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4月下旬に咲く八重桜。
トップページ > 見聞録 > 『姿三四郎』-黒澤明監督と原作者・富田常雄に敬意を表して(その7-3)

※トップ画像は、4月下旬に咲く八重桜(函南町)。

四天王の章(3)


きりぎしの花-1~2.

場所は根津権現の裏手です。村井 半助が、若葉の匂う井戸端で、冷たい水で体を拭っています。駒込の
曙町にある天神真楊流 市川 大八の道場でみっちり稽古をした村井は、家に帰って稽古の汗を拭うべく、
自宅の井戸端にいます。


根津神社付近の路地(文京区根津)。


村井 半助は僅か2-3ヶ月前まで、酒に心身を冒され、起きるでも寝つくでもない日々を過ごしていました。
衰微の一途をたどる柔術への愛着が青年の頃に劣らず湧きあがって来たのは、紘道館流の名で圧倒的に台頭
してきた統帥者・矢野 正五郎と、四天王と呼ばれる門下の者たちの実力を目の当たりにしたからです。

眼に見えぬ時世という大敵に抗する術を持たなかった村井は、孫六道場の稽古で一撃のもとに心明活殺流の
門馬 三郎の息の根を止めた姿三四郎を聞き及び、眼に見える大敵を見出したことで俄然闘志を燃やします。
その意気が、村井を因遁怠惰な床から起き上がらせることとなりました。

孫六道場での、戸田 雄次郎と姿三四郎の心明活殺流との試合ぶりを聞いたその日から、村井は酒を断ち、
翌日から道場通いを始め、体力と気力の回復に努めます。村井は少年時代より柔術の稽古をしていたため、
精神力に歩調を合わせて調子を取り戻していました。

村井の回復しつつある体力と良移心当流の円熟の業に対等の修行者が市川道場には居らず、諸流の師範級
にも見つかりません。あるとすれば、直弟子の檜垣 源之助のみ。

良移心当流の村井 半助、健在なり--東京にある諸流柔術道場に、鬼才・檜垣 源之助の名とともに広がって
いきます。このことを奇貨として、転落しつつあった柔術にも足場が築かれ、柔術にも活気が漲ってきて
います。

噂にのぼるのは、柔術の良移心当流・村井 半助と檜垣 源之助、戸塚楊心流・木島 太郎。柔道の矢野 正五郎
と四天王--姿三四郎、戸田 雄次郎、壇 義麿、津崎 公平でした。

「もう、時鳥(ホトトギス)が鳴くな」

村井はこうつぶやきながら、井戸端の向こうに生い茂る欅(けやき)の大木と、根津権現の森を見上げます。


根津権現(現: 根津神社)の表参道にある鳥居。




体を拭き終わり、小さな下駄を突っかけて台所へ戻ると、乙美がせわしそうに夕飯の支度をしていました。

「お父さん、お夕飯少し早いけど食べて下さいね」
「わしは早いのなら、いくら早くても文句は言わん。この頃は子どものように腹が空いてな」

半助は茶の間に座りながら乙美に尋ねます。

「乙美、今日も帰るか」
「あら、だって帰らなければならないでしょ。お店、とても忙しいの」
「うむ、それはまあ、勤めだから帰らなくてはならないがの、店はつらいか」
「ちっとも…ただ、忙しいだけ」

なんとはなしに、父との会話が途切れる合間に雨の日に鼻緒をすげてくれた書生の面影を思い出します。
2階の四畳半から下がって、それからずっとそわそわしどおしで、女中たちに御注文の間違いばかりし
ている、とからかわれたことも思い出します。書生が来たのはあの日だけのことで、いつ来るのか全く
あてのない彼が、もしや自分が店に出ない時に来はしないか、と不安に駆られています。

「乙美、帰りが淋しければ送ってやる」
「いいの、お父さんは稽古で疲れているし、暗くなったって、あたし、怖くはないけど、ただね、あん
まりお内儀さんに甘えているようで、他の女中さんたちにも悪いと思うのよ」
「苦労させるな、乙美」

半助は、出始めてきた蚊を追う蚊遣りを灯しながら呟くように言います。

「いやなお父さん。さあ、今日は鰹のお刺身よ」
「ほう、そいつはありがたい」
「これで、一本お酒を召し上がりたいところね」
「(微笑して)酒か…。心願の筋あって、その日までな」
「なんだか、可哀そうな気がするのね」
「わしがか」
「ええ、でも、体にいいには違いないんだけれど」

村井親子は、早めの夕餉の膳に向かいます。

食事をしながら、戸塚流の門人の紘道館での振る舞いとその成り行きを半助が乙美に話します。紘道館
は既に下谷の隆昌寺から富士見町に移り、40畳の道場での稽古に励んでいました。戸塚流の仲 多助と
波地 円太郎が通りかかり、立派な道場を構えていることが癪に障って、道場破りに飛び込んだ由。

乱暴で荒っぽい以外に力と体の柔術が紘道館に太刀打ちできるはずもなく、壇 義麿と津崎 公平に散々
投げられた揚句、這々の体で逃げ帰ったことが柔術家仲間に知れ渡っていました。

紘道館の強さに感嘆といささかの恐怖を抱き、乙美はそんなに強いんですの、と半助に聞き返します。

時流に乗っている強味、学問のある矢野 正五郎の理と力を割り切って編み出した技の強味、門人たち
の学問と平行した修行方法の強味と、数え上げれば柔道の力は侮りがたく、いずれ柔術が柔道に地位を
譲る日も近いだろう、その時に柔術は滅びるまで、と半助は言い切ります。

それでも、日本の武術のために柔術の最後の挑戦者として紘道館と闘う、と半助は決意を新たにします。
檜垣のような策略や陰謀ではなく、良移心当流の実力で。

父の武術家としての誇りと気迫に満ちた姿に、乙美の娘心も興奮してきます。


警視庁の武道大会の日取りが迫っています。三島警視総監が、柔術の代表者として戸塚流の木島 太郎が
病で出られぬことから、村井 半助に出て貰いたい、ということを内々に示していました。勝てば警視庁
武術世話係の地位が保たれ、柔術家も路頭に迷わなくて済みます。

強敵の出現に、村井 半助は文字通り身命を賭して対決する覚悟を決めています。乙美はその決意を知り、
ぜひ試合に勝ってほしい、そのためにも神さまにお願いに行くと応えます。半助はそこまでしなくても
よい、と明るい顔で笑います。


ふと、この親子の心に影を落とすある男のことが思い起こされました。その男とは、檜垣 源之助、良移
心当流の柔術家です。半助は、柔術家としての実力においては自分に匹敵する能力を源之助に認めてい
ます。しかし、その野心と権謀術数、何より蛇のような彼の性格に怖ろしさを感じていました。乙美も、
やはり源之助を嫌っているようです。

警視庁武道大会には、村井が何らかの理由で出られなければ良移心当流の代表として出場することは可能
でしょう。しかし、村井が健在である限り、それを認めるつもりはありません。また、檜垣からの強引な
申し出を実行に移す懸念からも、乙美のために村井は試合に出るつもりでいます。


父・半助との夕餉を済ませ、根津権現の境内を急ぎ足で駆け抜けようとする乙美でした。周囲は既に暗く
なりかけています。後ろから「乙美さん」と呼びかけられると、その人影でそれとわかる檜垣 源之助の
すらりとした姿が近づいてきます。

「もう、帰るんですか」
「ええ」
「少し話がある」
「急ぐんですけれど」
「大事なことだ、きいた方がいいでしょう」

檜垣は癖のようにして、袋から紙巻き煙草を取り出し、火をつけて2-3歩横にそれます。

「今日は急ぎます、この次にして下さい」
「いや、そんな呑気なことじゃない。人に聞かれて面白いことではないから、こっちへ」

駆け出したとしても逃げ切れる相手ではなく、乙美は誘われるまま拝殿脇の陰に入ります。

檜垣は煙草をせわしなく吸い、そのたびに火が勘弥ばりの顔を照らし出します。凄みのある美男子です。
檜垣は、煙草を脇にポンと捨て、言葉を継ぎます。

「先生は武術大会に紘道館の姿三四郎と試合をする」
「知ってます」
「先生の命が危ういのだ、生易しい試合ではない。命の奪い合いだ。姿は活殺流の門馬を投げ殺した男だ」
「父は勝てます」
「ほう、僕に言わすれば、そんな自信は許されんな。柔術諸流の中で、姿に勝てる者は僕の他にない」
「そんな自信は許されますの」
「許される。僕ならば……いずれはあの男と雌雄を決する約束の僕だ。先生の代りに、僕が姿と試合しよう」
「父は勝ちます」
「先生は若くない。いくら稽古に精進しても遅いのだ」

檜垣は素早く乙美の手を握ります。

「乙美さん、僕が先生を安全に出来るのだ。どんな手段を講じても……あんたは僕の気持が分かっている筈
だ。僕のものになるのが早ければ早いだけ」
「いやです、放して」
「乙美さん、僕は思ったことは実行する男だ」

そこへ不意に、檜垣の背後へと現れた法被姿の男がいました。馬鹿な真似はするな、とあたかも社殿の下
から這い出してきたかのような現れ方でした。

「娘さん、さあ、早く行きなさい。そばにいると、この書生さんの虫が起こるぜ」

乙美は取り乱すあまり、礼を言うのも忘れて駆け出していきます。

法被姿の男は、檜垣に服装は立派そうでもやることは田舎芝居より劣る、となじります。よれよれの着物
の姿三四郎の方が、人物はよほど上なのだと。

邪魔されたことに檜垣は怒り、業を掛けようと飛び込みますが……わずかな距離ですうっと下がり、忽然
と風のように闇の中へと消えていきます。

「はははは、あばよ」

法被姿の男は、名寄屋 安兵衛でした。しかし、今日は香車(きょうす)の安としての出現でした。


危うく檜垣の手から逃れた乙美は、救ってくれた人への感謝も忘れてひたすらに、呪文のように口の中で
繰り返します。

「お父さんは勝つ、お父さんは勝つのよ……」

乙美は辻俥を探すのも忘れて、涙があふれて嗚咽しながら八重垣町の通りを掛けるように去っていきます。


きりぎしの花-3~5.

乙美はその後、神田明神へと父・半助の柔術試合の勝利を祈願するため、淡路町の田川から日参する日々を
送っています。

かつて、矢野 正五郎が椿 早苗と連れだって向かった神田明神は、神田淡路町より道のりにして700m程度、
毎日午後の暇な時間を盗んで日参しています。その往復路は決して乙美の苦にはならず、自分の願いが1日
ごとに聞き届けられるような気がして、周囲の新緑に色づく光景にも心楽しみながら歩いていました。


神田明神の山門(千代田区外神田)。





ふと、神田川の土手の青草に揚羽蝶が舞うのに気付いて、乙美は堤に上ります。

「あら」--蝶を追ったその足元に大の字に寝ていた書生の、袴が風にあおられてそこに寝ているのに気
付きます。危うく、踏みつけにするところでした。

懐から落ちそうになった本を押しこむようにしながら半身を起こし、その書生は小さな欠伸をします。
「眠った…」と独り言のように言うと、そばに立っている乙美に気が付きます。

その書生は姿三四郎でした。

乙美は鼻緒をすげてくれた書生だと気づいていましたが、何と呼べばよいのか分からず、上ずった気持ち
で耳たぶが火照るのを感じています。

「やあ、君ですか……腰を掛けたまえ、ここは涼しくていい」

三四郎からは少し離れた位置に、乙美は横座りの形で座ります。

「その節は…」
「鼻緒のことですか」
「ええ、ほんとに、あの時は助かりました」

ここで乙美は、このところ三四郎が田川へと姿を見せない理由を尋ねます。三四郎は書生がたびたび行
けるような場所ではない、招待があれば毎日でも行きたいが、と屈託なく笑います。

三四郎は下谷、つまりかつて道場があった隆昌寺からの帰りにここへ寄り、九段へ帰るつもりでつい昼
寝をしてしまった、と話します。乙美は神田明神に願かけのために日参している、と話し出し、その理
由をぽつりぽつりと語ります。父が警視庁武術試合で、良移心当流の存亡をかけて紘道館柔道と闘う、
その勝利を願っての願かけであることを明かします。

乙美は、良移心当流の門下である檜垣 源之助に付きまとわれ、また柔道に柔術が敗れれば、父も武術世
話係として警視庁に留まることは叶うまい、そうなったら私も死ぬことになるかも知れない、と身の上
を話します。

三四郎の表情は曇ります。敢えて、その対決の相手の名を知っているのか、と尋ねると、知っているし、
父の対決相手ゆえに憎くも思う、と今話している相手が三四郎本人であることに気づかぬまま話し続け
ます。

三四郎は、曇った表情ではあるものの、話を切り上げて「お父さんの御武運を心から祈っています。しか
し、勝敗は運です……勝つのも負けるのも運命だ」と言うと袴の裾を翻しながら、大股に歩き出します。
乙美は、取り残される侘しさにとらわれ、「またお会いできますかしら」と尋ねます。「逢える日が来れ
ばまた逢いたいと思う」と応え、それきり名前を教えてほしい、という乙美の呼び掛けには答えず、駿河
台に向かって足早に去っていきます。


三四郎は苦悩します。来る警視庁武術試合で闘うのは、よりによって過日の氷雨交じりの天気の中、足駄
の鼻緒をすげなおした若き女性、乙美の父でした。

三四郎にとって、修練と学問への精進は苦痛ではなく、闘うことそのものに対する苦悩を感じるもので
はありません。闘う相手が村井 半助であることが問題なのでした。しかも、父の試合の勝利を祈願する
姿勢には、自らの犠牲もいとわない覚悟が、乙美にあったことがより一層三四郎を苦しめることになり
ます。

孫六道場で門馬 三郎に勝利した時、診察をした松木 東庵が喝破したように、御一新後の柔術家の例に漏
れず、実際には自堕落な生活を送っていた門馬自身が「酒に負けた」のでしょうが、家族はその様に受け
取りません。試合に勝った三四郎がお澄に「人殺し!」となじられ、その目付きに恐怖を感じたように、
夢のように美しく優しい乙美の瞳も、絶望と憎悪に満ちた瞳に変わるであろう、と感じたのでした。


下谷隆昌寺の書院で初めて道場を構えたときには門人が僅か9人、柔術家を四面の敵と受け、または誹謗
と嘲笑の中に貧乏と闘ってきた紘道館は、4年間の修行と男所帯に袴や帽子のほころびを手直しし、時に
は質に衣類を入れるなどして、品川 弥二郎子爵の全権ドイツ公使赴任後の麹町富士見町にある留守宅を
借りて、40畳の道場と80人の門弟を得るに至り、労苦が報われていました。

他方、柔道が陽の目を得たものの柔術界からの誹謗は絶えることがなく、当時の武術の殿堂たる警視庁武
術世話係の師範は柔術諸流の師範に占められていました。柔道としてはその地位を狙うことが理想では
ないけれど、現実には柔術との戦いの中に柔道は置かれており、柔術に勝った実力でその理想--民族精神
の高揚--を広げていくことも必要でした。

その使命から紘道館は他流試合を行ない、その全てに勝利してきました。残るは警視庁の武術大会です。
この試合こそが、お互いの興廃を賭けた最後の他流試合です。四天王のひとりとして、三四郎は武術師範
の村井 半助と闘い、勝利しなくてはなりません。

その日の暑さだけではなく、深い懊悩からくる汗を拭いながら、三四郎は「俺が勝てば、あの娘は死ぬか」
と呟き、「しかし、俺は勝つ…」と続けます。


九段坂の下、俎橋(まないたばし)に差し掛かっていました。




 
2017年現在の俎橋。千代田区神田神保町3丁目/九段北1丁目の境付近に当たる。現在は、その上を首都
高速5号池袋線の高架が走る。首都高速のほぼ真下を、神田川が流れている。


九段坂に埃が舞い、右側の絵草子屋の店先に吊るされた浅草寺の極彩色の絵が風にばさばさと音を立て
ます。夕方を知らせるかのように、一陣の強い風が吹き抜けます。


俎橋を渡って千代田区九段北へ。この先に九段坂が延びている。


南小路家の家紋が入った黒塗りの馬車が、九段坂の上から真一文字に向けて駆け降りてきます。南小路
の娘・高子が必死に馬車の中から御者に呼びかけます--「政吉、政吉…」。

鹿鳴館のバザーに出向いた帰り、下二番町にある邸へ帰る途中に九段坂の叔母の家を訪問、バザーの買
物を贈ってから馬車に乗ると、ほぼその直後に馬が暴れ出していました。

中礼服にマーガレット、深紅のリボンを結んだ高子は、蒼白になりながら窓枠に必死につかまります。
「止めて!政吉」と叫ぶも、政吉はとうに御者台から放り出され、暴れ馬と下り坂を狂おしく加速しなが
ら走る馬車を停める手段はないかのようです。

しかし、一陣の風の中を通り抜けるかのようにやって来た馬車を挽く奔馬の首に、三四郎は果敢にも飛
び掛かります。馬は首を激しく降って三四郎を振りほどこうとしたものの、勢いが削がれ、ついには街
灯にぶつかって停止しました。そのはずみに、三四郎も街灯に頭をぶつけ、意識を失います。


******************
歌時計が遠くに鳴る音をきっかけに、三四郎は驚いたようにして起き上がります。

「お気がつかれまして」‐‐頭の上から若い女性の声がします。

三四郎が寝かされていたのは、日本座敷に絨毯が敷かれ、壁には西洋額、ガラス張りの本箱に金文字の
洋書、隅にはテーブルとイスが一脚と、全ての調度品が西洋式のものでした。隣室で鳴る歌時計の音で、
三四郎は目覚めたのでした。

三四郎の眼には、2人の男性の姿が映ります。一人は、三四郎を手当てし、様子を観察する医師で、もう
一人は殿様然とした長刈りに白髪が交じる南小路 光康子爵でした。南小路子爵は暴走する馬車を決死で
止め、娘の命を救ってくれたことに丁重に礼を述べます。医師の見立てでも、1週間で全快の見込みで、
1‐2日程度安静に、という指示を出します。

三四郎が眼を覚ましたので、医師は光康子爵に頼まれて奥方の部屋に出向き、頭痛薬を処方することに
なります。

周囲の様子や自分のいる場所が呑みこめてきた三四郎は、それでも光康子爵に促されて助けられた礼を
いう高子の様子を見て驚きます。あまりにも、乙美に似ている…。乙美とは神田川の土堤で別れたはず
であり、ここにいるはずはないのです。それでも、仮に乙美にマーガレットに深紅のリボンを結ばせ、
洋装にして化粧をさせたら、見分けがつかないだろうと感じます。

眼の前にいるのが瓜二つの女性であることに驚いた様子の三四郎を見て、高子は自分の美しさに目を見
張ったのだろう、と受け止めます。

光康子爵は、三四郎に怪我をさせたのを申し訳なく思い、また高子の乗る暴走馬車が止まった後に気絶
したのを通りがかりの人物が紘道館の姿三四郎だ、と知らせたため、邸から紘道館に使いをやらせた、
もうじき誰かが見舞いに来るだろう、と話します。ゆっくり養生して下さい、と気遣いを見せます。

光康子爵は、若い二人を部屋に残して下がります。

三四郎にとっては奇妙な体験でした。高子の声は、乙美のそれともそっくりに聞こえます。乙美がきり
ぎしに咲いた野花とすれば、高子は艶として邸の庭に咲き乱れる牡丹でした。

やがて、戸田 雄次郎が南小路の邸に到着します。

心配な表情でいた戸田ですが、さほど重症ではなく、また三四郎と高子の様子にひとり合点、三四郎が
水を欲しがったので滋養のあるミルクが良いでしょう、と部屋から出て行った後、西洋の騎士(ナイト)
のごとく若く綺麗な女性を救い、仲が良くなったのだな、とからかい半分に冷やかし、三四郎は憮然と
します。

戸田は三四郎が怒った様子にいささか気後れしますが、部屋を見回して、本棚にウェブスター辞書が
並べてあることに気づいてこれが欲しいよ、と暫く本棚のそばに立っています。

やがて、三四郎はここは自分のいるべき場所ではない、と蒲団から抜け出し、戸田に折り畳まれた袴を
取ってもらいながら着替えます。

高子が銀盆に牛乳を満たしたコップを持って戻ってきます。高子は、三四郎が傷も充分癒えていないの
に帰ろうとするのを「お帰りになっちゃいやですわ」と引き留めようとしますが…。



(次ページ「開化の鬼-1.」に続く)



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(参考文献は全て最終ページに)






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