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東京都世田谷区成城の東宝スタジオ繋がる道路
トップページ > 見聞録 > 『天国と地獄』-黒澤明監督に敬意を表して(その2-1)

権藤 金吾邸-神奈川県横浜市西区浅間台/東京都世田谷区砧(東宝スタジオ)(続き)

夜の帳が横浜の街に降りる頃、権藤邸に向かう、1台の幌付きトラックがありました。ヘッドライト
がコンクリート壁を照らし、門の鉄扉を通過していきます。高島屋の文字が幌に描かれているのが
確認できます。ナンバーは「神1 え5318」です。

権藤とその妻・伶子、権藤の右腕の河西らは、サロンに留まり、警察が来るのを待ち続けています。
ヘッドライトが権藤邸のサロンの中に差しこんでくるところに河西がカーテンをめくって誰が来た
のかを確かめようとします。

「警察か?」--権藤の問い掛けに、「いや、違いますねぇ。デパートのトラックです」と河西は応
じます。

「変ねぇ、今頃…」と伶子は玄関に向かいます。
「警察は一体何をぐずぐずしてるんだ?」と権藤も苛立ちを隠そうとしません。

進一が人違いで攫われたことから、青木はすっかり憔悴し、サロンの入り口近くの椅子に座って
うなだれています。
「青木!あんまり取り越し苦労をするな。どう考えたって進一の身に危険はないんだ」と安心させ
ようとします。

もっとも、これも希望的観測の類であったことが後々明らかとなるのですが…。

権藤は応接セットの椅子に腰かけ、煙草をふかします。一方、河西は窓際からサロンの入り口近く
まで歩いて、「この男の気の弱さにも困ったものだ」と言わんばかりの表情で青木に視線を向け
ます。

そこへ伶子がおもむろにやってきて権藤に声をかけます。--「あなた、警察の方が」。伶子は玄関
の方向に振り返り、「どうぞ」と捜査員に家に上がるように促します。

捜査員の一人が、伶子の呼び掛けに応ずる代わりにサロンの室内のカーテンを全て閉めて下さい、
と応じます。物腰の柔らかい、しかしはっきりと通る声で。
河西と権藤玲子が、この頼みに応じてサロンのカーテンを全て閉めます。

権藤は応接セットのある場所から玄関の方向に歩いていきます。青木は立ち上がるもおどおどと
カーテンを閉める様子を見まわしています。

やって来たのは、4人の捜査員でした。玄関先で彼らは高島屋配送員のユニフォームを脱いでい
ます。一人は背広姿、残る3人は半袖の夏服姿です。

背広姿の捜査員は隣にいる部下の一人に被っていた帽子を手渡しながら「主任警部の戸倉です」
と権藤に会釈しながら自己紹介し、権藤もそれに応じて一礼します。

戸倉警部(演: 仲代 達矢)はサロンに入りながら「犯人が見張る気なら、この部屋は丸見えです」と、
開口一番にカーテンを閉じるように依頼した理由を権藤に説明します。--「望遠鏡さえ使えば、下
の街からでも良く見えます…」。

残る3人の捜査員たちも、着替え終わって捜査に必要な機材類の入った紙袋(高島屋の買い物袋か
?)を手に、戸倉警部に続いてサロンに入ってきます。


******************

さて、戸倉警部を含む4名の捜査員たちは、高島屋デパートの配送を装い、権藤邸にやってきまし
た。これは何を意味するのでしょうか?

それを理解する鍵は、やはり戸倉警部のセリフにあると考えて良いでしょう。浅間台の高台にある
権藤邸はかなり豪華で、非常に目立つ家です。望遠鏡を使うと下の街からでも良く見える--まさに
これです。権藤邸ほどの高台の見晴らしの良い場所に立派な家を構えるのであれば、高級な品揃え
のデパートから品物の配送を頼むこともあるだろう、そんな考えからデパートの配達を装って捜査
員が必要な機材類も持ち込んだ、ということが考えられます。

映画の製作から50年以上が経過していますが、現在でも高島屋は横浜市の繁華街で営業を続けて
います(地図上の表記は「横浜タカシマヤ」)。実際に高島屋の店舗でも高島屋社員をエキストラに
起用してのロケ収録が行なわれたという話もあるようですが、筆者(U.M.)は未確認です。



本稿の「その1」でも使っている画像に、その近辺が写っている画像がありました。上の画像では、
左端に近い位置に相当します(ただし、建物は視認できない)。
この付近から、権藤邸のある浅間台に向かって高島屋の配送用トラックが走った、ということになる
のでしょう。

※2016.04.27追記…この場所より改めて横浜市街地の夜景を撮影しました。高島屋の屋上看板は明
瞭に視認できています。高層建築物は当時より増えましたが、この付近からの視認は問題ないことを
確認できました。



まず、広角でとらえた画像です。この中央部分にズームインすると…。



…中央やや左側に高島屋の看板が見えてきます。



ここまでズームインすれば明確に分かりますね。

******************


戸倉はサロンに入り、室内全体に視線を巡らせ、テーブルの上に乗った電話で視線を止め、権藤に尋
ねます--「ところでお宅の電話はこのほかに?」。

権藤: 2階にもう1つありますが。
戸倉: 両方とも電話帳に出ていますか?
権藤: いや、(電話帳に)出ているのはこれだけです。
戸倉: (部下に向かって)おい、電話はこれだ。…犯人からの電話に備えて、傍聴装置を取り付けます。

捜査員たちが、紙袋からレコーダなどの傍聴に必要な機材を取り出し、テキパキと作業を進めます。

権藤: しかし警部さん。犯人から電話なんかもう掛かってこないんじゃないかな?人違いとわかった
ら私に電話を掛けても仕方がない。
戸倉: でも向こうはまだ、お宅の息子さんだと思っているかも知れません。
権藤: それなら早いところラジオかテレビで「人違いだから早く返せ」と言ってやるんですな!
戸倉: しかしそんなことをしたら、警察に知らせたと犯人に教えてやる様なものです。
権藤: それが何故いかんのです?(傍聴装置の設置作業をしている捜査員たち、この言葉に反応する様
に顔を上げ、権藤の顔を見る)
戸倉: 「警察に連絡したら子供の命はない」、犯人はそう言ったんでしょう?
権藤: そりゃ、私の息子を抑えていると思って言っていることだ!脅迫のタネにもならんと分かったら
すぐ(進一を)返して寄越すはずだ!
戸倉: いや、あなたはそう考える、しかし犯人がそう考えるかどうかは分かりません。


ここまでのやり取りで、権藤は楽観的な考え方が打ち砕かれたと理解したのか、苦悩の表情を浮かべ
ます。応接セットの椅子に腰かけ、俯いて何も言わなくなります。

暫くの沈黙の後、戸倉警部は先ほどの説明に更に重要な示唆を加えます。


戸倉: 誘拐事件というのは、全く困りもんでしてね。…犯人は人質という切り札を持っているんです。
今も、刑事部長からこう言われてきました--犯人は挙げなくてもいい。子供さんを無事に助け出す以外
のことは考えるな。…それに、今度の場合特に慎重を要します。今までの例では、要求してきた身代金
の最高(額)は200万、ほとんどが20-30万どまりです。3000万というのは全く桁はずれです。まあ、
その点から考えても、犯人は途方もない奴らしい。精神異常者かも知れません。


最後の言葉が強烈な意味合いを持つことに、意図せずにこの事件の当事者となった権藤が理解して戸倉
警部の方を振り返ります。青木もこれで不安が一挙に高まり、何か言葉を発しようとしますが全く言葉
になりません。


戸倉: お父さんですね?攫われたお子さんの。
青木: はい。
伶子: 親一人子一人なんですよ、それがこんなことになって…。
青木: 子供は、取り戻せるでしょうか?
戸倉: はあ、全力を尽くします。
権藤: (解決の糸口が全く見つからないことにいら立ちを隠せず、立ち上がる)それであんた方はこれから
どうするんですか?
戸倉: 待つんです。犯人の出方を待つしかありません。まあ親の身にしてみれば、居ても立っても居られ
ない気持ちでしょうが、お子さんの安全のためにもそれが一番いいんです。


戸倉警部の言葉に、青木は頷きます。捜査員が「取り付け終わりました」と戸倉に知らせ、戸倉もそれ
に応じて2階の電話での逆線捜査について打ち合わせをするように命じます。話は通してある、と部下が
仕事を進めやすいように手筈を整えているようです。
伶子は「どうぞ」、と2階の電話の場所に捜査員を案内します。


警察の捜査、しかも誘拐犯からの電話と脅迫される側(場合によっては捜査員が家人に扮してやり取りを
代行することもある)とのやり取りは、誘拐事件をテーマとする映画やTV番組ではその場面を盛り上げる、
いわば定番の場面の1つでしょう。最近のケースについては筆者も良く知らないのですが、昭和40年代
の刑事ものではそんな場面が何度か取り上げられていたことを記憶しています。

しかし、『天国と地獄』で使われている「傍聴装置」「逆線捜査」という用語は、TVの連続刑事ものの
番組中にも聴いたことはなく、むしろ「盗聴装置」「逆探知」の方が一般的だったように感じます。

ちなみに、『天国と地獄』をヒントにしたといわれる「吉展ちゃん誘拐殺人事件」(1963.03.31発生)で
は、掛かって来た電話から犯人の居場所を突き止める逆探知は認められておらず、また身代金を払ったに
も関わらず被害者が帰ってこないという最悪の結果となった(実際には誘拐直後に殺害されていた)ため、
この事件を契機に逆探知が誘拐事件の捜査の手法として認められるようになりました。
黒澤監督のこの映画は、ある意味で「現実の先を行っていた」という見方も出来るのかも知れません。
吉展ちゃん誘拐殺人事件においては、被害者の家族が誘拐犯とのやり取りを自主的に録音し、それがこの
事件の公開捜査に移行した際に公開され、そこから犯罪の解決・犯人逮捕の手がかりになったと伝えられ
ています。
また、誘拐事件においてプライバシーよりも人質の救出、犯人追跡を重視しての逆探知が捜査手法として
国民的コンセンサスを得られたのは、『天国と地獄』や警察もののTV番組の功績、そして実際に誘拐され、
怖い思いをさせられた被害者たちの貴重な証言(場合によっては犠牲となった被害者家族の)、また執念の
捜査に打ち込んできた警察官たちの血のにじむような努力によるものと言えるでしょう。


戸倉警部は劇中、被害者及びその関係者に対して始終冷静に、かつ優しい話し方で接します。『生きる』
(1952)での、官僚や役人に対する皮肉に近い描写の、アンチテーゼとでも言いましょうか。黒澤監督に
とって戸倉警部は、出世コースを順調に歩みつつも人間味を忘れない、ある種の理想的人物、「こうあっ
てほしい」人物として描かれています。髪型にも注文が多く、裾を刈りこんで七三分けに、なおかつ鏝
(こて)まで使って一切髪型が乱れることはありません。また、しばしば激昂する権藤の怒りを鎮める役割
も引き受けています。

黒澤監督は、米国の有名な俳優Henry Fonda(1905.05.16-1982.08.12)をイメージしてとの指示を与え、
仲代 達矢もその指示を守って役を作り上げていきました。映画の後半では、仲代の演ずる戸倉警部は黒澤
監督の憤怒の感情の代弁者として、卑劣な犯人を徹底的に追及していきます。


ここで、戸倉警部は伶子を呼び止め、坊ちゃんは今どこに?と尋ねます。食堂にいる、との答えを聞いて、
戸倉警部は脇にいた田口刑事(演: 石山 健二郎)に誘拐前後の状況を詳しく尋ねてくれ、と指示を出します。

指示を出し終えてから戸倉警部は「いや中尾、お前行け」とすぐに思い直します--田口君の顔はおっかな
すぎる、坊ちゃんに虫でも起こされたらことだからな。

戸倉警部は微笑しながら新たに指示を出しました。これを聞いて田口刑事は坊主頭を掻いて参ったな、と
いう表情をし、別の捜査員(演: 木村 功)も笑いを堪えます。誘拐事件という気が滅入る様な事件の最中の、
初めて笑いが生じた場面です。

中尾刑事(演: 加藤 武)は「はい」、と応じて伶子の案内に従い、純に誘拐事件の手がかりになる様な話を
聞きにサロンを退室します。
戸倉警部は改めて、父親から進一のことを尋ねるように田口刑事に指示を出します。

田口刑事は進一の最近の写真があればお借りしたいと頼み、青木は「はい、取って参りましょう」と自室
に向かおうとします。青木はサロンから出ながら左手の腕時計で時刻を確かめ、引き返して来て権藤たち
に、「そろそろ河西さんを(羽田空港に)お送りする時間ですが…」と告げます。

戸倉警部は田口刑事に呼びかけ、カーテンをめくりながら眼下の街の様子を伺っています。

河西も自分の腕時計で頃合いであることに気が付きますが、権藤は「それどころじゃあるまい」と河西に
はハイヤーで行くように促します。
河西も了解し、青木には「いいよ」という手真似で気にしないようにと伝えます。

そこへ、突如電話がかかってきます。戸倉警部は、とっさに受話器を取ろうとした河西を制して言います。
--待って下さい!犯人かも知れない。電話の呼び出し音に反応し、青木が慌ててサロンに戻ってきます。

一挙に、サロンに緊張がみなぎります!

田口刑事に2階の電話へ、と指示を出し、「犯人でしたら出来るだけ話を引っ張って下さい。通話時間が長
ければ(犯人が電話を)掛けている場所が突き止められるかも知れない」と言いながらレコーダの録音スイッ
チを入れ、ヘッドホンを装着して「どうぞ」、と権藤に合図します。

権藤は受話器を取り、「もしもし…権藤だが」と名乗ります。

場面は、ここでワイプと同時に電話でのやり取りを再生する場面に切り替わります。

***************

権藤邸のサロンには、権藤夫妻に息子の純が加わり、捜査員4人、河西らが席に着き、進一を攫われた青木
はますます不安を募らせながら脇に立っています。

戸倉警部が、先ほどの電話でのやり取りをレコーダで再生させます。


権藤: もしもし…権藤だが。
電話の男: (不敵な笑いの感情を込めて)ふふ…。子供を間違えた。でも喜ぶのは早いぞ!よおく聴け。
子供が誰の子だろうとこっちは構わない。3000万円、お前が出すんだ!
権藤: そんな(一笑に付して)!(威圧するように)なぜオレが?
電話の男: なぜもヘチマもない!黙って3000万出すんだ!出さなきゃ子供の命はない、ただそれだけ
だ!
権藤: そんな、バカな!
電話の男: その通り!まさにバカな話さ!(純が父の方を振り返り、権藤は純の視線を避けるかの如く
立ち上がってサロンの奥の方へと歩いていく)…子供を間違えたのが怪我の功名でね。良いかい、権藤
さん?脅迫罪は、本人またはその親族に、害を加えるといって脅かさなきゃ、成り立たない。つまり、
私は脅迫なんかしていないって訳だ。それでも、あなたは身代金を出さなきゃならない。出したら全く
のアホだ。でも、出さなきゃならない。
権藤: 誰が!オレは出さんぞ!そんな金は絶対に出さん!
電話の男: 出すね(ここで、河西も席を立ち上がる)。あなたに子供を見殺しにする度胸はない。きっと
出すよ、権藤さん!(電話が切れる)
権藤: もしもし!もしもし!!



戸倉はここでレコーダを止めます。
権藤邸のサロンには、重苦しい雰囲気が沈黙とともに広がります。

田口刑事は戸倉警部と目を見合わせ、坊主頭を掻きながら沈黙を破ります--とんでもない相手だな。
中尾刑事がそれを引き継いで皮肉に満ちた言葉を繋ぎます。「こんなうまい手は初めてですね!これ
じゃ行き当たりばったりに子供を攫って、誰でもいいから思いついた大金持ちに身代金を吹っかけ
りゃ良いってことだ!」
田口刑事が話を続けます--しかも確かに脅迫罪にもならん、いや営利誘拐にもならん。ただの誘拐罪
だから捕まっても最高5年喰らい込むだけだ。


この、田口刑事と中尾刑事のやり取りが、まさに黒澤監督が『天国と地獄』を映画として作った、
核心となる動機を要約しています。まさに、これが映画製作の動機そのものと言っても良い。

エンターテイメントとしての映画を作ることは、映画人にとって映画製作のモチベーションと言って
も過言ではありませんが、同時に誘拐罪に対する罰則が驚くほど軽く、これでは抑止力にならない、
しかもこの企画が動き出した1962年当時、黒澤監督の愛娘・和子さんは8歳になったばかり。実感と
して、子供が誘拐されたら…という思いが、犯罪に対する怒りの炎となって、映画の中と言う制約は
あるものの、悪を徹底的に滅ぼそう、そういう気持ちに駆られたとしても不思議はありません。
これは、本作で主役を演じた権藤役の三船 敏郎も同じでした(犯人役を演じた俳優は、当時独身ゆえ
にあまり実感は湧かなかったものの、結婚して子供をもうけた後は理屈抜きで理解できるようになっ
た、と述べています。これについては犯人像が明らかになった時点で詳細に述べます)。



上の画像は、夏の大三角(こと座・わし座・はくちょう座)を含む夏の星座の画像です。映画には直接、
こうした描写は出てきませんでしたが、映画は真夏のある時期という季節設定で(実際の収録は真冬
であることも明らかにされている)作られている為、天気が良ければこの様な星空が、場所によって
は見えていたかも知れません(1960年代当時の横浜では、そろそろ星を見るのも難しくなっていた
かも知れませんが…)。


ここまでのやり取りを聞いた後、権藤は狂ったかのように笑い出します。


権藤: ふ、冗談じゃない!くふふっ、ハハハ!…笑わしちゃいかん。(怒りの表情に変わって)こんな
手が通用してたまるか!第一…(戸倉警部の方に近寄って)警部さん、あいつはただ私に金を出させ
ようとしているんじゃない。私を嗤いものにして、私を苦しめるだけ苦しめて楽しむ気だ!人が汗水
たらして貯めた金をゆすり取るならまだいい。ただドブへ捨てろという!そしてそれを見物してゲラ
ゲラ笑おうと言うんだ!私ははっきり言う!そんな真似はしない!金は出さん!今度電話をかけて
きたらあいつにはっきり言ってやる!身代金なんか出さん、絶対に!


青木は何も言えないものの、ただ悲しさと無力さを感じてうなだれます。戸倉警部も、苦悩の表情を
見せつつ、言葉を発せずにいます。

伶子は、純の手を握り続けていますが、つい力が入り過ぎ、「痛っ!痛いよママ!」と純が言うのに
我に帰ります。

「純をもう寝かしたらどうだ?」--権藤の声に純は「ボク眠くないよ、進ちゃんが帰るまで起きてる!」
と健気に応じます。

「この子には、もうどういうことが起こったのか、よく分かっているんです」--伶子が俯きながら純の
気持ちを慮ります。「それで、自分の責任のような感じているんです。私だって同じ気持ちですわ」

「この事件にはだれにも責任はないよ、気違いが一人いるだけだ!」--権藤が怒りを吐き出すように伶子
に応えます。


ここで、伶子と河西がやり取りをします。まるで、権藤の中の2つの対立する人格が激論を戦わせるか
のように。

伶子は、進一は純の身代わりに誘拐された様なものだと言い、河西は、大阪に向かって株の購入の手続
きを進めるために手渡された5000万円の小切手を出しながら、ご主人は全財産をこのためにつぎ込んで
いる、この中から犯人に3000万円も犯人に対して放り出したら文字通り会社からも放り出される、そう
いう立場にご主人がいることは分かっているでしょうに、と応酬します。
権藤は、確かに純が人質になっていると思っていた時にはいくらでも払う、と言っていました。そうで
ないと分かってからは態度が急変、びた一文出さないと断言しています。しかし、権藤とて人の子、血
の繋がりのない子供となれば身代金の支払いには躊躇する、これはある意味無理からぬ感情でしょう。

河西と伶子とのやり取りに、一旦腰かけていた権藤は立ち上がって「止めろ!」と河西を制止します。

河西は決まり悪くなり、小切手を財布にしまいます。


伶子は、もう寝ましょうと純を促します。進一が心配でたまらない純は「でもぼく…」ととどまろうと
がんばります。では寝なくていいから、部屋に行きましょう、と促されて渋々ながら純は頷きます。
伶子は捜査員一同に一礼し、座っていた田口と戸倉も立ち上がって答礼、部屋に戻る二人の後ろ姿を
見送ります。


立ち上がった4人の捜査員のうち、田口刑事を除く3人が着席します。

「ねえ警部さん」--河西がおもむろに戸倉警部に話しかけます。「は?」といぶかしそうに警部は返答
をします。河西は、心の中に湧きあがって来た疑問を警部にぶつけます。
この会話の最中に、権藤も窓際の席に座ります。


河西: 身代金を出せば、子供は無事に戻ると、保証できますかね?…子供はもう、殺されているかも知
れない。いや、身代金を払っても殺すかも知れない。それじゃ身代金を出すなんて、全く無意味だ。
戸倉警部: そうです、しかし殺されてさえいなければ、役に立つかも知れません。我々はそこに希望を
持つしかない。
河西: (権藤の様子を確かめて)ところで、もし身代金を出さなかったら、犯人はどうしますかな?言って
いる通り、子供を殺すかどうか…。電話の話しっぷりから見ても、犯人は相当に頭の働くやつらしい。
子供を殺せば死刑だ。身代金が取れないからって…そんな危ない橋を渡るとは思えませんがね。
戸倉警部: しかし犯人は…(権藤の方を振り向く)。先ほども権藤さんがおっしゃったように、異常な執念
を持ったやつです。偏執的だと言っていいほど、皮肉な計算を立てている。こういうやつは自分が組み
立てた論理を守り通すと考えなければなりません。金を出せば子供は返すと言っている。まあ恐らくあっ
さり返すでしょう。しかし、出さなければ殺すと言ってる。恐らく…。


戸倉警部の言葉に全員が権藤の方を見て、権藤もその視線に全員を見返します。重苦しい雰囲気が再び
サロンに満ちてきます。


戸倉警部: (立ち上がって)とにかく、この事件はひどく悪質だ。僕は刑事部長に電話をして、特別捜査
本部を置いてもらう(他の捜査員も立ち上がる)。君達は手分けして、この家の人たちからの聴き込みを
続けてくれ(戸倉の指示に3人とも一礼し、サロンから出ていく)。(権藤に向かって)ああ、それから権藤
さん、この電話が掛かったら、受話器を外す前にまず私たちを呼んで下さい。


権藤は頷き、戸倉警部もサロンから退出します。必然的に、河西と権藤の二人がサロンの中に残される
ことになります。

河西は尋ねます。今夜は大阪へ行くのか行かないのか?行くのならば急がなくてはならない。しかし、
権藤は苦悩します。まさに、先ほど伶子と河西が繰り広げた様な対立する感情がせめぎ合い、気持ちの
整理がつきません。

河西は立ち上がり、脱いでいた背広をつかんで出発しようとします。権藤の苦悩する様子に立ち止まり、
「考えることは何にもないはずですよ。金を出したら、我々は破滅です!それだけですよ」と決断を促し
ます。

権藤の、事業家としての気持ちが勝利したかのように見えました--行ってもらおう。

しかし、電話の呼び出し音が鳴り、びくっと権藤が反応して立ち上がります。河西は背広を着込んで身
なりを整え、決然と告げます。

「私は行きますよ、(指差しながら)この電話が、どこからだろうと!」権藤も、「よし、行け!」と河西に
促します。

河西はサロンの出口に向かって歩き始めます。

これはある意味、悩める心を持つ全ての人にとっての教訓ともなりうることですが、最終的に結果が出
ないうちは、逡巡する気持ちが消えない限り最終的な勝利を見届けるまでは手を緩めてはならない、と
いうことを意味するのでしょう。

居ても立っても居られない気持ちの青木がサロンに駆け込んで来て、鳴り続ける電話にうろたえます。
権藤は河西を呼び止め、2階に行った戸倉警部に大声で呼びかけます。河西は腕時計を確かめ、苦り切
った表情です。


戸倉警部: 犯人だったら出来るだけ長く!さっきは時間が足りなかった。2階の電話は良いな?


ヘッドホンの一方を戸倉が持って耳に当て、他方は田口刑事が耳に当てます。中尾刑事は田口刑事の
ヘッドホンに耳をそばだてます。青木は3人の捜査員のそばに寄ってきます。


権藤:もしもし。権藤ですが。
電話の男: 子供は元気だ。今声を聴かしてやる!
進一(電話): お父ちゃん!お父ちゃんいる?!
青木: 進一!進一!
進一(電話): お父…!
電話の男: おい。この子を生かすも殺すもあなた次第だ。


サロンの入り口に、伶子が立って成り行きを見届けています。


電話の男: …ま、よおく考えるんだな。じゃお休み。権藤さん!(電話が切れる)
権藤: あ、もしもし!もしもし!


誘拐犯は権藤の心理を見抜き、まるで嬲るように権藤を苦しめます。権藤は受話器を叩きつけるように
戻し、レコーダを切りながら戸倉警部も「ダメだ、また逃げられた!」と悔しさを隠しません。田口刑事
は、人情家らしく悲しさと怒りの表情を見せています。


息子を攫われた青木は進一の電話越しの声を聞かされ、ついに感情が堰を切ったように権藤に懇願を始
めます。


お願いします、進一を助けてやって下さい。3000万などと言う、大変なお金を、進一のために出して
くれなどと、とても進一の今の声を聴くまでは、とてもそんなお願いが出来るなんて、思ってもいなか
ったんです--。

権藤は一層苦悩します。サロンの中を歩きながら、行ったり来たりするのを青木は追いすがるようにして
私は何でもします、これから死ぬまで働きます、進一にも働かせます、と泣きながら訴え、ついには床に
ひざまづいて懇願します。

止めてくれ、頼むから立ってくれ、と権藤は必死になって感情を抑えようとします。出来れば金は出して
やりたい、しかしそれは出来ない、そうすれば事業家としては命取りとなることが分かっているからです。

私は行きますよ、良いですね、と河西は権藤に確認し、サロンを出ようとするところを伶子が待つように
命じ、青木に寄り添い、お金を払う様に私からも権藤に頼むから、と青木に立つように促します。

河西は事の成り行きにいら立ちを覚えています。捜査員たちは、当然職務として犯罪捜査はするが、立場
上、権藤たちの事情には口を挟めません。


そこへ、パジャマ姿の純が現われ、「パパー、進ちゃんまだ?」と権藤に無邪気に尋ねます。


権藤は河西に、大阪行きは明日まで延ばせ、と命じます。「いや、しかし…」という河西の不満に「いいから
延ばすんだ!」と断言します。

河西は、託されていた小切手を財布の中から取り出すと、「それでは、ひとまずこれは」と突き返すように
権藤に返します。河西はうなだれている青木のそばに立って不満げに青木を見つめた後、憤然としている
気持ちを腕組みで示します。


権藤は戸倉警部のいる席まで歩くと、寝室に戻ることを告げるべく挨拶をします--じゃあ失礼します。疲
れた!--純を肩に担ぎ、寝室に向かっていきます。

入れ替わるように、2階で逆線捜査をしていた捜査員がサロンに入ってきます。捜査員は、2階に向かう
権藤をまず目で追い、サロンに目を向けて微妙な空気が漂う様子に足を止めます。何が起きていたのか
分からず、その捜査員は戸惑い、再び権藤が歩いていった方に目を見やります。


***************

画面は再びワイプで、翌日の様子に切り替わります。綺麗に整えていた権藤の髭も、めまぐるしく色々
なことが起きた前日の夜の感情を引きずっていることが、無精髭が生えている様子から伺えます。


2階の寝室から権藤が階段を下りていくところから、事件発生翌日の場面が始まります。





(次ページに続く)



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(参考文献は全て最終ページに)





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