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特急『こだま』とほぼ同形式の181系先頭車両(鉄道博物館保存の『特急『とき』)
トップページ > 見聞録 > 『天国と地獄』-黒澤明監督に敬意を表して(その3-4)
(トップ画像は埼玉県大宮市の鉄道博物館に静態保存されている特急『こだま』とほぼ共通形式181系
車両(特急『とき』)の様子)


特急第2『こだま』での本番収録と発生したトラブル

いよいよ、特急『こだま』を使った本番の収録日当日です。

1962年10月22日の朝8時に品川の操車場に撮影スタッフが集まり、『こだま』車両に乗り込みます。
撮影第1日目では、とりわけ『天国と地獄』の非常に重要な場面である身代金受け渡しがあるために、
8名のカメラマンが乗り込むことになりました。黒澤監督の常連カメラマンである中井 朝一・斎藤 孝雄
のほか、6名のカメラマンも乗り込んだため、東宝ではスタジオでの収録が完全にストップします。正
に、オール東宝体制での収録となりました。




カメラの配置と、助監督の配置は以下のようになっていました(2016.05.03…一覧表に書き替え)。



車両の向き・
進行方向

車両番号

車両
グレード

カメラ
番号

カメラマン

助監督

撮影・収録対象
↑大阪方面・
 進行方向
1号車
(運転台)
特等
 1
斎藤 孝雄
森谷 司郎
(チーフ)
田口刑事のアクション

(同上)

 2
小泉 福造
(同上)
田口刑事が持つ8mm
カメラの映像

5号車
1等
 3
逢沢 譲

荒井刑事のアクション
(スチール写真を撮る様子)

7号車
(ビュッフェ)




(8号車・洗面所と共通)

8号車
(洗面所)
2等
 4
 5
中井 朝一
山田 一夫
黒澤 明監督
出目 昌伸
権藤や戸倉警部との絡み、
権藤が洗面所窓から
カバンを落とす場面

同上

 6
太田 幸男
出目 昌伸
共犯者の女と進一を車上
よりとらえる

12号車
(運転台)
2等
 7
遠藤 精一
松江 陽一
中尾刑事の8mmカメラ
の映像
↓東京方面・
 後方
同上

 8
玉井 正夫
松江 陽一
中尾刑事のアクションと
カバンを拾う共犯者



特急『こだま』の全体構成は、1号車が特等で2-5号車が1等車、6号車が食堂、7号車が電話室とビュッ
フェ、8-12号車が2等車です。なお、呼び出しを受けた権藤が電話室に入る場面で、右側に見えたのが
正規の電話室、権藤が入って誘拐犯の指示を受けたのは、この映画のために臨時に設置されたものです。
ビュッフェの壁(正規の電話室)に掛かる時計は、実際の第2『こだま』に合わせて実時間より進められて
いました。


リハーサルで演技が固められていったのは、権藤邸での収録と同じ要領です。とりわけ、当日はスピード
感を出すために車両の速度を通常の85km/hから98km/hにまで上げるよう、黒澤監督が求めていたとの
ことで、酒匂川の鉄橋を渡りきるまでには15秒程度、撮り直しが効かない一発勝負でした。

カメラマンや収録についていたスタッフ、俳優らの緊張は極限状態でした。少しでも演技の手順が狂えば、
後の場面にも大きな影響が出ます。とりわけ、演技の勘が悪かったのは田口刑事役の石山 健二郎で、セリ
フが出なかったり、立ち位置がリハーサルと違うなど、収録のブレーキになるミスが目立ちました。

とりわけ、先頭機関車の運転台で共犯者をとらえる場面では、森谷 司郎チーフ助監督がカメラの収録を
始める合図の「スタート」の呼び声を演技開始の合図と勘違いし、鉄橋を渡り終える前に演技を終えて
しまい、パニック状態になります。

森谷助監督は「何やってんだ!」と名優の尻を蹴り上げ、演技再開します。筆者にはミスとは感じなかっ
たのですが、石山が鉄橋にさしかかる場面で後ろを振り返るリアクションをしたのは、森谷助監督に尻を
蹴り上げられたことに対するものだったとか。「怪我の功名」とでも言いましょうか、石山によるこのリ
アクションが、この場面の映像を救うことの一助となったのです。


なお、黒澤監督は最後のリハーサルを森谷助監督に任せ、また森谷助監督を先頭機関車に配置することで
全体の撮影の司令塔を任せました。『こだま』がどこを走っているのかが先頭ゆえに良く分かるため、演
技の進行に対する合図を出す役目も兼ねることになったと言います。


一方、疾走する『こだま』車内での収録に先立ち、10月20日には酒匂川の鉄橋付近のロケハンも行なわ
れています。前述のとおり、視界の妨げになる民家の2階部分の除去工事が20日には進行中で、その最中、
共犯者の女と進一の立ち位置やポーズの決定(酒匂川東岸)、共犯者の男の立ち位置や鞄を拾い上げる為に
駆け出すタイミングなどの決定(酒匂川西岸)をします。共犯者らの顔が見えないように麦わら帽子を被せ
たり、共犯者の女と進一が列車の窓から見やすいように砂利を積み上げて小山を作り、その上に2人が立
って女が進一を抱くようにするポーズを決めたのもこの時でした。



共犯者の女と進一少年が立っていた辺りの画像です(酒匂川東岸)。


この場所を担当したのは、助監督の大森 健次郎氏です。共犯者の男が駆け出すタイミングが難しく、それ
を間違えると間抜けな印象にしかならない為、そのタイミングを大森氏が指示することになっていました。
実際に鉄橋を走る特急列車を見ながらのタイミング調整を行なうとともに、収録の時間帯は無関係な人が
ここを通過してカメラに映ったりしないようにガードする、という目に見えないが重要な役割も大森氏は
担っていました。



酒匂川西岸より、東岸を見越した最近の様子です。


もし、無関係な人が映ってしまうと、映画の筋に関係のない人物がこの場面の目撃者となってしまい、映
画の筋書きが狂ってしまいます。映画では、その筋書きで準備していた目撃者だけが映るのみだったので、
大森氏は見事にその役目を果たしたと言えるでしょう。


さて、収録の進行具合と収録において発生したトラブルの数々、如何にそれらが解決されたのか。以下に
書き出していきましょう。

照明は照明係が車内にある突起物を見つけ手際よく固定、録音係はドラマの中心となる洗面所に手持ち式
マイクをセット、1等車に置かれた調整卓にコードを繋ぎます。録音係キャップは黒澤監督と長く組んで
いる矢野口 文雄です。録音は、特急車内の疾駆するときの音に紛れてしまい、そのままでは使えない可能
性があったものの、アフレコでの雰囲気をとらえるのと、もしも使えそうであればその録音を使うことも
意図されていました。

9時過ぎには、扮装した俳優やエキストラたちも品川の操車場に到着、全員が『こだま』に乗り込んで、
10時過ぎに品川操車場を出発しました。前述のとおり、実際の第2『こだま』出発時刻に合わせて、車内
の壁掛け時計の時刻もずらされました。

『こだま』が疾駆する場面から切り替わり、1等5号車で権藤が電話の呼び出しを受け、鞄を抱えながら車
内を移動する場面は2度目、つまり10月25日に収録されています。この移動シーンの撮影も、斎藤 孝雄
カメラマンが手持ちカメラを固定装具付きで撮っています。正に、斎藤カメラマンは、この映画でも八面
六臂の活躍ですね。

一方で、元の台本では田口刑事のセリフだった「チクショウ…、正真正銘のチクショウだ!」は、収録現
場で急遽、黒澤監督の判断で戸倉警部のセリフに変更されたとのこと。この判断は、映画の後半が戸倉警
部を中心に場面展開したことから合わせても見事に図に当たったと言えるでしょう。

前述のとおり、田口刑事役の石山 健次郎は収録時の緊張も重なり、演技にブレーキが掛かってしまいます。
とりわけ、洗面所でのこのやり取りでは、当初は余裕があったものの、石山のミスにより4-5回NGが出て、
時間が押してきます。
黒澤監督と一緒に中井・山田の両カメラマンによる手持ちカメラについていた出目 昌伸助監督は各駅の通過
時刻表を持っており、大船、藤沢と主要駅を通過するごとに知らせていました。「もう藤沢だ」「また失敗
してしまった…!」と感じていたのでしょうか、ますます石山は上がってしまいます。

それでも、何とかこの場面を撮り終えた、と思っていたら大磯付近に来たところで突如トンネルに入った
がごとく暗くなってしまいます。大磯付近にトンネルはなく、何が原因で暗くなったのかは分かりません
が、酒匂川付近で通風口を覗き込む場面は、暗くては収録プランが崩れてしまいます。これで石山は呆然、
黒澤監督もパニックになってしまい、座席に座りこんで「もうダメだ!もうダメだ!」と頭を抱え込む為、
出目助監督もかなり困惑していたようです(戸倉警部役の仲代と権藤役の三船は最初の位置に戻っていた)。

出目助監督は中井カメラマンとともに「まだ大丈夫です、もう1回行きましょう!」と黒澤監督を励まし、
やにわに監督を抱き起こすと黒澤監督も冷静さを取り戻し、撮り直しを実行します。"時間の壁という憑き
物が落ちた"かのごとく、撮り直しで一発OKになった、とは関係者の証言です。

酒匂川の収録場面は、収録時間がそのまま映画の時間となります。鉄橋に差し掛かる場面では、森谷 司郎
チーフ助監督が司令塔となって車内の各所に配置されていたカメラに指示を出します。各助監督もハンド
マイクで準備完了を報告、一斉に酒匂川河岸にいる共犯者の姿をとらえました。同時に、8台のカメラが
回り出しました。黒澤監督のマルチカムとしては最も多い台数のカメラが同時に収録をしていたと言えます。

ここで、田口刑事役の石山が、カメラの回転スタートの合図を勘違いし、演技を予定より早く終えるという
ミスを起こします。前述のとおり、森谷助監督は石山の尻を蹴り上げ、そのリアクションが斎藤カメラマン
の1カメにとらえられることになります。

先頭車両からの合図はあるものの、車両中央付近や後尾にセッティングされたカメラからは、共犯者のいる
場所やカメラのファインダに入るタイミングを掴むのはかなり困難です。鉄橋を通過するときの音はかなり
特徴的であるので、各カメラマンは聴覚を頼りに、また傍についている助監督の合図も手がかりにして共犯
者の姿をとらえました。映画でご覧になれば分かるように、素晴らしいカメラワークが発揮されています。
正に、一流の職人芸で創造された映像でしょう。

列車が鉄橋を渡る時の轟音は、音響効果係の三縄 一郎が担当しました。『椿三十郎』(1962)での惨殺音を
「開発」し、後に続く時代劇での効果的な惨殺音が付く流れを作った功労者です。この場面での音響も大変
な効果を発揮しています。

この収録では、黒澤監督自身も「もう胸が痛くなってきた」と語るほどの重圧を感じたそうです。出演者や
スタッフらに至っては想像もつきませんね。

第1回目の収録が終わり、第2『こだま』は熱海駅に到着、帰りは回送で品川に引き返していきます。

この映画で大役を果たした三船 敏郎は、スタッフ一同の収録の労苦をねぎらうべく、食堂車にビールや
ウィスキーを並べて待っていました。黒澤監督は「ずいぶん良く気が利くな」と感激、スタッフ一同で
祝杯をあげました。
緊張が解けたスタッフたち、ビールのおかげもあって饒舌になり、あの場面はどうだったか、とかあそこ
ではこうなって大変だったよ!と和気藹々の雰囲気だったそうです。

ここで、収録時のトラブルが次々に明らかになっていきます。

渋い顔付きでやって来たのは、先頭車両にいた森谷 司郎助監督と後尾車両にいた松江 陽一助監督でした。
収録のカメラのスタートの合図を石山 健次郎が勘違いしたことは前述の通り。松江助監督の報告は、ベテ
ランの玉井 正夫カメラマンが緊張のあまりカメラをきつく構えたためにマガジンのフィルム巻取り軸を強
く抑え込む形になり、フィルムが詰まって巻取り軸が停止、フィルムが絡まってストップしたというもの
でした。

黒澤監督はこうした報告を聞き、最悪は『こだま』をもう一度貸し切りで貸してもらうしかない、と半ば
覚悟はしたものの、とにかくラッシュを見てから判断しよう、もしかしたら編集で何とかいけるかも知れ
ない、とスタッフたちに応えます。ベテラン=スクリプターの野上 照代氏は、もしかしたら既に黒澤監督
の頭の中では編集機が動き出していたのかも知れない、編集では黄金の腕を発揮する名監督なのだから、
と述懐しています。

石山は、森谷助監督のあまりの怒り様にあまり責めると飛び降り自殺しちゃうかも知れないぞ、と黒澤監督
が冗談で応じていました。結局、怒られてしょんぼりとした人が良くやるように、石山はこの時トイレにい
た様でした。

この収録から3日後の10月25日に、2度目の収録のために『こだま』の車両を部分的に借り、1度目の収録の
残りとともに、加藤 武の演ずる中尾刑事の後部車両での演技と、土手の斜面を共犯の男が駆け下りる場面の
収録も行なわれました。加藤 武は『こだま』に前回と同じ扮装で乗り込み、共犯役の俳優も同じ様に土手の
斜面を駆け下りたそうです。

ラッシュを見た黒澤監督は、野上 照代氏が述べているように見事に編集の腕前を発揮、石山が運転台で共犯
者をとらえる場面は再収録なしで済みました。


以上の場面に関しては、「黒澤明 『天国と地獄』憤怒のサスペンス」(都築 政昭・著/朝日ソノラマ・刊)及び
『もう一度天気待ち 監督・黒澤明とともに』(野上 照代・著/草思社・刊)を参照させて戴きました。




こちらは、酒匂川西岸の鉄橋のたもとに当たる場所です。映画では、土手の斜面から共犯の男が駆け下り
ていく先は田圃になっていたところ、現在では民家が立ち並び、リメイク企画が立案されたとしても、同
じ場所で同じ様なシーンを撮ることは不可能となっています。


**************

「その3」の最後は、無事解放された進一少年を権藤が駆け寄って抱きかかえる場面の収録エピソードで
締め括りとしましょう。

車が酒匂川東岸の未舗装の道をやってきて、はやる気持ちから権藤が止まり切らないうちに飛び降りて、
進一に向かっていく場面は、権藤のこの時の心理を表現するための演出です。この、権藤が飛び降りる
タイミングや鉄橋を走る貨物列車のタイミングを合わせるのが難しく、1ショットのこの場面は4-5回撮り
直されたとのこと。「4回も続いて走ったもんだから、おじいさんの心臓はもう張りさけそうですよ」と
権藤を演じた三船 敏郎は冗談を言ったそうです。

また、事業家としての地位を投げ出して進一を救った権藤と少年との再会の場面には敢えて寄らず、見守
る捜査員たちの背中を大写しに、権藤と進一を遠景のままに撮ったのも、黒澤監督の計算によるものでし
た。そして、ずっと背景音楽がないままに展開してきたところ、この場面で権藤の犠牲的行動を称えるか
のごとくトランペットを基調とした劇伴が鳴り響くのも、一挙に感情を高め、その崇高さを表現する上で
は最大級の効果を発揮しています。

この場面を劇場で初めて見た観客たちの何人が目頭を押さえたでしょうか?心憎いまでの黒澤監督の演出
が光る場面です。映画史に残る名場面は、こうして作り上げられていくのだと再認識させられますね。





権藤の犠牲的行動により、無事に青木の一人息子・進一は戻ってきました。出来る限り隠密的な行動で捜
査を続けて来た捜査員たちも、これにより「横浜市西区浅間台誘拐事件」として公開捜査に踏み切り、
戸倉警部の言う通り誘拐犯に対する"手加減なし"の捜査に取り掛かり始めました。

捜査員たちは、権藤邸が見える公衆電話を皮切りに、地道な捜査を開始しました。

犯人の動機はそもそも何か?そしてどの様に権藤との接点を持ったのか、それが事件解決へのカギになる
と思われました。また、荒井刑事(演: 木村 功)の皮肉の利いたジョークも楽しめそうです。

次回、「その4」は本来の意味での「ロケ地巡り」、捜査員たちが向かった場所、捜査対象となった場所を
中心に取り上げる予定です。

そして『天国と地獄』の主役である権藤(演: 三船 敏郎)・戸倉警部(演: 仲代 達矢)に続く第3の主役である
誘拐犯(演: 山﨑 努)が劇中、いよいよその姿を現します。


(この項、その4に続きます)



<① <② <③ <④

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報告者: U.M. (月光天文台)


参考文献: 下記

『黒澤 明と『天国と地獄』 ドキュメント・憤怒のサスペンス』(都築 政昭・著/朝日ソノラマ・刊)
『キングの身代金』(エド=マクベイン・著/ハヤカワ文庫・刊)
『俳優のノート』(山﨑 努・著/文藝春秋-文春文庫・刊)
『もう一度天気待ち』(野上 照代・著/草思社・刊)
『黒澤明 全作品と全生涯』(都築 政昭・著/東京書籍・刊)
『複眼の映像』(橋本 忍・著/文春文庫・刊)
「映画を愛した二人」黒澤明・三船敏郎(阿部 嘉典・著/報知新聞社・刊)
『クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々』(土屋 嘉男・著/新潮文庫・刊)
『評伝・黒澤 明』(堀川 通弘・著/ちくま文庫・刊)
『黒澤 明 集成II』(キネマ旬報特別編集)
『Mook21 黒澤 明 夢のあしあと』(黒澤 明研究会・編/共同通信社・刊)
「第3回特別企画展 電車特急50年 ~ビジネス特急「こだま」からJR特急まで~』(企画展図録No.3 鉄道博物館・編)

DVD『天国と地獄』(普及版ならびに特別版)(黒澤明・監督/東宝株式会社)


※筆者による覚書…『天国と地獄』のロケ地巡りを行なうにあたって、多様な映画のロケ地を訪問して
収録している『東京紅団』のWebサイトには特にお世話になりました。当該サイトでは相互リンクを
されていないこと、リンクフリーであることの断り書きがなされています。最終回にて、当該サイトの
情報をまとめて取り上げたいと考えております。






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