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『姿三四郎』原作文庫本3巻(新潮文庫)
トップページ > 見聞録 > 『姿三四郎』-黒澤明監督と原作者・富田常雄に敬意を表して(その1-1)

これまでに、黒澤 明監督作品の映画をもとに、『七人の侍』(1954)から始まって、『隠し砦の三悪人』
(1958)、『天国と地獄』(1963)とロケ地を可能な限り探し出し、あるいはその近くまで訪れて、映画
が収録されてきた様子をその映画の筋から追い求める企画を進めてきました。

今回は、企画の趣旨を若干変え、黒澤監督の映画監督デビュー作『姿三四郎』(1943)とその続編『続姿
三四郎』(1945)の原作となる『姿三四郎』(富田 常雄/新潮文庫)に立ち返って、作中に登場する場所を
可能な限り訪れていく方針としました。


さて、黒澤監督の映画監督デビューに至るまでには、紆余曲折がありました。
名匠・山本 嘉次郎監督(1902.03.15-1974.09.21)のもとで助監督としての研鑽を積み、助監督としての
仕事の合間には脚本を書くなど、もともと優れた才能があったところに必死に努力したことも手伝って、
映画化はされなかったものの、『達磨寺のドイツ人』のような、当時の映画脚本家としては最も高い実力
で知られた伊丹 万作((1900.01.03-1946.09.21)俳優・伊丹 十三の父で、生前唯一の弟子が後に『七人
の侍』共同脚本家の一人、橋本 忍だった)に激賞された、というエピソードもありました。

なかなか映画の製作の機会が巡って来ない黒澤でしたが、新聞広告に新刊書発刊の情報を目にします。そ
の本のタイトルこそ、『姿三四郎』であり、柔道の天才児の波乱の人生という簡単なあらすじが紹介され
ていたことに、黒澤はピンと来るものを感じたのでした。

「この本を買って下さい!素敵な映画になります」と黒澤はプロデューサの森田 信義のもとへ、新聞広告
を持って駆け付け、頼み込んでいます。森田はぜひ読ませてくれ、とおもむろに応えると、まだ発刊前だと
の説明に、少し呆れた表情を見せます。取りも直さず、まずは発売まで待って、その上で判断しよう、と
いうことになり、渋谷の本屋に朝・昼・晩の3回毎日のように通って、店頭に『姿三四郎』の本が並ぶとすぐ
さま購入、読み終えたら夜10時半を過ぎていたものの、翌朝まで待ち切れずに森田宅へと向かって、寝静
まっているのをドアを叩いて出てきてもらった--そんないきさつが『蝦蟇の油 自伝のようなもの』に書か
れています。


企画部の田中 友幸(黒澤監督作品のプロデューサを後に務めることになる)が原作者・富田 常雄のもとを訪ね
て映画化の権利の交渉をしたものの、確約は得られなかったとのこと。後に、松竹と大映からも同様の申し
入れがあったところ、映画雑誌に黒澤を高く評価する記事を見ていた富田の奥さまが黒澤ならば良い映画に
してくれる、と推したため、初監督作を黒澤が撮ることが決まったとのこと。常田の奥さまが読んだという
評論を執筆したのが伊丹 万作で、黒澤監督は後に、映画の仕事をするうえで命運が掛かった時には必ず時の
氏神が現れる、と述べています。まさに、監督デビュー作を選ぶその時に「時の氏神」が現れたということ
になります。


これから取り上げるロケ地は、富田 常雄の原作『姿三四郎』(新潮文庫-現在は電子版のみ入手可)に出てくる
舞台をベースとして、黒澤監督の1943年の作品に出てくる舞台を加えて掲載していく体裁をとります。

また、原作が明治の中盤から始まり、明治後期にて終わるのに対して、筆者(U.M.)が訪れるのは大正・昭和を
経て平成20年代になっていることから、関東大震災(1923(大正12)年9月1日)や太平洋戦争(1941(昭和16)
年12月8日-1945(昭和20)年8月15日)の痕跡の様子も記録する旅となっています。


序の章(1)

緑の日傘-1.

--馬が止まると蹄の下で乾ききった黄色い埃が舞って、風のない夕方の日本橋通りは煎られるような暑さに、
店舗の暖簾もひっそりと垂れたまま、打水する小僧も出ていなかった。--

場所は東京・日本橋、現在の東京都中央区日本橋です。

『姿三四郎』原作の主人公・姿三四郎が福島より上京するのは明治期中盤のこと。原作には、はっきりとした
年代が書かれてはいないものの、東京鉄道馬車の営業運行は1882(明治15)年6月25日に始まり、路線電化は
1903(明治33)年8月11日に開始、1911(明治44)年8月1日に東京市(当時)の買収で東京市電になるという経
過をたどっています。路線は当初、日本橋-新橋間を走っており、後に万世橋-柳原通り経由で浅草にまで繋が
り、品川馬車鉄道を東京馬車鉄道が買収して品川まで路線が拡大することになりました。

冒頭の情景描写から、東京馬車鉄道が開業して間もない1882年夏の頃でしょう。

 

現在の日本橋の様子です。

神田川から文京区の小石川橋(旧小石川御門)で分岐、千代田区内を流れる日本橋川に架かるのが日本橋です。
東京馬車鉄道の路線の痕跡を見ることは今となっては不可能ですが、『姿三四郎』の物語はまさにここを始
まりの舞台として展開していきます。

 
(左:日本橋が架けられた経緯の書かれた解説板/右:東京市国道元標-国道1号線のほか、4号・6号・14号・15号
17号・20号といった幹線国道7線の起点を示す)


ここで登場するのは、掛札 兵介(かけふだ ひょうすけ=殺当流柔術師範)と、やはり柔術家で商人の泉 専太郎
です。

新橋から日本橋まで鉄道馬車に乗ってやってきた彼らは、3銭の運賃を支払い、大工町の福田 八之助道場へ
と向かいます。専太郎は日本橋に魚商の主人として店を構えており、福田 八之助(天神真楊流)に8年間、福田
師範の死後は同流の磯 正道師範(神田お玉ヶ池)に3年間の稽古をそれぞれつけてもらっています。

これから向かう福田道場では、同門の門下だった東京大学学士の矢野 正五郎と対決をもくろみ、あわよくば
試合にかこつけ、矢野 正五郎を再起不能にしようとたくらみます。

泉 専太郎は、この後しばしば矢野 正五郎と対立します。福田門下時代に両者は一度も稽古をしたことがなく、
顔合わせもしていません。福田・磯の両師範は矢野を高く評価、奥伝なども許されて、正式に天神真楊流後継
者のうわさを耳にして、我こそは正当な後継者なり、と逆恨みの感情とも相まって、深く矢野と対立します。
前年、福田師範は62歳で死去、大工町の道場はしばらく空き家になっていたものの、関口流柔術家で整骨を
営んでいる関屋 柔山が整骨院と稽古場を兼ねて住むことになります。その移転祝いとして東京にいる柔術家
が福田道場に招かれたのでした。

招かれた柔術家には、飯沼 恒民(起倒流)・門馬 三郎(心明活殺流)がいました。飯沼は後に矢野とともに道場を
興しますが、それについてはおいおい触れていきます。戸塚真楊流の木島 太郎も、東京一の柔術家として名
前が出てきます。


緑の日傘-2.

神田お玉ヶ池の磯道場で、矢野 正五郎が見取り稽古(現在でいう稽古の様子の見学)をしているところへ専太郎
が実際に稽古をしようと誘いかけ、矢野は生き死にの勝負になるから、と断ったことを掛札 兵介に歩きながら
話すと、兵介は「なかなか出来るな」と感じ取ります。

磯 正道自身が五尺一寸(約1.5m)の小男ながら不世出の名人であり、矢野との面識はないものの、六尺(約1.8m)
の男たちの中に入って行った矢野が、かなりの名人である可能性を感じ取ったのです。

二人は、福田道場改め、関屋道場となった道場に着くと、移転祝いの酒宴が繰り広げられていました。

しかし、旧福田道場の門下生だった矢野 正五郎の姿はありませんでした。

門馬 三郎や良移心当流の村井 半助、その弟子の檜垣 源之助、酒をたらふく飲んで出来上がっている木島
太郎や飯沼 恒民など、錚々たる面子の中に、矢野 正五郎の弟子で唯一の稽古相手である戸田 雄次郎がい
ました。


緑の日傘-3.

戸田 雄次郎も、福田道場には矢野とともに訪れて稽古をしたことがありました。しかし、道場開きでもある
神聖な場において、道場主のあいさつもなく、稽古をつけるでもなく料理と酒の傍若無人な有様に、しばらく
留まるもこれ以上いても仕方あるまい、と席を立ち、新道場主の関屋 柔山に挨拶をして帰ろうと診察室と思
しき部屋に向かいます。

診察室では、足の捻挫の診察を受けている若い女性と目が合って、戸田はいささか狼狽します。関屋も今は
診察中だ、用があるなら後だと戸田に退室を命ぜられ、仕方なく宴席となっている道場へと引き下がります。

この時、泉 専太郎から師である矢野が対決せずに逃げを打つ卑怯者、畳水練、理屈柔術と侮辱的言辞を浴び
せられ、戸田は平常心を失うのでした。

「戸田君、稽古をつけよう」--言うが早いか、専太郎は稽古着に着替えだし、戸田は内心しまった、と後悔し
ます。ここがいわば敵地であり、稽古をしようというのは実質的な試合となること、そして他流試合を矢野は
許しておらず、矢野自身も不必要に敵を増やすことをよしとせず、試合をしないできたことに考えを巡らせま
すが、あしらうような専太郎の言辞に、戸田はこの場で試合をすることを決意します。


緑の日傘-4.

死んでもいい--いったんはこのような心境になるも、このような感情においては却って不覚を取りかねない、
と戸田は冷静さを取り戻さんと煩悶します。とは言え、矢野師範は柔術諸派からの反感を買っており、その
弟子である戸田も、その場の雰囲気に圧迫を感じて冷静さを取り戻せずにいました。

そんなとき、飯沼 恒民が目で戸田を制し、専太郎には今日のところはやめてはどうか、と穏やかに話しかけ
ます。戸田が師匠の承諾を受けていない、と言うも、これは稽古だ、と専太郎は耳を貸しません。

専太郎の会得した天神真楊流は江戸時代からの捕縛術の流れを汲んでおり、寝技に持ち込まれる可能性が大
でした。あるいは腕を極められるか、いずれにしても戸田より体の大きな専太郎が手加減をするとは思えず、
落とされる(仮死状態)か骨折させられるか、或いは自ら参った、と意思表示するか、そのいずれかの状態に
追い込まれると思われました。

戸田は鎧組討ちの投げ手をもっぱらとする起倒流の稽古を1年間続けていました。体の大きな専太郎に、この
技は不利でした。

まずは、戸田が専太郎に朽木倒しの技をかけます。専太郎は技にかかりながらも腕で頭をかばい、道場の羽目
板数枚を割りながら戸田の技に耐えました。

技の体制から戻り切らない戸田を専太郎は吊り上げ、俵返しで投げ飛ばします。羽目板に足をぶつけ、戸田
は二度目の俵返し、それを防いだら片羽締めで腕を極められるも、矢継ぎ早の技を速やかにいなします。

右足首の捻挫で足の自由が利かなくなると、専太郎は畳かけるように戸田を抑え込みにかかります。

戸田は奮起し、体をくねらせて抑え込みから逃れるも、もはや足の自由が利きません。専太郎がたけり狂って
戸田に躍りかかろうとした刹那、「それまで、その勝負、それまでっ」と鋭く制する声が響きます。道場主の
関屋 柔山でした。


緑の日傘-5.

戸田 雄次郎と泉 専太郎との勝負は、関屋の仲介によりいったん預かりとなります。

「引越し早々、道場の羽目板をぶち割るような稽古はやめてくれ、縁起でもない。今日は飲む日で埃を立てる
日じゃないよ。ははは」

戸田は、第一撃から守勢に立ち、後退し、追い詰められたことを自覚し、汗をぬぐう時に不覚にも目尻から涙
を流します。このがらっ八な柔術師兼整骨師が、戸田の苦戦を察して声を掛けたのか、そんな思いやりがある
のかどうかは分からないまでも、わずかにこの場を救われたことに思いを致し、無念を味わいます。

師の不参を柔山に詫び、道場にいる者たちからの嘲笑的な笑いに耐えつつ、道場の正面にある大神宮に拝礼し
て道場から退出しますが、足の捻挫が尾を引き、歩くことができません。

柔山の部屋にいた若い女性と付き添いの女中が戸田に近寄り、人力車を探しに行こうと申し出、娘が手にして
いた緑の日傘を杖代わりに差し出します。

女中が人力車を探しに行く間、戸田は日傘で体を支え、娘の左足首に巻かれた包帯と柔らかい素足から目を背
けます。

暑い西陽に照らされる中、戸田と娘はわずかに言葉を交わします。

「すまんです」
「いいえ…」


月影-1.

戸田は、佐賀町の矢野の住まいで、旧福田道場での成り行きを師範に話します。

許されていない他流試合をしたことを矢野は責めることもなく、「学士の柔術が悪いというなら、魚屋の
柔術も悪かろう。ははは」と屈託なく笑います。泉 専太郎の言い分など、気にせずとも良い、という矢野
の戸田への思いやりでしょう。

戸田は、矢野家の八畳の離れで正五郎とともにつつましく暮らしながら、師範の稽古着を直し、柔術の技
の研究と西洋格闘技の研究、人体の関節の動きから合理的な技の掛け方の研究を進め、新たな体術を興そう
としていました。

戸田の心からは、福田道場での泉 専太郎との試合のことが忘れられません。恐るべき膂力と、それに翻弄
された自己の非力に苛まれます。試合で痛めた足は治っても、この無念さに肉体的苦痛を感じています。

戸田は矢野に問いかけます。専太郎と試合をするのか。相手が試合をしたいというならやる、選り好みは
できない。さらに戸田は専太郎と試合をして勝てる自信はあるのか、と尋ねると「ないようである、ある
ようでない」と応えます。それが勝負をやる前の本然の姿なのだ、と。

矢野は続けます。勝負は無心であるゆえに他人の目に任せるほかない。泉 専太郎、掛札 兵介、村井 半助、
木島 太郎など、矢野 正五郎より優れているかどうかは彼らも矢野自身にも分からない。

--面白いじゃないか、と矢野は戸田に屈託なく笑います。戸田は柔術諸派との四面楚歌の状態と自分たち
の柔術に対しての微かな不安を感じます。

そこへ庭下駄で近づく音がして、戸田が振り向くと矢野 正五郎の姉・須賀子と椿 早苗の浴衣に団扇の姿が
見えました。


月影-2.

「浩さん、お邪魔してもよろしくって」--姉の須賀子は、矢野 正五郎に幼名で呼びかけます。

椿 早苗は、前年に麹町6番町に創立された基督(キリスト)教系の桜井女学校の生徒であり、当時の西洋風
の洋装が持て囃されている中で先端のファッションを取り入れていながら、須賀子の背後に影のように立つ
椿 早苗は内気な性格がその容姿とは裏腹な印象を与えていました。

椿 早苗は須賀子とは5歳違いながら幼少期より親しい、日本橋の医療器店「ささごや」の一人娘です。

早苗からのお土産の風月のビスケットの菓子袋を、須賀子が代わって矢野らに手渡します。

この時期、矢野 正五郎は東京大学を出て学習院の教師になっています。新進文学士となり、お抱え俥で
学習院に出勤しても良い身分になった、と早苗は感じていました。質素な生活を矢野が続けていたのは、
弟の性格と柔術修行を目指す信念によるものだ、と須賀子は説明していました。

矢野はもらったビスケットを早苗に勧め、学校で歌っているのを通りかかって聴いた、との言葉に、早苗
は賛美歌を歌っていた、と応えます。

矢野や戸田が稽古に使っている稽古着は、須賀子が作ったものでした。褐色の麻布に木綿の裏打ちがつい
た丈夫なものですが、激しい稽古で破れたりちぎれたりして、凧糸や木綿糸での繕いが追いつかずにボロ
ボロになっていました。

須賀子はその稽古着を直そうと戸田から受け取ろうとするも、男の膚に触れていた稽古着を受け取ろうと
したことに悔いを感じて耳を赤くします。

矢野はおもむろに、人形が欲しいと須賀子に頼みます。稽古に使うために稽古着を着せ、もう一体の弟子と
して稽古をするつもりだと考えに、早苗が代わって人形を作って届ける、と申し出ます。


須賀子は戸田に、早苗は早苗で正五郎に好意を抱いているようです。

矢野は戸田に、稽古着の直しを早く終わらせろ、と命じます。稽古を始めなくてはなりません。

月が出たことを矢野は庭の松の下に懸った様子を仰ぎながらつぶやきます。



庭から虫の鳴き声も聞こえてきます。これから始める稽古の振動で、朝まで鳴いてはくれない、と矢野が
やや寂しげな表情を見せ、お茶を出してあげられない非礼を早苗に詫び、母屋でお茶を差し上げてくれ、
と須賀子に頼みます。

体の良い追い出しだ、と須賀子が返すと悟られたか、と矢野は笑います。


月影-3と4.

矢野は机の上に置いていた洋書をめくって、室内灯のランプの下に持ってきて戸田に示します。もはや、
早苗と須賀子のことは2人の意識から消えてしまっています。

西洋の体術の、柔術に通ずる技、似た技を示し、今夜はこれを研究しようと戸田に告げます。矢野は、それ
が日本の相撲に相当するラスラ(恐らくレスリングのこと)で、柔術の抑え技に通ずる、と喝破します。

2人は、夢中になってどのように柔術の技として取り入れるかを、洋書を見ながら考えを巡らせます。純粋
に柔術の新しい流派を興そうとする情熱に、須賀子は慣れているものの、早苗は戸惑いを隠せません。

戸田は、この時既に桜井女学校の生徒である早苗より英語が達者でした。洋書を訳さずとも読める文明的な
書生でした。

2人を邪魔しては悪い、と須賀子は母屋に早苗を連れて引き上げる、と矢野らに声をかけます。

戸田は月明かりが照らす庭に4枚のむしろを四角に敷きます。


戸田 雄次郎は、正五郎の父・矢野 一作が海軍官材課長として出向いていた伊豆の韮山より、当時13歳だった
ときに見込まれ、矢野家の書生として住み込み始め、浩坊ちゃんと呼ばれていた頃から正五郎の側役として
成長、勉学も独学で身につけました。


より正確には現在の沼津市九連(くずら)、当時は君沢郡と呼ばれていた地区の、西浦村が発足する前の漁村
で、後に田方郡に、平成の大合併で沼津市に編入される、という経緯をたどっています。

 

柔術の手ほどきは正五郎が行ない、天神真楊流の道場へも2人はともに通っていました。

2人の男たちは、月影の中、棄て稽古に取り組みます。師匠一人、弟子一人という状態でしたが2人は決して
礼儀をおろそかにせず、この姿勢が2人の柔術の稽古へのよりどころとなっていました。

30分の棄て稽古の後に休憩をとり、もう一度棄て稽古をした後、洋書で確認した肩車の技を効果的に取り入
れよう、と話し合います。


月影-5.

須賀子は母屋の居間で、遠く庭から響くずしん、ずしんという音を聞きながら、早苗がここのところ元気が
ないように見えるが、と尋ねます。

早苗は、医療器店「ささごや」を営む父・椿 正太の命令により、桜井女学校を中退し、結婚するように告げ
られていることを須賀子に明かします。

須賀子自身、早苗が矢野 正五郎に好意を抱き、正五郎のぶっきらぼうさの中に早苗への愛情を読み取ってい
ました。早苗は須賀子の心配をよそに自分も戦う、と微笑みの中に紛らせます。

暇しよう、と立ち上がると、須賀子は早苗に促し、矢野と戸田の棄て稽古の様子を母屋の窓から見つめます。
矢継ぎ早に技を仕掛ける正五郎に、戸田は鮮やかな線を描いて宙を舞い、地響きを立てて倒れます。しかし、
すぐさま戸田は立ち上がり、矢野と組み手を交わします。

須賀子と早苗にとって、神々しささえ称えた一幅の見事な活人画と映る姿です。

須賀子は、正五郎の稽古の様子は時代遅れ、きちがい沙汰に見えるのでは、と早苗に囁くと、早苗はきっぱり
「いいえ」と首を横に振ります。



(次ページ「城崩る」に続く)



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(参考文献は全て最終ページに)





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