天文と暦・ユリウス暦・グレゴリオ暦
☆天文と暦
空にある太陽、月、星などが運行するようすを古代中国では「天文」と表現しました。天の文(フミ)、天の文章ということでしょうか。私たちが住むこの地上世界は、天文と切り離せない一体の世界です。たとえば日が昇れば明るい朝となり、やがて昼となり日暮れとなります。日が沈むと暗い夜となります。つまり一日という繰り返しは太陽の出没によって起きるわけです。
☆太陰暦
現代のように電気もなく、夜の照明もとぼしかった古代においては、夜に月の明りがあるかどうかは大きな関心事だったでしょう。月の形の変化は誰の目にも明らかです。この月の形のひとめぐりが一月の長さとなりました。
古代文明のほとんどは、過ぎ行く日々を一月の長さでまとめる月の暦(大陰暦)として始まりました。
☆太陽暦
ところが人間の生活や産業にはもっと大切な周期があります。それはこれから暖かくなるのかそれとも寒くなるのかという寒暖の変化、つまり季節の循環です。この一年という長さは、地球が太陽を一巡りする長さです。地上からみると、太陽が空高く昇り昼間の時間が長くなると夏になり、逆に太陽が低く昇り昼間の時間が短いと冬になります。この四季の循環を基礎にした暦が太陽暦です。
太陽暦発祥の文明として、まずエジプト文明があげられるでしょう。ナイル川が毎年のように氾濫する時期を知るために、太陽とシリウスの位置関係を根気強く観測した結果、1年の正確な長さを古くから知っていたとされます。「エジプトはナイルの賜物」といわれますが、太陽暦もナイルの賜物といえるかもしれません。
☆文明と文化
こうした暦を制定するためには、どうしても太陽の動きや、月の満ち欠けを観測することが必要だったのです。天文を読み、それを明らかにしたものが文明です。年月日を定めた暦・カレンダーは、人類にとって最初の文明だったといえるかもしれません。
暦という人間生活の基準ができると、いつ頃種を蒔けばいつ頃収穫できるか、という見通しができます。そうしてさまざまな土地柄に応じた農業や暮らし振りが生まれ、文化となります。暦によって昔のことも明らかになります。過去・現在・未来を明らかにするのが暦で、その基本は天文にほかなりません。

☆さまざまな暦 (1)
ユリウス暦
現在世界のほとんどの国で使われているのはグレゴリオ太陽暦です。日本でも明治6(1873)年から130年以上使われています。この暦はローマ帝国に始まるユリウス暦を改良したもので、ヨーロッパで旧暦というとユリウス暦を指します。
ユリウス暦はユリウス・カエサル(英語読みジュリアス・シーザー)が、紀元前46年に施行した太陽暦です。カエサルはローマの終身独裁官に就任すると、当時乱れていたローマの暦を正すため、新しい暦を作ることにしました。そのとき意見を聞いたのがアレクサンドリアの天文学者ソシゲネスです。彼はエジプトの太陽暦を参考にするよう提言しました。
こうしてできたユリウス暦は、1年の始まりをマーチ(現在の3月)から2ヶ月遡ったジャニュアリ(同1月)に移しました。古代ローマでは暖かくなる3月が1年の初めだったのです。現在閏日を2月の末に置くのは、古代ローマ暦の名残ということになります。また9月から12月までの月名の意味が、本来の意味より2ヶ月遅れているのもこのためです。
ユリウス暦は4年に1日の閏日を置きます。ところがカエサルの死後、閏日の置き方が混乱し、3年ごとに置くようになります。これを正したのがカエサルの養子のオクタビアヌスで、彼は政敵を倒して最初のローマ皇帝の地位につき、オーガスタス(尊厳者)と呼ばれました。オーガスタスは、7月(ジュライ)にカエサルの名前がつけられているのにならい、自らの名前を8月につけ、そのとき2月から1日を移して31日とし、その後の月の大小を反転したとされます。これが現在使われている暦の各月の日数です。
ユリウス暦はローマ市を中心とするローマ帝国の発展とともに地中海世界やヨーロッパに広まり、同じようにローマ帝国の公用語であったラテン語の月名や曜日名も広まりました。現在の西ヨーロッパ諸言語は、ラテン語の各方言ともいえるでしょう。やがてヨーロッパが世界に進出するに及んで、ユリウス暦を改良したグレゴリオ暦は世界の公用暦としての地位を占めることになりました。

さまざまな暦 (2)
グレゴリオ暦
ユリウス暦は1年の長さを365.25日としています。しかし実際の1年は365.2422日ほどです。暦の1年のほうが本当の季節の1年よりほんの少し長く、暦は少しずつ遅れていきます。ユリウス暦が施行されてより1500年あまり過ぎた16世紀には、暦の遅れはついに10日以上に達しました。
ときのローマ法王グレゴリオ13世は、これを放置しておくことができなくなっていました。というのはキリスト教最大の春のお祭りであるイースター(キリスト復活祭)の日取りがからんでいたからです。4世紀に各地のキリスト教の指導者が小アジアのニケアに集まって宗教会議が開かれました。それまで各地でバラバラに行っていたイースターの日取りを次のように決めました。
「春分の後の最初の満月の後の、最初の日曜日」
そして春分は、観測によってではなく当時の暦の日付で3月21日と決められたのです。1年の長さが実際より長いユリウス暦はしだいに季節から遅れて行きました。ついに16世紀には、春の花が散る頃になってようやくイースターのお祭りが始まるというようなことが起きていたのです。
1582年2月24日、グレゴリオ13世はついに新しい暦を発布し、改暦を断行しました。同年10月4日の翌日を10日飛ばして15日として暦を季節に合わせました。そして再びこのようなことが起きないよう閏日の入れ方を次のように改良しました。つまり暦面上の1年を、実際の1年に近づけるようにしたわけです。
「西暦年が4で割り切れる年は閏年とする。ただし西暦年が100で割り切れる年のうち、400で割り切れない年は平年とする」
つまり400年間に100回の閏日では多すぎるので、3回減らし97回にするというものです。どの日を減らすかというのが後半の部分で、西暦の下2桁が00年の場合、400で割り切れない年は閏年にしないということです。つまり西暦1600年、2000年は閏年ですが、1700年・1800年・1900年は平年になります。
この改定の結果、暦の1年の長さは365.2425日となり、1日の誤差が生じるのに3000年あまり要することになります。
これが現在の世界の多くの国で、公用暦となっているグレゴリオ暦です。
| 暦 法 |
1暦年の長さ |
| ユリウス暦 |
365 + 1/4 = 365.25日 |
| グレゴリオ暦 |
365 + 97/400 = 365.2425日 |
| 1太陽年(2006.5年) |
365.242189・・・日 |

さまざまな暦(3)
イラン暦とエチオピア暦
太陽暦は1年の長さを決めれば、後はどのように分割しようと基本的に自由です。でも一月の長さをおよそ30日とするのは月の満ち欠けの周期から来ているといえるでしょう。
イランは春分の日に1年が始まる独自の太陽暦を使っています。その暦では、前半の6ヶ月が毎月31日、後半6ヶ月は毎月30日(閏年)となります。平年は12月が29日です。
エチオピアも独自の太陽暦を使っています。9月の11日頃に1年が始まります。30日の月が12回あり、5日か6日の13番目の月が加わります。エチオピアはエジプトのナイル川の上流にあたり、古代エジプトの太陽暦の影響を受けたものかもしれません。
ユダヤ暦とイスラム暦
イスラエルでは、9月の新月の頃に1年が始まるユダヤ暦が公式のカレンダーです。ユダヤ暦は太陰太陽暦で、数年に1度閏月が挿入されます。週の休日はサバット(安息日)と呼ばれる土曜日です。
エジプト、シリア、サウジアラビアなどイスラム教の国々は月の暦(太陰暦)であるイスラム暦を使っています。イスラム暦では7世紀のイスラム教の成立から年を数え、2000年(4月初めまで)は1420年です。イスラム教の行事、たとえば断食月や巡礼月などはこのイスラム暦にしたがいます。
この暦では細い月が見えたときが一月の始まりとなり、新月(朔)の日を始まりとする中国や日本の陰暦よりやや遅れて始まります。重要な月の始まりは、イスラム教の高僧の観測によって宣言されるそうです。
イスラム暦では月の朔望の12ヶ月を1年とするため、実際の1年より11日ほど早く暦が尽きてしまいます。その結果、年の初めは年々早くなります。冬だったお正月はやがて秋になり、夏になり2000年には4月の上旬になっています。週の休日は、モスクでの集団礼拝の日とされる金曜日です。
中国と日本の太陰太陽暦
月の満ち欠けの12ヶ月を1年としたのではおよそ354日しかないので、たちまち季節と暦がずれてしまいます。それを防ぐために数年に1度閏月(ウルウヅキ)を置き、1暦年を13ヶ月にするなどの工夫をしたのが太陰太陽暦です。
農業を主とした中国や日本などでは、こうした太陰太陽暦が使用されました。さらに太陽の天球上の位置を正確に現すため、24の基準点が暦に書き込まれました。これが24節気です。24節気は、どうしても季節の中を前後する陰暦に記された太陽暦ともいえます。
中国ではその広い国土や多様な民族を治めるため、昔から暦が重視されました。時の王朝が公布する暦に従う範囲が、その王朝の領土であるという中華思想があったからです。そのため正確な暦を発行することは、王朝の権威と結びついたきわめて重要な任務だったのです。
もし日月食などの予報がはずれたり、予報にない食が起きたりすると暦はおろか、王朝そのものの権威が問われることになりました。また国内に災害が続いたり、六十干支にいう「革命の年」がめぐりくると、時の天子(王様)は自らが改めて天命を受けたことをアピールするために、しばしば改暦(新しい暦を採用すること)や改元(元号を改めること)を断行しました。そのため中国で使われた暦は、主なものだけでも47にのぼるといわれます。
よく今年は辰年とかいいます。この年の干支(えと)が、中国周辺の国々でどの程度国民に普及しているかが、中国文化の広がりと限界を示しているのかもしれません。
日本は飛鳥時代の7世紀頃から中国の暦を用いました。しかし中国に服属したわけではありません。海を隔てているために、国としての独立を保ったまま、中国そして東洋のさまざまな文化を学ぶことができたのは、地理的・歴史的幸運といえるでしょう。江戸時代なかばには日本人によって初めて日本製の陰暦が作られ、明治の初めまで使用されました。
☆暦は歴史
暦は歴史に通じます。日本で使われた暦(一応文献に残されているものとします)の足跡を概観してみると、日本の国自身の歩みと良く対応しているように見えます。
つまり中国の暦を使っていた時代の日本はさかんに仏教や儒教など中国や東洋の文明を吸収し、日本製の暦を使った江戸時代は、鎖国のためもあり、日本独自の農産業や学問(暦学・国学・和算など)・芸能(浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵など)が充実しました。西洋の太陽暦を採用してからの日本の西洋化はいうまでもありません。
東洋と西洋の文明をともに学んだ国というのは世界に多くはないでしょう。インターネットが世界を結ぶ今日、今度は日本から世界へ発信する歴史的転回点を迎えようとしているのかもしれません。
日本の暦と歴史の図