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「アインシュタイン友情の碑」への道しるべ
トップページ > 見聞録 > アインシュタイン友情の碑訪問記-徳島県美馬市穴吹(その1)

徳島県美馬市にある世界的医師・三宅 速(みやけ はやり)と「アインシュタイン友情の碑」(その1)


徳島県美馬市に、「アインシュタイン友情の碑」を訪れてきました。


2015年は、アインシュタインの一般相対性理論(1915-16)が提唱されて100周年となります。それを
記念しての『国際ひかり年』(International Year of Light)でもあります。


Albert Einstein(1879.03.14-1955.04.18)は、その伝記を含めて、特殊相対性理論(1905)と一般相
対性理論(1915-16)に関する解説本は数多く出版され、一般向け科学TV番組もたびたび組まれるなど、
その人気は衰えを見せることはなく、プラネタリウムの投影用番組でも一定の鑑賞客数が見込めるなど、
アインシュタイン博士自身の人となりともあわせて日本人には最も親しまれている科学者の一人である
と言えるでしょう。

よれよれの衣服とぼさぼさの髪型という、一見科学者らしからぬ博士の外見は、天才科学者のステレオ
タイプのように描かれることもしばしば。かの手塚治虫のコミックス(例:『鉄腕アトム』)の登場人物の
容姿にも影響を与えていると言われています。


簡単におさらいをすれば、特殊相対性理論は重力のない場での慣性系を取り扱った理論で、物質が光速に
近づくと相対的に質量が増え、結果として物質は光の速度を越えられない、あるいは観測者の速度により
各々の時間の進み方が変わる(相対的)ことを説明した理論です。
一般相対性理論は特殊相対論に加速度および重力の効果を組み込んだもので、この両者を合わせて「相対
論」と呼びます。巨大な重力により光の経路が曲がる(重力により空間がゆがむので、最短距離を進もうと
する光の経路が、結果として外部の観測者からは光が曲がったように見える)という予言は、1919年に英
国の天文学者・サー アーサー=エディントンが率いた観測隊による皆既日食で太陽の背後の星の位置が変
化する観測結果で実証され、第1次欧州戦争で戦い合ったドイツと英国が科学の分野で協力した、平和を
象徴する出来ごととしても歓迎され、アインシュタインの名声を高めることとなりました。


さて、今回のコラムは、相対性理論の解説を目的としたものではありません。アインシュタイン博士と長
く親交を持った、世界的な日本人名医との出会いと、彼らのその後の運命を物語る「友情の碑」を訪問し
た記録です。


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筆者(U.M.)は、あるプロジェクトに関与している関係で、日本国内各地に伝わる星にまつわる伝承の取材
を本業である天文台職員としての業務の傍ら、その延長として、或いは個人的な好奇心をもって調べてい
ます。

そのプロジェクト『アジアの星』では、最も長く・丹念に調査を続けている北尾 浩一氏が主力メンバーで、
筆者も北尾氏のそれに遠く及ばないものの、少しずつ自らの見聞を広めているところです。

そのプロジェクトでは、参加メンバーの勤務先の関係で、どうしても調査が及ばない部分も生じており、
四国の、とりわけ徳島などはほとんどめぼしい星の伝承が集まらない、という空白地帯になっていました。

実際のところは、単に伝手がない、或いは誰に尋ねれば良いか、またはどこを訪れれば良いかが分からない、
と言うだけのことだったのですが…。

そんなわけで、少し調べてみたところ、インターネット検索でも引っかかる題材はありました。そして偶然、
見つかったのが徳島県美馬市の「アインシュタイン友情の碑」だったのです。

2013年4月に、高知県幡多郡大月町の月光桜を見に行った関係で、四国域内の別の場所にも訪れたい場所が
あった為、併せて取材に行くことに決め、職場は2015年7月末から8月初めまでの4日間ほど、土日を含めた
休暇を取る形で訪れることにしました。


宿を取った場所が愛媛県伊予三島市だった関係もあり、徳島県美馬市へは列車での移動となりました。予讃
線~土讃線~徳島線(吉野ブルーライン)と3つの路線を乗り換え、往復はほぼ1日がかり。最寄り駅であるJR
穴吹駅は徳島県のほぼ中央付近に位置しています。



これが、JR穴吹駅の駅舎です。

徳島線の別名・吉野ブルーラインの名が示す通り、この路線は吉野川の近くをほぼ伴走する形で敷設され
ています。吉野川は、四国最大の河川の1つで、一度は目にしてみたいと思っていた河川でもあったので、
ここに訪れることが出来たのは別の意味でも嬉しいことでした。穴吹駅を降りると、その正面に吉野川
の流れが見られるデッキのような設備も作られていました。



これは、駅前から目的地に向かって少し歩いた場所から見た吉野川です。ここから、河口まで直線距離に
しても40km以上あります。幹川流路延長194kmとのことですから(実際にはこの場所から河口までの流
路長はもう少し長くなりますが)大変な長さということになります。



目的地への道のりは、JR穴吹駅から約3.5kmです。当初のルート設定では徒歩30分程度で到着できる
という結果だったのですが、7月末の昼下がりの猛暑の中、3.5kmの道を徒歩で30分で辿り着くなど、
至難の業です(実際のところ、50分くらいは掛かったと思う)。周囲は上掲画像の通り、のどかな田園
地帯が広がる場所でしたが、訪れた時期があまりにも暑すぎました。


さて、ここで「アインシュタイン友情の碑」が贈られた人物についての出自と、アインシュタイン博士
との出会い、アインシュタイン博士来日とその人物との交流について取り上げていきましょう。


三宅 速(みやけ はやり:1866.03.18-1945.06.29)は、徳島県穴吹町舞中島(現在の美馬市穴吹町)に医
家の長男として生まれ、12歳で上京、25歳で東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業、
故郷の徳島市に西洋式の三宅病院を創立しています。33歳の時にドイツに留学してミクリッツ教授に師
事、胆石症研究で世界的な医師となりました。
この時、三宅医師が師事したミクリッツ教授は、ウィーン大学で世界初の胃癌手術を成功させたテオド
ール=ビルロードの「門弟三羽烏」と呼ばれた弟子の1人です。
ドイツ留学での修業を経て帰国後には大阪府立医科大学(現在の大阪大学)の付属医院医科部長、福岡医科
大学(現九州大学)に赴任、再度のドイツ留学を経て38歳で福岡医科大学教授、1910年に九州帝国大学
初代外科部長に就任しており、医療の指導者として、また内臓外科の名手として厚い信望と名声を得まし
た。父親からは、三宅病院の経営を継ぐように求められていたものの、三宅医師自身は病院経営の才覚が
自分にはない、と三宅病院時代の高弟に経営を任せています(その為、その高弟が引退した際に後継者が
おらず、三宅病院は廃業となった)。


さて、アインシュタイン博士は1920年代において日本においてもその名声が知られるようになっており、
東北帝国大学が教授としてのポストを用意して招聘を打診したものの実現ならず、来日招待については受
けてもらい、こちらは実現しています。当時は海外渡航は船旅が一般的だったため、欧州航路に就いてい
た日本郵船の北野丸にエルザ夫人を伴って乗船しました。北野丸の出航は1922年10月8日、フランス・
マルセイユ港からでした。

一方、三宅 速医師も欧州視察旅行の日程を終え、同じ北野丸に乗船することになります。この乗船時に、
アインシュタイン博士夫妻と三宅医師とが既に顔見知りになっていたようで、これが、彼らが後に知己を
得るきっかけともなっていきます。

北野丸の経路は、1869年11月にスエズ運河が竣工・開通している為、地中海-紅海を経てインド洋経由
で日本に向かう航路を取っていたと思われます。

アインシュタイン博士は一般相対性理論の論文を執筆・発表した翌年の1917年頃から肝臓病や黄疸の持
病を抱えるようになり、折悪しく北野丸船上で病状が悪化、船医に診てもらうものの改善が見られなかっ
た為、不安を抱えることになった妻のエルザが藁にもすがる思いで、三宅医師に博士の診察を依頼します。
三宅医師は当時すでに世界的名声を得ており、北野丸に同乗していたことを思い出して相談しに行ったの
でしょう。

三宅医師は、船室のベッドに臥せているアインシュタイン博士を診察し、心配には及ばない、船医には薬
を処方することを告げ、希望があれば三宅医師自身も診察に応ずること、また運動不足による影響もある
為、晴れた日にはデッキに出て軽く体操をするなどの助言も与えています。

三宅医師の的確な診断と投薬、そして助言に従ったアインシュタイン博士は次第に快方に向かい、すっかり
健康を取り戻して、三宅医師に深い感謝の意を表します。

北野丸船上での出会いと持病の治療による病気の快方という出来事から、三宅医師とアインシュタインは主
治医とその患者という関係を越えて深い友情を結ぶに至ります。北野丸のデッキで撮られたと思われる三宅
医師と博士とのツーショット画像も美馬市の観光情報サイトに掲載されています。

美馬市「アインシュタイン友情の碑」情報サイト (外部サイト)


北野丸での航海は、アインシュタイン博士にもう1つの幸運をもたらすことになります。

よく知られているように、アインシュタインが博士号を取得するために論文を執筆した1905年は、優れた
研究論文が5本も立て続けに執筆されたことから「奇跡の年」とも呼ばれています。博士論文として受理さ
れたのは「分子の大きさの新しい決定法」で、これは後に分子のブラウン運動の理論へと発展します。5本
の論文のうちの1つが「光電子仮説」、つまり金属に高エネルギーの光が当たると電子が放出される現象を
説明するもので、光電子増倍管(2015年のノーベル物理学賞の受賞理由となったニュートリノ振動の理論的
解明に役立った検出器)の動作原理をも説明する仮説でした。

この、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明を述べた論文が1921年度のノーベル物理学賞の受賞対象
となり、北野丸船上にいたアインシュタイン博士に電報で知らされます(受賞は1年間保留になっていた)*。
1922年11月10日、北野丸が香港~上海間を航行中のことでした。


*これは、相対性理論の内容がなかなか学会に受け入れがたかったことや、アインシュタインがユダヤ系で
あり、余計な誹謗中傷をアインシュタインが受けないようにする為のスウェーデン科学アカデミー側の配慮
によるもので、実質的には相対性理論提唱と実証によって理論の正しさが裏付けられた功績に対するものと
みなして良い。


北野丸は11月13日に上海に入港して翌14日に出港、11月17日に神戸港に到着、乗船者らも上陸しました。
日本に向かう途上でのノーベル賞受賞の報により、アインシュタイン博士は来日と同時に大歓迎を受ける
ことになりました。

神戸港でアインシュタイン博士らを迎えた人物の中には、当時東北帝国大学教授だった長岡 半太郎もいま
した。長岡教授は、原子の土星型モデルを提唱した人物として有名ですね。


アインシュタイン博士はほぼ日本を縦断する様な講演や歓待、観光旅行で分刻みのスケジュールに追われる
身となりました。

一方、アインシュタイン博士を船上で治療した三宅医師は、勤務地である福岡の自宅に帰り、博士とは一旦
別れるものの、博士夫妻は帰国直前に三宅医師の自宅に招かれ、家族ぐるみでの交流を楽しみました。博士
らは講演旅行の随伴者を三宅医師宅には一切寄せ付けず、何度か「時間です」と呼びに来た使者にも「まだ
もう少し」と応じて、邪魔もののいない三宅医師宅でゆったりした時間を過ごしていたようです。

帰国したアインシュタイン博士夫妻と三宅医師との交流は長く続きましたが、欧州に再び戦争の暗雲が垂れ
込め、ヒットラーがナチス政権を樹立させてユダヤ人排斥を国策として推し進めるようになると身の危険が
迫ったことから米国に亡命、三宅医師との音信が途絶えてしまいます。




「アインシュタイン友情の碑」のある位置を示す道しるべが見えました。ここからあと120mほど先に
目指す友情の碑がある、ということです。



(次ページに続く)


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報告者: U.M. (月光天文台)


(参考文献などは最後のページに)




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