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箱根・早雲山にて
トップページ > 見聞録 > 『姿三四郎』-黒澤明監督と原作者・富田常雄に敬意を表して(その3-1)

※トップ画像は箱根・早雲山のケーブルカーターミナル駅付近の様子。

佳人の章(1)

鬼-1~5

--炊事道具と寝具のほかにはほとんど何もない山小屋に案内されて、正五郎は温かい雑炊の馳走になった。--



矢野 正五郎は箱根・芦の湯村への湯治を兼ねた滞在で、偶然にも島屋 長作と合流、酒を酌み交わしながらの
談笑の翌日、足腰の鍛錬のために二子山にやって来て、異様な形相で武術の鍛錬をしている者たちを見届け
ます。不審人物、とその一団に取り囲まれるも、学習院教師の矢野であることを名乗ると、彼らの党領・井沢
周蔵は今日見たことを他言しないことを約束してくれれば帰っても構わない、と彼らが来る日に向けて準備
をしていることを明かし、彼らがこもる山小屋の中に案内したのでした。

井沢は、自ら鍋のふたを取り、矢野の分と自らの分の雑炊のお代わりを掬って勧めます。

井沢は、自分たちの集団を「天誅党」と名付け、人物と武力に優れる人物のあてを探しており、現明治政府
に対抗しうるだけの腕のある人物と人数を揃えるつもりであることを話します。西南戦争が起きたのは1877
(明治10)年でそれから5年余り、西郷 南洲(隆盛)のことはまだ記憶に新しく、第2の南洲の出現を国民は待ち
望んでいる、と力説します。

いつの日にか徒手空拳で起ち、政治の改良を志す--武器に抗する武器以上の腕力を養おうと目指すが、これも
矢野師範の言う剛の道か、と井沢が問うと、崩れを待ち、崩れから道を見出すのが柔の道と矢野は応じます。
井沢と矢野の目指す道は汽車の2本の線路に等しく、交わることはないのか、と呟くと、矢野はそうではない、
しかし「事の大小を問わず、御宸襟を悩まし奉ることが畏れ多いのです」と世の平安を目指すのが真の武道
が目指すところではないのか、という重大な問い掛けを兼ねた応えが、矢野の口から説かれます。

これには、志士をもって任ずる井沢ですら、一言も差し挟む余地のない、厳格な響きがありました。

頃合いを見て「では」と矢野は立ち上がり、見送りながら井沢が約束は守って戴けるかな、と念を押すと、
矢野は「もとより、私はただ山歩きをしたとしか、自分の頭にも日記にも書きません」と一礼して山小屋を
後にします。

ところどころに建っている山小屋からの細々とした煙を横目に、矢野は熊笹の道を下っていきます。

暮色に似た霧が静かに降りる傾斜に出たとき、矢野は周囲に人の気配を感じ取ります。--右側の草むらから、
「おい」と呼びかける声だけが響いてきます。

矢野は一間(約1.8m)ほど横の杉の古木の根で固められた地面に、その幹を背にして立ちます。

殺気は、前後左右から感じられます。そして、草の中から鬼がすっくと立ち上がります。先刻の稽古着
のままの鬼石 佐平でした。


(箱根・大涌谷)

「おぬし、俺の業を腕力と言ったな」
「言った」
「柔術をやるとか言ったな」
「少々弁えているが」
「子供の頃から柔も、唐手も、相撲もやったが……ただの腕力と言われたのは初めてだ。おぬしの術とは
どんなものか、見たいしな、俺のが、柔か腕力か見せもしたいしな、ここで待っていた」
「拝見してもいいが、党領の許しは」
「待たんわ」
「(にんまり笑って)命を落としてもか」
「なにっ」

最後の矢野の声に、鬼の感情には油が注がれます。草を踏みしだいて一挙に鬼は矢野の肩口へと飛びかか
ります。巨漢の鬼の押す力を、まともに食らえばいかな矢野とて、体勢を崩されてしまいます。
しかし、鬼が掴んだと感じた瞬間、矢野は一間を飛び退ります。

鬼石は呼吸を整えながら、2間先の矢野に炯炯と光る目を向け、指を開いて指関節をぽきぽきと鳴らし
ます。次にかける技は、恐らく唐手の貫手…。いや、矢野相手には拳の襲撃だけでも充分、と見ます。

しかし、矢野はいつもの柔和さではなく、燐光のように光る視線で鬼石が技を掛けてくる頃合いを見
計っています。この視線に、鬼石の尋常でない迫力を感じます。

大きく一歩前に出て、矢野に掴みかかろうと--

貫手は再び空振り、がっと響いた骨が砕けるような音は、鬼が踏み込んで割れた枯れ枝が発したもの
でした。

矢野は掴みかかられた瞬間に2間の距離を後ろ向きに飛び、2本の腕を下げた状態で立っています。宙
を自在に舞うような動きはネコのような俊敏さと優雅さをたたえています。

2度、3度と鬼石の突きを交わしていくうちに、矢野には逃げ場がなくなっていきます。矢野の頭上に
木々の枝が覆いかぶさる場所で静止します。追い詰められたかのように見える矢野は長刈りの髪を軽く
かき上げ、にんまりと笑います。

鬼石はそれを矢野の最後の笑い泣きとみて、追い詰めたと躍りかかります。

鬼石は空をつかんだと感じ、その虚脱した頭上の枝に矢野は足を縮めて飛んでいました。水面をはねた
鯉が水に戻るがごとく、矢野が自然に鬼石の背中に降りると、矢野は左腕で鬼の首を背後から巻きつけ、
必死に右手で制しようとする動きを自らの右手で制し、両足で鬼石の腹をはさみこんで固定します。

一連の動きは滑らかに、電光石火のごとく動いて鬼石の動きを封じます。片羽締めです。矢野の左腕は
締め木のごとく決まり、右腕は鉄の鎖のように鬼石の体に食い込みます。鬼石は草の上に横転して業を
逃れようとしますが、かえって絞め技が極まってしまいます。

鬼石の顔は赤銅色から紫色に、さらに暗褐色へと変わっていきます。いったん立ち上がり、何とか振り
ほどこうとしますが、柔らかい体の矢野には全く役立ちません。一歩、二歩、と歩き、ついに三歩目で
朽木が倒れるように鬼石はもんどりうって倒れます。

矢野は、鬼石が倒れる瞬間に離れ、すっくと地上に立ちました。両手を下げたまま、静かに周囲に目を
配ります。第2、第3の攻撃を見極めるためですが、誰も声を上げず、立ち向かおうとする者もいません
でした。

取り囲んでいた者たちが戦意喪失したのを確かめると、矢野は鬼に近付き、口から泡を吹いて失神して
いる彼の上半身を起して、膝を背に当て、両手を胸に廻して背活(かつ)を入れます。

「うーむ」と息を吹き返したところに、矢野の背後に天誅党の党領が立っていました。

「矢野さん、これは私の意志ではない。逸った党員の過失とお許し願いたい」
「挑戦に応えたのは私でした」
「お守り願えようか、お約束を」
「もとより…」


(箱根・早雲山の下り坂)


矢野は再び、井沢に丁寧に一礼し、衣服を整えて山を下ります。



(次ページ 佳人の章(2)「鬼-6」に続く)



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