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梅雨の合間の晴れ間(静岡県函南町桑原にて)。
トップページ > 見聞録 > 『姿三四郎』-黒澤明監督と原作者・富田常雄に敬意を表して(その11-1)

※トップ画像は、梅雨の合間の晴れ間(静岡県田方郡函南町桑原にて)。

愛染の章(1)


蝙蝠-1~2.

--去年、道場の軒に巣を造った燕(つばめ)が還って来ていた。
稽古がすっかり終わって、井戸水が涸れるほどに水を浴びる塾生達に交じって、三四郎も久々に紘道館
のなつかしい水を浴びてから、道場の武者窓の下に立って、燕の巣を仰いだ。--

 
(燕の巣-画像は、月光天文台旧本館の軒下に造られたもの-2018.04.17)


時刻は、初夏の夕方、山の手にある富士見町の空が夕焼けで染まっています。親ツバメが巣に餌を
運ぶのに気がついて、ひな鳥の鳴き声がひとしきりします。三四郎がその様子を見ているところに、
隆昌寺時代から住み込みで飯炊きをするおせき婆さんが、夕飯は塾で食べるのかと尋ねます。

三四郎は、おせき婆さんと一緒に台所で食べると言い、あんたはいつまでも書生っぽだ、と笑います。

隆昌寺時代、三四郎は夜遅くに戻るたびに台所でこっそりと晩飯を食べさせてもらっていたのでした。

長らく紘道館を留守にしていた間に紘道館にも入門者が訪れるようになり、三四郎と直接面識のない
塾生が増えていました。彼らは、噂に聞く三四郎が怖い人なのか、としきりに尋ねることを聞いて、
困ったような表情をします。強いのもほどほどが良い、とおせき婆さんは笑い、炊事場へと向かって
行きます。

入れ替わりに壇 義麿が現われ、三四郎を大声で呼び、道場へと向かいます。


ここのところ、「紘道館四天王」が顔を揃える機会は減ってきており、申し合わせたように4人が揃っ
たことを単純に壇は喜んでいます。

壇 義麿と津崎 公平は警視庁柔道師範としての務めがあり、戸田 雄次郎は伊豆分場設立を皮切りに、
地方での柔道普及の使命がありました。三四郎は修行のための旅で長く留守にしており、つい先日、
紘道館に戻ってきました。

彼ら4人は、掃除が終わった師範席の前に胡坐をかき、久しぶりに顔を見合わせます。

むろん、道場の師範席は高段者のみがいられる場所であり、ここから稽古を見つめ、稽古に立つ場所
です。厳然たる幹部の席であると同時に、彼らにとっても忘れ難い場所でした。

4人揃ったところで宴会としたいが、壇は宿直者(とのい)で、津崎が道場に泊まるのかと三四郎に聞き、
その言葉ついでにいい加減に家庭を持ったらどうか、俺や戸田のようにと水を向けます。壇はそれを
割り切れない表情で、お前にはまだ女房もいないじゃないか、と交ぜ返します。

戸田 雄次郎は荒物屋の2階、津田 公平は煙草屋の離れをそれぞれ間借りしています。

壇は、三四郎に、村井 半助の娘との仲はどうなったのか、と尋ねます。戸田もやや心配気味に、手紙
も出さないでいるのか、と尋ねます。

三四郎は、暫く野毛山下の安宿に留まり、その足でそのまま富士見町(現: 千代田区)の道場に帰ってき
ており、乙美とは、旅立ちの横浜で別れたきりでした。実は、こうした自分の行動を気にしつつも、
そうした割り切れない気持ちを隠そうとする態度でいました。要するに、戸田や壇にとって、三四郎
は「分かりやすい奴」だったのでした。

戸田は三四郎の態度に微笑し、壇は破顔一笑します。

「それは怪しからん。男子の取るべき態度ではないて」

三四郎は閉口し、視線を道場の正面入り口に動かします。と、そこへ玄関番の書生が足音も慌ただしく
駆け付けてきます。

土井という書生が膝をつき、壇がどうしたのか、と尋ねます。土井は、道場拝見という妙な姿の男2人
が来ている、行者とも蝙蝠とも見える、玄関先に待たせている、と手早く伝えます。壇は笑いながら、
名を言ったのか、と尋ねると、土井は檜垣と言った、しかし下の名は聞いていないと答え、紘道館四天
王の4人が一斉に緊張で硬い表情となります。

三四郎と檜垣 源之助との対決は、三四郎の勝利で決着を見ています。しかし、檜垣の名は紘道館にとっ
て忘れがたいもので、その名を聞いた門人たちは聴覚を鋭くしたかのごとし表情を見せます。柔術対
柔道の闘いは未だ止まず、檜垣唐手ある限り、その敵対感情も残り続けることは明らかです。紘道館を
畏怖させた源之助の逆襲があるのでは…、という疑念はなかなか消えそうにありません。

そんなときに書生が来訪者として告げた檜垣の姓は、紘道館四天王をぎょっとさせるのに充分な力を
内包したものでした。

夕日が射し込む玄関の式台の向こうに、行者を思わせる異様な容姿の2人を、壇 義麿が認めます。

彼らの一人は髪を総髪に、もう一人は百日蔓*に近い荒々しい髪形をしていました。


*百日蔓(ひゃくにちかずら)…歌舞伎などの役の髪形の1つで、月代(さかやき)の手入れがなされない、
伸び放題の髪形を指す。時代物の盗賊や囚人の役に使われる。


蝙蝠---まさに玄関番の土井が告げた2人の様子を見事に形容している、と壇は納得します。


鉄心: 御門弟か。
壇: さよう。
鉄心: 道場を拝見して、併せて、矢野さんに会いたい。
壇: お名前は。
鉄心: 檜垣 鉄心。
壇: お一人は。
鉄心: 檜垣 源三郎。
壇: 先生はお会いするかどうか分からんが、道場ならお見せしよう。


鉄心と源三郎は、礼も言わずに玄関から上がると、壇の後につき、料亭の廊下を歩くがごとくずかずか
と荒い足取りで紘道館の道場へと進みます。

壇は、檜垣 鉄心と源三郎といわれる人たちだ、と道場にいた3人に声をかけ、横に身体を開いて2人を
中に入れます。

道場の正面には、神棚が飾られています。訪なう時刻がいつであっても、武道の心得があるものならば、
神棚に向かって一礼した後に道場へ入ります。これが武道の作法であり、たとえ流派が違っても、神棚
がなければ上座に向かって一揖すべき、と教わります。

檜垣を名乗る2人は一切それをせず、見世物小屋を見廻すような乱暴さでぐるぐると道場を睨みまわし
ます。

壇はそれを見咎め、道場へ入られたら一礼されたい、と鋭く言い、鉄心は檜垣流にその様な作法はない、
と応じます。逆上する壇の脇に戸田がすっと寄り、よその国の道場作法だろう、言うな、と制します。

鉄心は、彼らのそんなやり取りに振り返り、白い眼で壇を見て、「ふふ」と鼻を鳴らします。


蝙蝠-3.

道場には、肌寒い空気が流れます。その一方で、道場にいる紘道館四天王と、鉄心・源之助との火花を
散らすような、殺気に満ちた沈黙の闘いが始まっていました。

鉄心は、両手を後ろに回しながら、書生が吊って行った師範席近くの吊りランプの微かな灯を頼りに、
道場の欄間にずらりと懸けられた門人札に眼を上げ、その名を読んでいきます。

門人札は、紘道館柔道発足間もない頃から、入門の順に並んでおり、古参の門人の札は年月を経て黒ず
んでいます。

「戸田雄次郎」
鉄心は覚え込むように、ゆっくりと低く読み上げます。

「津崎公平」
食後の自由時間に奥にいる塾生たちの詩吟の声が窓から聞こえてきます。

「壇義麿、新関虎之助…」
鉄心はそこで、目指すものを見つけた獣のごとく眉をびくりと動かします。

「姿三四郎。…姿三四郎というのは。居るかな」

炯炯と底光りを発する眼光が、射ぬく勢いで三四郎と津崎の4つの眼と絡み合います。三四郎は音も
立てずに立ち上がり、「ここにいる」と応じます。鉄心と源三郎は、体も動かさず、しかし闘気を
漲らせて三四郎と対峙します。

達人同士の闘いは、たとえ組み手の形を取らずとも、凄まじい闘気のエネルギーのぶつかり合いを
生じさせます。この対峙の時間は、実際にはほんの20-30秒程度でしたが、とても長い時間のよう
に感じさせられるものでした。

やがて源三郎の表情が険しく、ぴくぴくと唇が動きだすと、今にも三四郎に飛び掛かりそうな気配を
見せます。彼はくるりと体を横に翻し、怪鳥の叫び声のような「き……えいっ」という奇声を発する
と、三間(約5.4m)の間合いを飛ぶように動き、右手4本の突きで羽目板を貫きます。

凄まじい音で、道場の羽目板はへし折れていました。唐手の貫手の業です。

「源三郎、おけ!」--鉄心が鋭く弟を制します。

三四郎は、初めて源三郎と割れて床に落ちた羽目板に眼を移します。

いつの間にか道場から出ていき、戻って来たらしく、戸田が奥に続く廊下の入口に立っています。

「檜垣さん、先生がお会いする」
憤怒と戦意を肚に据え、重い声で戸田が檜垣兄弟に告げます。


蝙蝠-4.

檜垣 鉄心・源三郎は戸田の案内で、矢野 正五郎のいる書斎へと向かいます。矢野師範は柔和な笑み
を湛えながら、書斎机を背に檜垣兄弟と対面します。

彼らは、檜垣流唐手の使い手で、弟の源三郎が道場の羽目板を割ったことを、病気のためであると
その点についてのみ詫びを述べます。予想した通り、彼らは三四郎と対決した源之助の血縁者で
あることが判明します。

鉄心が、世の噂にある紘道館柔道は投げ殺し、絞め殺したと問うのに対して、矢野は破顔一笑し、
柔道とは人間本然の道を行くもの、忠孝一本の真理から死の安心を得る武道である、と柔道は己の
願望や立身出世のためにあるものではない、と矛先をかわします。

鉄心には、その心は通じず、「やかましいな」と面倒そうに呟きます。

四天王と呼ばれる門弟たちも、凶器そのもののような檜垣兄弟らの態度に困惑と怒りを感じていま
したが、泰然自若たる矢野師範の態度に、彼ら自身も心の安らぎを覚え、力がこもっていた拳を
解き、腕組になっています。一方、矢野師範のゆるぎない自信(圧倒的な達人が持つ雰囲気)に押さ
れるものを感じたのか、座りながら貧乏ゆすりを始めます。


三四郎との対決で敗北した兄・源之助を弱いと断じ、だから九州から出てきたことを告げると、鉄心
は三四郎との立ち合いを認める様に求めます。

矢野の答えは否、でした。

何故、との問いに、源之助は柔術の究極を悟るための闘いに臨んだから三四郎がそれに応じた、柔術
の魂の闘いだった、しかし檜垣流唐手は明らかに道が違う、と矢野師範は初めて気迫のこもった態度
で応じます。

三四郎は、ひそかにその心の中に、沸騰するような闘志を抱いていました。矢野師範は最早鉄心たち
には取り合わず、我々は必ずやるぞ、それに姿は生き死にの勝負が好きそうだ、と紘道館柔道と檜垣
流唐手との対決が近いことをにおわせます。

鉄心は席を蹴るような勢いで起ち、源三郎は貧乏ゆすりを止めて物憂い動作で立ち上がります。


檜垣兄弟を玄関先まで見送ると、矢野師範は愛弟子たちを眼元に笑みを湛えながら見廻します。


矢野: 今時に珍しいな、古い型の野人だ。
壇: 気違いですな、先生。
矢野: 相手にするな。(三四郎を見て)口惜しいか、姿。闘いたかろう。

三四郎は、内心を師に見抜かれ、面を伏せます。

矢野: 道を知らず、人間を知らず、死を知らぬものは怖い。


矢野師範は、暗い廊下をゆっくりと書斎に戻っていきます。




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