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公益財団法人 国際文化交友会 月光天文台

日本橋(東京都中央区)の魚市場跡地。
トップページ > 見聞録 > 『姿三四郎』-黒澤明監督と原作者・富田常雄に敬意を表して(その2-1)


※トップ画像は日本橋(東京都中央区)の日本魚市場跡。

天狗の章(2)

天狗らしき-1と2.

日本橋・魚河岸にある勇組道場、泉 専太郎とその配下の4人が、道場で静かに待っていた矢野 正五郎の姿
に驚くも、専太郎は正五郎に一歩近づき、4人の手下たちは身構え、その姿勢で腕をまくり、裾を端折り
ます。

「待っていた」
「そうか、お前の邸へ出かけたのだ」

専太郎はどかりと胡坐をかきます。

「それは」と矢野は頷くと道場を見回し、「この道場は狭いのを巧く補っている。怪我も少ないだろうな」
と独り言のように呟き、道場の造りの良さに感心しています。

泰然自若たる正五郎の、落ち着いた身振りと何よりも先に道場にいたことで、専太郎たちは機先を制された
格好になっています。

道場に乗り込まれ、相手に呑み込まれたような態勢を取り戻すことができそうになく、専太郎はまっ直ぐ
に、勝負を挑もうとします。手下の若い衆に、自分のと客人用に、と稽古着を用意するよう命じます。

「着替えたらいいだろう」
「試合は迷惑だな」
「なにっ…」
「勝負はしたくない」
「約束を破る気か、貴様は何しにここへ来たんだ」
「話しに来た」
「また、逃げる気か」
「逃げはせぬ。神田明神でも、会うとは言ったが勝負をするとは約束せぬ」

いきり立つ専太郎に、いささかも動ぜず、矢野 正五郎は何の為に試合を挑むのか、と専太郎に問います。
生き死にの試合を軽々にやるほどの愚かさを自分は持ち合わせぬ、との応えにますます怒りの炎を燃え上
がらせる専太郎です。

理由が腑に落ちれば試合をする、との正五郎の言に、故人となった磯先生や福田先生から天神真楊流の
免許皆伝を受け、兄弟子である自分に何の挨拶もない、同流の仁義にもとらないことへの不満をあげつ
らいます。

正五郎は月明かりのみが射し込む中、鋭い眼光を見せつつ、真楊流の奥伝を受けるにあたり、一切の口外
を禁ずるというしきたりに従ったまで、と専太郎に伝えます。

亡くなられた2人の師の遺志に従ったまでのことだが、専太郎が望むのであれば、奥伝は譲って良いし、
免許もお返しして良い、と話します。真楊流の看板が欲しい訳ではなく、免許の形が望ましいのでもない、
柔術を極めることのみが望みである、と。

御一新以来、柔術は廃れてきており、見世物芸に堕しています。柔術家自身の堕落が招いた柔術を、日本
の武術として再興するためには何をしたらよいのか。また、柔術の諸流は一部門の柔術を一子相伝とし、
投げ技、捕り手、逆技、絞め技、当身技と別々に修行し、免許皆伝も口伝、伝書の形で一人から一人へと
渡されており、柔術一切の奥義に通達する道が憚られてきました。日本の柔術に一貫して流れてきた精神
と原理を求めることが願いであり、奥伝を個人のものとして独占したいとは思わない、真正な柔術を開拓
してくれるならば喜ばしいのだ、と説きます。

専太郎は、一切口を差し挟まず、矢野の言葉に聞き入ります。

「今日の日本に必要なものは柔術の精神なのだ。武の魂なのだ。私は文明開化で外国に崩されてゆく日本
の大地の揺らぎを日毎に感じている。私は武士道を回復したい。その一人として、君が柔術の精神に正し
く、この河岸の人たちを導いてくれるとしたら、私は盟友と思うだけである。互いに柔術に志しながら、
なんの勝負が必要であろう」

日本に柔術が栄え、国民の一人一人が稽古着を携えて道場に通う日の姿を願うのだ、と話すと、矢野は破
顔一笑し、理屈を言ったな、分かってくれれば幸いだ、と語り、矢野は泉 専太郎の反応を待ちます。


端正な姿勢で、矢野は専太郎の反応を待ちます。仮に勝負を挑まれても、矢野は機敏に反応したでしょう。
専太郎は、腕を組んで沈思します。専太郎は、いつの間にか矢野の言葉を聞いて怒りに我を忘れた状態か
ら平常心を取り戻しています。言い負かされたのではなく、矢野が説く真実と条理に胸を衝かれていたの
でした。

沈黙の時間は長く続いたかのようです。しかし、実際には10分にも満たない時間でしょう。矢野は専太郎
が納得したものと受け止め、立ち上がると神棚に一礼し、音も立てずに道場から退去します。


天狗らしき-3と4.

専太郎の手下たちは、静かな中にもたくまざる威圧感に押され、身動きができないような心持でいました。
しかし、矢野が道場から立ち去ると、ほどなくして勇組の本来の気性が戻ってきました。

「先生。な、なにをぼんやりしているんだ。矢野をこのまま逃す気ですかい」

栄三が怒鳴ります。矢野の放つ、静けさの中にたたえられた威圧感に毒気を抜かれた体の手下たちも、矢野
がその場から去るといつも通りの勇組の威勢を取り戻していました。

河岸を出ないうちに畳んじまおう、と栄三が専太郎を促すと、先ほどまで組んでいた腕を解き、「俺の負け
だ」と首を垂れます。

天神真楊流の高名な使い手である専太郎は、矢野の理路整然たることばと、それに秘められた武術に対する
心もちを理解するとともに、これまでの自己の武術に対する姿勢を恥じたのでした。専太郎は組み手を取ら
ないままに、矢野の気高い精神に負けを認めたのです。

しかし、周囲の情勢はそれを許すどころか、このままでは収まらない、というところまで来ていました。

栄三は、露骨に憤怒の表情を浮かべます--「冗談言っちゃいけねぇ、先生。敗けたで済まされては勇組の面
目が潰れるんだ」

仁助が若い者に顎をしゃくります--「おい、勇組を狩り出せ。とことんまで叩き伏せるんだ。集めろい」
命じられた若者は道場から横っ跳びに飛び出していきます。

専太郎に恥をかかせられた、と栄三は突っかかります。勇組はこんな話は承知しない、河岸組に聞こえたら
みっともない、という訳です。

専太郎は、矢野の柔術の実力からして、お前たちの叶う相手ではない、と止めさせるよう説得を試みますが、
ますます栄三の怒りの炎に油を注ぐことになります。

矢野が河岸から出られないよう、要所を固めよう、と3人の手下たちも道場から飛び出していきます。


(日本橋川の北詰、三越日本橋店寄り)


火事と喧嘩は江戸の華--江戸の町が発展してきた時代から言われてきたことは、御一新後の東京でも、その
まま残っていました。勇組の勢力は魚河岸、日本橋界隈、より広くは芸界、花柳界へと東京じゅうに張り巡
らされており、たとえ人が殺められたとしても下手人の身代わりはいくらでも用意されていました。怪我人
が何人出ようと、矢野 正五郎の生還はおぼつかないのです。

ここまで来て、初めて専太郎の心に後悔の念が満たされます。


夕河岸の雑踏が静まらない魚河岸を、魚介の香を身にまとった人たちの間を縫うようにして歩く矢野は、
喧騒と行き交う人々の雑踏に自身を追う人間の気配を感じ取ります。

矢野は、仮に専太郎が理解してくれたとしても、東京じゅうの乱暴者からなる勇組の連中に、理屈が通
らないことは先刻承知でした。知識人に対する反感と、腕力に対する対抗意識がそうさせるのです。

佐賀町の邸での会見を避けられたのはともかく、土地勘の少ない魚河岸です。ある意味、矢野にとっては
柔術家としてのここが正念場でした。

矢野はピタリと足を止めます。月が隠れ、銀河が鮮やかに目に映ります。

 

左側は河岸へと出る径、右側には倉と問屋が並んで小さな路地が幾つかあります。食べ物屋が幾つか、
軒を並べています。

矢野はまっ直ぐ進むことを決意します。背後に迫るのが5人と判断した時、小走りに走り出します。--
「野郎っ」「逃げるぞっ」--走り出した矢野に、待てと言わんばかりに追手が声を上げます。

矢野の行く手に、十間先の路地から飛び出してきた男衆が道を塞ぎます。

「野郎はどこだ」
「どんな奴だ」
「袴をはいている奴だそうだ」

正五郎は、ピタリと足を止め、吸い込まれるように大戸を閉めた乾物屋らしい棟の軒先に身をかわし、
追手の5人をやり過ごします。

路地から出てきた一団と、追手の5人が見失った相手を罵り、再び散った時から魚河岸にただならぬ空気
が漲ってきます。

「按摩柔術が道場破りされて、今相手を束になって追っているんだ」--真相に近い掛け声でした。

「5人叩きつけられて血反吐を吐いた。相手というなあ、真楊流の達人で、勇組の道場の看板を懲らしめ
のためとあって、膝っ子で2つに折って、ポンと河に投げたのを見たが、大した力だ。泉屋の旦那が蒼く
なって謝ったが、ざまあねぇや。按摩柔術の末路よ。肩肘張って弱え者いじめをするからよ」--これは、
ほとんど嘘です。勇組を快く思っていない者がここぞとばかりに言ったのでしょう。


このようにして、デマというのは伝搬するのでしょう。そして、たちの悪いことにこうしたデマほど広く
拡散するものです。

勇組の道場破りをしたという達人は、河岸組の回し者、と言い、河岸組は道場破りされるようなちゃちな
城じゃない、と口論となり、ついには喧嘩に発展します。この喧嘩をきっかけに、魚河岸中が殺気で生き
生きとしてきます。

勇組と河岸の連中の喧嘩で矢野に逃げる隙が生じたかと言えば真逆で、勇組が喧嘩に加勢して集まるため、
魚河岸中が矢野を包囲するような状態になっています。

問屋の軒を離れると、矢野は一つの影が過ぎる速さでもと来た路を引き返します。星明かりと店の軒先に
下がる提灯の光が矢野の姿を明瞭に映し出します。袴をはき、髭を生やした人間がほとんど来ない世界で
は、容易によそ者と知られてしまいます。

矢野は、勇組道場の脇を抜け、河沿いに走ります。倉庫にぶつかると鍵の手に道が曲がり、その突当たり、
白い江戸前の3つの倉で行き止まりでした。甍(いらか)続きに、その倉の向こう側の日本橋の街の気配は
続いているようにも見えますが…。

止む無く、右にそれようとすると栄三と仁助の一団が崩れるような勢いでやってきます。左手は潮の香りが
する河です。

殺気立つ魚河岸連中との闘争を避けようとする矢野の努力も、ここで尽きてしまいます。闘うくらいであれ
ば、勇道場で雌雄を決していたはず、しかも捕らえられれば生きて帰れる保証はありません。

勇組と矢野との間隔は、6間(約11m)ほど。勇組連中は、腰を低く落とし、矢野の当身に警戒しつつ距離を
じりじりと詰めていきます。その背後には、群衆がみっしりと集まっています。

まさに背水の陣、矢野にとって絶体絶命のさなか、袴の腿立(ももだち)を取ります。

星が1つ流れ、呼吸を詰めた群衆の空に光跡を残していきます。



初秋に輝く星空(撮影場所は月光天文台2階ベランダ)

天狗らしき-5と6.

佐賀町の矢野邸を後にし、必死に人力車を探し出し、魚河岸へと戸田 雄次郎はやってきます。俥を降りる
と、杖を頼りに河岸を歩きます。

俥の中でも戸田は居ても立っても居られない気持ちで、ステッキを握る手は汗で濡れ、そのたびに袴で擦り
ながらやって来ました。

歩けることが不思議な状態でしたが、戸田は不思議とはもはや感じず、矢野の身を案ずる一心で、魚河岸の
騒動の中に飛び込んで行きました。

勇道場はひっそりとしています。そこへ、通りがかった提灯を手にする人間が右往左往しながら、「柔術と
剣術がやり始めたんだ」「…今、倉前で果たしあいが始まろうてぇんだ」というのを耳にして、胸を衝かれる
思いをしながら、人垣の方へと向かいます。

いつもならば、人垣を縫って矢野のそばに駆けて行けたでしょうが、押し合いへしあいする群衆の力に押し
戻されてしまいます。

群衆がどよめきながら崩れていく一瞬、仁王立ちで袴の腿立を取る矢野の姿を認めました。しかし、直後に
戸田は前のめりに転げます。立ち上がるのに手間取っているうちに、矢野の姿を見失います。

矢野は、じりじり迫る相手の輪を見回し、素早く草履を脱いで懐に入れるまでに立てかけてあった物干し竿
を見つけ、右へ飛ぶと物干しざおを手にとって構えます。2間半(約4.5m)竹竿は、矢野の気迫と薄明るいそ
の場の雰囲気で、勇組の若い衆は矢野が槍を手にしたかのように錯覚させるだけに充分の迫力がありました。

矢野は誰一人竹竿で突かず、群衆の中に勢いよく割って入っていきます。

「危ない、引け、引け」

栄三が叫んで逃げると同時に、矢野は竹竿の末端を両手で握り、竿を水平に保って風のように勇組の正面に
向かって走り返ります。

栄三は胆をつぶして逃げながら首を巡らします。矢野は鮮やかに、棒高跳びの要領で鮮やかな弧を描きなが
ら宙を舞い、倉の屋根へと飛び上がります。

しかし、矢野が倉の上に飛び上がる様子を見届けるほどの冷静さを持ったものはほとんどおらず、河岸の人
たちは天狗が風の中に消えていったかのような恐怖心を身に覚えます。飛んだ主を失った竹竿は、凄まじい
音を立てながら地面に倒れ、恐る恐る近寄ってきた人間の足元に、屈託なく横たわります。

仁助と栄三は、飛び去った矢野を驚いた奴だ、と唸ります。倉の屋根に降りたら、その先は東京の屋根の波
です。既に、矢野は安全な場所へと去っているでしょう。


そこへ、勇組の宿敵・河岸組の道場師範・玉木 玄斎が左手(ゆんで)に木刀を持ち、河岸組の一隊を引き連れて
栄三のいる場所に向かって来ます。

日頃、お互いを快く思わない相手が、矢野との対決という名目はあるにせよ、殺気立ったところに獲物を手に
してやってくるのであれば、ここぞとばかりに喧嘩が始まるのは自明の成り行きです。凄まじい乱闘が始まり
ました。

群衆は、勇道場を盾にしながら、竹竿を使って一瞬のうちに矢野が姿をくらました様子に、あれは絶対に天狗
だ、とうわさをします。

戸田は、その成り行きに師が安全なことを悟ります。

一方、日本橋の上では、粗末な官員風の青年が鮨折りを手に下げ、人力車を呼び止めると「佐賀町まで」と告げ、
ゆったりと車上の人となります。雄次郎と姉の須賀子への土産に、近くで鮨折りを買ったのでしょう。


(日本橋を南側より見る)


矢野の表情には、疲労も動揺もなく、ゆったりと俥の上で佐賀町へと揺られていきます。



(次ページ「霹靂」に続く)



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(参考文献は全て最終ページに)





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