で繋いだ最大の理由は、この2ヶ所が明治時代に国内に住んだ外国人の居留地だった
ことです。外国人は自由に日本国内を移動することが認められておらず、その移動のための便宜を図る、
という意味も、この区間の鉄道建設が行なわれた別の理由の1つです。

つまり、外国人が船で日本の主要な開港場にやってきて、滞在する場所として外国人居留地があり、彼ら
の日本国内の移動の便として新橋-横浜間を鉄道で繋いだ、ということにもなります。

因みに、外国人居留地が設置される根拠となったのは、日本が開国した際、欧米5ヶ国と1858(安政4)年
に締結した日米修好通商条約などで、1899(明治32)年に撤廃されると外国人居住地となります。外国人
の日本国内の移動も、それに伴って制限が緩和されることになります。


次回以降のロケ地巡り本編においても、横浜市の外国人居留地の名称を名残とする「関内」(関所の内側
という意味)などが多数出てきます。


また、初めて開通した時の駅の位置もそれぞれ異なり、新橋駅は現在のJR新橋駅(銀座口)から南東方向に
300mほどの位置にありました。その場所には、現在 旧新橋駅鉄道歴史展示室があり、往時の新橋駅の
ホームや、建設当時の遺構などを見ることが出来ます。

 
旧新橋駅鉄道歴史展示室の西側外観(左)。往時の駅舎外観を再現してある。右画像は、当時の新橋駅プラットホーム。

また、現在の新橋駅駅前には蒸気機関車の動輪と鉄道唱歌の碑が設置されています。


現在の新橋駅駅前にある動輪と鉄道唱歌の碑。




官営鉄道の開通当時は現在の桜木町駅(現在は京浜東北線/根岸線の駅)が横浜駅であり、その後2回
ほど移転しています。桜木町駅には、鉄道開通の資料が、駅の自由通路スペース及びホームなどで
見られる様に整備されています。

 
明治時代初期に完成した横浜駅の駅舎の外観歴史写真。新橋駅に似た構造をもっていた。右は、歌川
国鶴が浮世絵の技法で描いた横浜駅の絵画である。1874(明治7)年の作。




当時の様子を描いた作品がそれぞれ、現在の新橋駅と横浜駅に設置されています。

 
新橋駅構内のステンドグラス【クジャク窓】。吉岡 堅二氏の作品(左)。右は横浜駅東口ポルタ入り口
にかかる信楽焼による【よこはまの唄】。井手 宣通氏の作品。いずれも、鉄道開通初期、1872(明治
5)年の様子をイメージした作品である。


原作または映画で、三四郎が横浜までの切符を買ったというのは、新橋から横浜までが官営鉄道の開通
区間であり、そこから先は別の交通手段での移動になったものと思われます。

なお、忘れられがちですが、明治時代初期には京浜地区の鉄道だけでなく、京阪神間も鉄道が敷設され
ており、1874(明治7)年5月11日に神戸-大阪間が仮開通、1877(明治10)年には京都まで延伸し、開通
しています(神戸にも外国人居留地が存在した)。

東海道線(東京-神戸間)が全通したのは1889(明治22)年で、これは1877(明治10)年に勃発した西南の
役における鎮圧軍の輸送を急ぐ目的がありました。また、西南の役鎮圧による政府の財政難により、国
内の鉄道路線建設が停滞することの原因ともなっています。

姿三四郎が檜垣 源之助と対決した年は1886(明治19)年と予想されるため、東海道線が全通する少し前
ということになります。


次ページでは、1943年の映画で収録された静岡軽便鉄道駿遠線のロケ地の可能性がある場所と、当該
軽便鉄道の興亡に付いて取り上げていきます。




(次ページ「『姿三四郎』(1943)ロケ地巡り番外編(2)」に続く)




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(参考文献は全て最終ページに)





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