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 ★2033年旧暦問題の背景と要点

                   -> 2033年問題の要点                           2015年4月13日

                    2033年旧暦問題の背景

 2033年問題といわれる問題が、暦研究者とカレンダー業界などで注目されています。

 簡単に言うと、西暦2033年に旧暦が決められない事態が迫っている、ということです。

 

旧暦について少し説明すると、日本では明治5年(1872)まで使われていた、月のカレンダーを太陰太陽暦といい、現在使われている太陽暦に対し太陰暦、また単に陰暦とも呼びます(太陰は月のこと)。これが「旧暦」で、140年以上前の暦です。

 

●旧暦は月の満ち欠けを基準として日にちを数える暦で、月の満ち欠けの一巡りを「朔望月」といい、これを「ひと月」とします。朔(さく)は新月、望(ぼう)は満月のことです。

 

 月が太陽と同じ方向にあるときが「朔」で、このとき月は地球に陰の部分しか向けていないため見えません。さらにいえば、太陽の方向とはつまり昼間の空にあるわけで、太陽が沈むころ同じ方向の月も沈んでしまいます。夜空には月が無い「闇夜」となります。この朔を含む日が、旧暦の1日(朔日・ついたち)となります。「ついたち」とは、新しい「月が立つ」からきているそうです。

 

 ●太陽が背景の星座に対して1日に動く大きさは、角度で1度ほどです。これは実際は地球が太陽を回る反映で、地球は約365日かかって太陽を一周します。円周の角度を360度としたのは、この1365日に関係しています。

 これに対して月が星座に対して東へ動く速さは、どれ程でしょう?

月がある星座から動いて行き、再びもとの星座(元の位置)に帰るのは、約27.3日で、これを「恒星月」といいます。360度を27.3日で動くのですから、割り算をすると1日に動く角度は13度あまりになります。

 見かけ上、月は太陽より、およそ13倍も速く空を動いているのです!

 

 その結果、太陽と同じ方向にあった月は、1日後には12度、太陽の東にあります。そして3日も過ぎると、太陽が沈んだ西の空がやや暗くなる頃、(太陽から30度以上も離れて)細い月が見えるようになります。旧暦で三日の夕方に見える月を「三日月」と呼んだのです。

 

 こうして月の位置はどんどん太陽から離れ、新月から7日ほど過ぎると、太陽の東90度「直角」になり、半月のように見えます。この月が満ちていく途中でなる半月を「上弦」といいます。弦は弓の弦を意味し、月面の光と影の境界が、弓の弦のように直線状になっている姿です。

 

 さらに月が太陽から180度離れて、太陽の反対側(地球から見て)になった時が「満月」です。旧暦では15日頃で、「十五夜」といわれます。

 

 

さらに満月から欠けていく途中でなった半月を「下弦」といいます。そうして月はまた太陽の方向へと帰ります。この月の満ち欠けの一巡り長さが平均29.5日で「朔望月」といいます。

 

 天空を360度回る恒星月が27.3日なのに、朔望月は何故2日余り長いのでしょう?

 これは月が地球を回っている間に、地球自身が太陽を回っているため、月が少し余分に回らないと、元の位置関係にもどらないからです。

 

●さて、古代の人々が、誰の目にも明らかな月の満ち欠けを利用して作ったのが暦・カレンダーです。ユダヤ人や古代ローマ人は、新月の後の細い月を見て、大きな声で人々に知らせる習慣があったといわれます。呼ぶというラテン語のカラレが、カレンダーという言葉の由来ともいわれます。

こうして多くの古代文明で、暦はまず月の暦として始まりました。

 

 ところがそこに大きな問題がありました。

 朔望月のひと月は、約29.5日ですが、一日の途中で日付が変わるのは不便なので、29日のひと月と30日のひと月を交互に置くなどの工夫をしました。ところが月の満ち欠けのひと月を12回繰り返した日数は、29.5×12354 で354日にしかなりません。しかし地球が太陽を回る長さ、つまり1年は365日ほどなのです。なんと11日も短いのです。季節より周期の短いカレンダーは、どんどん季節を追い越して行きます。3年たつと33日と、約1ヶ月も早くお正月がくることになるのです。

 

 農業を始めた人類にとって重要なのは、いつ種をまくか、いつ収穫を始めるかといった太陽の動きによって決まる季節なのです。季節を示さない暦は、自然と共に生きる人間の生活の指針にはならないのです。

 

 そこで、季節を追い越していくカレンダーに、決まった12ヶ月以外に、余分なひと月を加えて、進み過ぎた暦日(れきじつ)を後に戻すやり方を考案しました。これが「閏月(うるうづき)」です。つまり月の満ち欠けによって日付を決めるけれど、1年という太陽の動きによって起きる季節の周期を組み合わせたもので、「太陰太陽暦」と呼ばれます。

 閏月の入れ方は、それぞれの文明によって工夫されました。

 

古代中国ではこの「太陰太陽暦」が発達しました。農業にとって重要な季節を知らせる暦であるため「農暦」とも呼ばれました。

 

 しかし想像してみて下さい。同じ31日でも、閏月のない年の31日と、閏2月の後の31日では、同じ日付でも、同じ正しい季節を表しているとは言えないでしょう。どうしても閏月のない31日は、季節よりだいぶ早くなっているはずです。


 ●正しい季節を表すため、暦を作る古代中国の専門家は考えました。「月の満ち欠けとは別に、太陽の位置だけで決まる季節の目安を入れよう!」。こうして古代中国の暦に取り入れられたのが「24節気」です。

 太陽が南へ下がり、昼間の長さが最も短くなる「冬至」。逆に太陽が北へめぐり昼間がもっとも長い「夏至」。春の半ばの「春分」、秋の半ばの「秋分」などで、この4つを「二至二分(にしにぶん)」といいます。

 これらは太陽の運行を天文学的に観測して得られる基準です。こうして1年を24等分して、その季節を表す名前を付けたのが「24節気」です。

 太陽が最も高くなるお昼の12時ころより、やや遅れて暑さのピークが来るように、季節の変化も太陽の動きより2ヶ月ほど遅れて地上にやってきます。

 24節気は大きく「節気」と「中気」が交互に置かれ、季節を表します。

 

 

 この24節気は、月のカレンダーを作るうえでも重要な役目を負っています。繰り返す月の朔望のどれを年初(正月)とするのか、またどの月を閏月するのかという基準になるのです。

かつて古代中国では、冬至の含まれる月を正月とするなど、いくらかの変遷がありました。

6世紀頃、朝鮮を通して中国の暦は日本へ伝えられました。中国(唐)と国交のある奈良・平安時代のころまで、日本は中国の新しい暦を取り入れていました。中国から伝わった5つの暦法を「漢伝五暦」といいます。しかし唐が亡ぶ頃、中国との国交は途絶えてしまいます。

 

●やがて江戸時代になると、日本人自らが暦学を学び、天文を観測して、日本の位置(緯度・経度)にあった太陰太陽暦を、初めて日本人の手で作りあげました。江戸幕府は暦を作ることができる人材を「天文方(てんもんかた)」として召し抱え、暦による神社仏閣の統制をすすめました。その後、日本人によって3回の改暦がなされました。最後に作られた太陰太陽暦が「天保暦(てんぽうれき)」です。

 

この天保暦による、暦を作るルールは以下のようなものです。

a)太陽と月の黄経が相等しい時刻を朔とする

b)暦日は京都における地方真太陽時0時に始まる

c)暦月(れきげつ)は朔を含む暦日に始まる

d)暦月で冬至を含むものを11月、春分を含むものを2月、夏至を含むものを5月、秋分を含むものを8月とする。

e)閏月は中気を含まない暦月に置く。中気を含まない月が、すべて閏月とはならない。

 

 現在の「旧暦」は上記(b)の代わりに、「暦日は東経135度における地方平均太陽時、すなわち日本時0時に始まる」としたものです。


 

 天保暦は、太陰太陽暦としてほぼ完成されたものです。

 そのルールは、今日まで旧暦を作るうえで、無事その役目をはたしてきました。

 

 ●日本の歴史はその後、大きな変化を迎えます。明治維新です。薩摩・長州が主体となった明治政府は、日本の中央集権化、近代化を進め、欧米の文化を次々と導入することになります。明治6年、ついに欧米の太陽暦が日本に導入されました。上からのあまりにも急な制度の変更に、多くの人々は戸惑ったようです。

 

 暦の上でも、明治政府は様々な暦註(れきちゅう・暦の注釈)が書き込まれた陰暦を「迷信の巣窟」のようにみなし、自由に暦を作ることを禁止しました。しかし民衆の間では、なれ親しんだ陰暦を求めたため、公認されない「お化け暦」が大量に出回ったとされます。

 政府の意向を受けて暦を作成する国の機関も、そのころは旧暦には冷淡だったそうです。

 

 こうして、旧暦は国の公認のないまま、しぶとく今日に至っています。旧暦にもとづく行事も有り、大安・仏滅など、旧暦によって日の吉凶を占うことが今もあります。

 お隣の中国・韓国では、旧暦のお正月・春節などが公式の祝日となっています。

 

 ■さて、この旧暦を作るこれまでのルールでは、月が決められないという事態が2033年に起きるのです。

 その詳しい内容はやや専門的なので、別枠にまとめます。天文学的にも、暦学的にも解決できない事態が生じています。そしてそれ以上に問題なのは、統一見解を出すべき権威・国が、現在のところ旧暦への関与を避けている、ということなのです。

 

 では庶民がてんでに旧暦を作ってしまったらどうでしょう。この本では今日が大安、あの本では今日は仏滅、あるいはこの暦では旧暦の12月なのに、あの暦では旧暦のお正月、などということが起こりうるのです。

 このような無秩序な状態を招いてよいものでしょうか?

 先年亡くなられた暦の研究の大家であった岡田芳朗会長(暦の会)は、そのような事態について懸念を表明されていました。

 

 ともあれ、この2033年問題を契機に、旧暦について、また日本の伝統文化について再考する機会として、その重要性を社会にアピールすることが大切ではないでしょうか。

 

                                           〔月光天文台〕


 

2033年問題の要点

 

●「2033年問題」とは、西暦20332034年に発生する、「天保暦のルールで、旧暦の暦月の配置が決められない」という問題である。

 

天保暦のルールは以下の通り(再掲)。

a)太陽と月の黄経が相等しい時刻を朔とする

b)暦日は京都における地方真太陽時0時に始まる

c)暦月(れきげつ)は朔を含む暦日に始まる

d)暦月で冬至を含むものを11月、春分を含むものを2月、夏至を含むものを5月、秋分を含むものを8月とする。

e)閏月は中気を含まない暦月に置く。中気を含まない月が、すべて閏月とはならない。

 

 現在の「旧暦」は上記(b)の代わりに、「暦日は東経135度における地方平均太陽時、すなわち日本時0時に始まる」としたものです。

 

●平山清次による整理

 天文学者で東京天文台の編暦主任であった平山清次氏は、天保暦のルールを以下のように整理し、「日本百科大辞典」「太陰暦」の項に下記のように記した(1912・大正1)。以後旧暦はこのルールによって作られてきた。

====================================

(一)太陽と月の黄経が相等しい時刻を朔とする(定朔・※1

(二)黄道十二宮の初点に太陽のある時刻を中気とする(定気・※2

(三)暦日は京都における地方真太陽時0時に始まる

(四)暦月は朔を含む暦日に始まる

)暦月で冬至を含むものを11月、春分を含むものを2月、夏至を含むものを5月、秋分を含むものを8月とする。

)閏月は中気を含まない暦月に置く。中気を含まない月が、すべて閏月とはならない。

 

明治5年改暦以後同42年まで太陽暦に附して頒布したる太陰暦もまたこの原則によりたるものなり。ただし第三項の日の始めは明治20年までは東京における地方平均太陽時0時を採り、以後は中央標準時0時に改めたり。 

                       〔一部現代仮名遣いに改訂〕

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 ルール(一)は「定朔」、(二)は「定気」を用いることを示し、(三)は天保暦が不定時法であったことに由来する。ルール(四)は、古来の暦法と同様に、朔閏配当が朔と中気の時刻によらず日付のみで決定されることを意味する。ルール(五)・(六)は中気と月番号との対応を緩めたものである。定気の採用により中気と月番号が11に対応しなくなるためである。

 さらに条文にはないが「欠月(月の順を跳ばす)」の禁止がある。

(七)月番号に跳びがあってはならない

 

■朔と24節気の決め方

 ここで「定朔」とか「定気」という一般的にはあまり聞きなれない言葉がでてきた。陰暦の作製の基本的な事柄なので、簡単に触れておこう。

 

(※1)平朔と定朔:朔の決め方

「平朔」は朔望月の平均の長さを積みかさねた、初歩的な朔の決め方。中国の元嘉暦がこれで、それはまた日本で使われた最初の太陰太陽暦であった。あくまで平均であるため、1日が朔と一致しないこともあり、その前日や2日に日食が起きると、暦の不備が明白になった。

   そこで、平均朔望月に観測によって得られる修正値を加減し、より実際に近い朔の時刻を求めたのが「定朔」。元嘉暦の次の儀鳳暦以降の日本の8つの太陰太陽暦は、すべて定朔が用いられている。

 

(※2)平気と定気:24節気の置き方

24節気を決める伝統的方法が「平気(恒気ともいう)」。これは1年の時間的長さを24等分して、その分点に節気を配置したもので、春分・夏至・秋分・冬至は黄道上の太陽の位置と必ずしも一致しない場合がある。それは地球の軌道が楕円のため、その運行に遅速があることによる。

日本では、最後の陰暦である天保暦の前は、すべてこの平気が用いられた。その段階の閏月を入れるルールは、「中気のない月を閏月とする」というシンプルなものであった。

 

   ニュートン力学が生まれ、天文観測技術の進歩の結果、より正確に二至二分を表す方法が考えられた。春分点を基点に、黄道を(空間的に)24等分して、15度ごとの分点を太陽が通過する時刻を24節気としたもので、これが「定気」である。現在もこれが使われている。

 

 日本最後の陰暦となる天保暦(1844年から実施)から採用された定気では、季節によって節気・中気の長さが異なるため、1朔望月に中気が2つ入ったり、逆に入らないことが起きる。そのため月番号を決めるのに、ルール(五)(六)のような決まりが必要になった。また太陽から遠い夏のころは地球の動きが比較的遅いため、閏月が置かれる割合が冬季より多くなっている。

 

●問題となる2033年の事例 

 No. 朔  〔年/月/日〕
 中気と閏月候補 (中気、または閏月候補)
 1 2033/08/25 中気なし(閏7月)?
 2 2033/09/23 09/23(秋分)
 3 2033/10/23 10/23(霜降) 中1ヶ月
 4 2033/11/22 11/22(小雪)、12/21(冬至)
 5 2033/12/22  中気なし(閏11月)?
 6 2034/01/20 01/20(大寒)、02/18(雨水)
 7 2034/02/19  中気なし(閏正月)?
 8 2034/03/20 03/20(春分)
 9 2034/04/19 04/20(穀雨)

2033-2034年の朔〕

 問題となっている2033-2034年の朔閏配置を表にしてみた。中気がない月が3つある。

秋分を含むNo.28月として、月番号をあてはめると、冬至を含むNO.410月となって、ルール()に反する(冬至の月を先に決めても成り立たない)。

さらに冬至のある月No.411月とし、春分を含むNo.82月とすると、その間に中気のない月が2No.5No.7があり、どちらとも決める方法がない。

 つまり「ルール()の矛盾」と「ルール()の不完全」の両方の問題が、顕在化したのが「2033年問題」である。

 天保暦を引き継いだルールでは、旧暦が決まらないのである。

 

 ■ただ、この天保暦のルールは公文化されたものではなく、明治改暦のはるか後、旧暦が公的な頒暦に記載されなくなった(明治421909)後、民間の辞書に載ったものが、そのまま踏襲されたものに過ぎない。

 

 ちなみに中国の陰暦(農暦)である時憲暦では、定気を採用しているがこのような問題は起きない。

 それは、日本のルール(五)と(六)を用いていない。

 時憲暦は、次のようなルールとなっている。

(時憲五)冬至を含む月を11月とする

(時憲六)次の冬至まで13ヶ月ある場合、最初の中気を含まない月を閏月とする

 

  ルール(時憲五)より、2032年と2033年の冬至の間隔は、中11ヶ月なのでNo.1は閏月から外される。またルール(時憲六)よりNo7が閏月から外され、NO.5が閏11月と決まる。

 

★日本独自のこの2033年問題、解決策はあるのでしょうか?

 

〔参考:暦の百科辞典/本の友社、新こよみ便利帳/恒星社厚生閣、須賀隆氏のコラムより/暦の大事典/朝倉書店・他〕

 

 
                                                                                       〔月光天文台〕


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