月光天文台月光天文台

公益財団法人 国際文化交友会 月光天文台

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 はじめに
第1章  生命の起源としての大宇宙
宇宙からの訪問者
科学による宇宙創成論
科学も大自然のことわりのなかに
必要な人間の賢い選択
ハッブル宇宙望遠鏡による観測成果
生命の祖(おや)である地球
限りなく膨張しつづける宇宙と「暗黒物質」
地球の不思議
人類がつくった異質の生態系
深刻な地球環境問題
「月」の存在と人類
「地球道徳」から「宇宙道徳」へ
第2章  ヒトの生命-神の大芸術
小宇宙であるヒト
細胞の三つの機能
貧困、人口、そして環境問題
進む遺伝子の研究
神聖であるべき生命の誕生
良識ある研究配慮を
超ミクロの世界の働き
量子力学の発達で得た新たな宇宙論
無限に広がる宇宙
太陽と命運を共にする地球
時空を超えた精神のつながり
大自然の秩序と法則への回帰
第3章  日本人の思考のルーツ
森になじんだ固有の文化
日本人が培ってきた自然観
近代化がもたらした現代日本人の思考変化
『古事記』にみる古代日本人の思考と生活
一神にして多神、多神にして一神
天地の恵みとしての農業
第4章  奇しびなる生命の連鎖と循環
神霊元子が充ち満ちる宇宙
人知を超えた大生命の流れと一つの意思
永遠なる生命
横暴きわめる人間中心主義
おわりに
「地球道徳」の確立へ向けて
「地球道徳」の時代へ
科学の進歩
水と土と緑と
過去の教訓を生かして
今こそ求められる意識改革
あとがき
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「奇しびなる生命の連鎖」
- 宇宙から人間へ -

はじめに
     前書『アジア発、地球へ』では、日本に発祥し、アジアで育ったオイスカがどのような哲学をもち、国際協力の現場であるアジア太平洋の国ぐにで汗を流しているかについて 大まかに30年の歴史を振り返って書きとめました。
     本書では、生命(いのち)をキーワードとして 宇宙から人間までを辿りながら、その奇しぴなるさまをしたためました。何故、オイスカが、そして一民間人として国際協力に日夜明け暮れている私が宇宙を言い、生命ということを叫び、その路線上に環境問題を置いているか、ここに宇宙から人間万物までを「生命(いのち)の連鎖と循環」の観点がらまとめあげることによってご理解いただけるものと思います。自然との調和と共生の思想に生きてきた古来の日本人の自然観・宇宙観と現代日本人の思考とのつながりにも触れてみました。ただ、本文では天文学上の数字や理論などを多く引用しましたので読みづらい点があるかもしれませんが、少々の忍耐心をもって最後までお読みいただければ幸いです。
     オイスカの関連機関に(財)国際文化交友会があり、これに所属するいくつかの天文台があります。その一つ、富士山の麓はるか伊豆半島の根っこに位置する函南の地に月光天文台があります。同天文台は天文愛好家たちによって支えられ、オイスカより4年長い36年の歴史をもちます。本書で取り上げたさまざまの天文学からの引用は、その多くがここの資料室に基づくものです。
     一度、天文に接すれば、どんな初心者でも少なくとも宇宙がいかに広大で美しく、しかも秩序をもった感動的な大空間であるかが読み取れることでしょう。あたり前のように今日を生きている、この小さな生命も、遠い遠い宇宙のかなたから星の生死を通して送られてきた要素が、幾重にも織り重なって脈々と生きているのだということが理解されます。
     私たちの肉体を構成しているさまざまな要素は、すべて宇宙から送られてきたもので、この生命もいわば宇宙からの贈りものなのです。海の中に地球上初めての生命が誕生したのが35億年前といわれています。その原始の細胞の中に、すでにDNAがインプットされ、描き込まれた遺伝情報は、生命の法則にしたがって代々伝えられてきました。驚くなかれ、今、私たち人間の体の中にある細胞も同じ構造をなしているのです・・・・・。
     しかも、卵子という1個の細胞が1個の精子を受け入れることによって始まる人間生命の誕生までの過程は、海に始まった原始生命以来の生命の歴史の再現なのです。
    近代科学技術の開発は、より早くより効率的な世界を目指しています。しかしながら、およそ280日にわたって母胎で繰り広げられる生命のドラマにおいて時間の短縮や簡略化が図られたという話を聞いたことはありません。いったい誰が与えたのか、人間の力の及ばない大自然のことわり、生命の法則に対して衿を正さずにはいられません。
    生命の法則はかくも厳粛なまでに簡略化を許さず、月日と時間をかけて母体とのかかわりのなかで35億年ともいわれる長い長い過去からの生物生命の歴史をたどらせ、初めて人間となることが宿命づけられているのです。このことは、地上に生を受けたその後も人間が自然の法則のなかに生き、よろずの他の生命とのかかわり合いのなかに生存が許されるものであることをよく説明し得るものです。
    目の先の奇跡や不思議にとらわれる人はあっても、このような限りなく遠くて深い、しかも一人ひとり間違いなく身に持つ現実の不思議に感銘する人が少ないのも、人びとの思想や精神が現在だけの唯物思想の延長点を超えることができないためでしょうか。
     かってアインシュタイン博士をして「宇宙をつくるにあたって、神には選択の余地がどれだけあったろうか」と嘆息させたほど、宇宙は地球の生成を、そして人類の誕生を至上目的とするかのような方向だけで歩み来たった、ということに思えてなりません。また「神が宇宙をつくった時、さいころを転がしたのではない」という言葉は、遊び心や偶然でない目的をもった真摯でひたすらな心を示唆しているようです。私自身、人類誕生は宇宙意思によるものであり、必然でこそあれ偶然ではない、と信じています。
     一方、環境問題が厳しく取り上げられはじめて、さまざまな人間活動が反省を迫られる今日、環境や生物生命を思いやるばかりに、人間を動物と同列に見るかのような論があるのはどうかと思います。人間のエゴと徹慢を咎める立場では同感ですが、人間には、他の生物の持たない、人類にこそ託された使命があると思うからです。地球上を破壊に導くも繁栄に導くも人間ひとつにかかっているのです。人間の考え方や行動如何によっては、地球の生態系ともども母体である地球や宇宙にまで破壊的影響を与えるやも知れないのです。
    最高の知能と技術力をもった人間は、さらに言語能力と自由を与えられたことにより、他の生物たちより活動範囲を広げることができました。しかし、人間世界の独善的な大発展の結果、人間はその力ですべてを支配し得るとの錯覚に陥り、そうした慢心とエゴでもって逆に自ら大きな破局を招き、しかもその破局が世界全体に及ぼうとしているのが今日の地球規模の環境問題です。
     私たち人類が生命を継続しようとするなら、先ず、生命(いのち)が何であるかの原点に帰ることから考え直していかなければなりません。私たちが空気・水・士など大自然の環境、そしてそのなかに住む植物・動物から受けている恩恵は計り知れず、今後も受け続けていくことは間違いありません。戴いた生命は自分一人に止まることなく、還流させなければ流れは止まってしまうことになります。生命(いのち)のお返しは、精神的には感謝でありましょうし、物質的、体的には世界の人類はじめ万物の発展と幸福のために尽くすことによってなされます。いかに生命(いのち)の教育が大切かを強調したいのです。
     人間が、母なる地球を母体として、その環境や生態系から受けた有形無形のさまざまな恩恵に感謝する心があれば、お返ししたくなるのが自然の流れであり、人間の本性でありましょう。そうであればおのずと足るを知り、ライフスタイルも改まってくるはずです。
     大生命の流れのなかに生きる人間の生命(いのち)のサイクル、これこそボランティアの基点でありましょう。ボランティアの心が国際協力にも展開されます。国際協力は決して一方通行ではないし、また見返りを求めるものでもありませんが、一方、世界からの流れがわが身に返ってくるのも事実です。国に置き換えて考えるならば、日本が今日のように発展することができたのも南の国ぐにからの資源の提供があったればこそです。今後も日本の人たちがこの流れを続けようとするならば、還流こそが必要です。つまり、生命(いのち)のお返しです。オイスカはこの精神で熱意を傾けています。
     世界のさまざまな国を訪れ、その国や地域の人びとや文化に接するなかに違和感なく溶け込めるものがあり、妙に懐かしさや慕わしささえ感ずることがあります。特に森や大地、山など自然環境から宇宙的なものまで取り入れて、ときには荘厳さをもって ときには原始的素朴さをもって執り行われる祭りや儀式のなかに、悠久の大いなる生命を志向する自然観、人生観を見、共感を覚えるのです。
    このような考え方は日本人流のあいまいさ、無節操と咎められるかもしれません。しかしながら私は、ときどきこんなことを考えるのです。私がもし回教徒の国に生まれていたら恐らく回教徒になっていただろうし、キリスト教徒の国に生まれていたらキリスト教徒になっていたであろうと。同様に 仏教徒にも、ヒンズー教徒にも、ユダヤ教徒にも。あるいは先住民の地に生まれていれば、その文化に生きていたでしょう。しかし、その入口が何であったにしても、説き方がそれぞれあったにしても、人間にとって最大の関心事は生命に帰しましょうから、その到達点は普遍の大生命を祖(おや)とし宇宙意思への恭順に違いはなかつただろうと。
     日本人は古来から森を尊重し、森とともに生きてきた歴史があります。大自然を畏敬し、祈る心をもって民族独特の世界観、宇宙観、人生観を養い、伝統と文化を伝えてきました。自然との調和のなかで生きてきた日本の先祖たちは、自然の木にも山にも水にも川にも石にも霊性を認めるという自然観を無理なく受け継ぎ、その生命の連鎖と循環のなかに生きる思想を持っていたのです。日本に生を受けた私が、きわめて自然にこうした日本の原始宗教ともいうべき神道の考え方を入口として、自然尊重と宇宙をはじめ地球・人類万物が大調和して共生する世界こそ求めて止まない平和な姿と心に描き、その実現のため、国際協力に従事するという生き方を選んだとしても不思議ではないでしょう。
     国際協力は、決してモノやカネの動きだけではなく、心の共鳴にこそ意味があります。相互尊重、相互信頼を育むためにも積極的に交流をはかり、協力活動を通じて人間同士が学び合い、照らし合い、助け合い、高め合っていきたいものです。より強く、豊かな生命の連鎖と循環の血脈を世界に通わせ、万物生命もその処を得、喜び勇んでそれぞれの使命に生きる世界の招来こそが、宇宙の寵児である人類が御祖(みおや)の心を汲み入れて果たすべき務めでありましょう。
    そこにこそまことの豊かさと繁栄があることに覚醒したいのです。現在、地球を覆う暗黒の運命をふきはらい、世界万民があらゆる不安や恐怖から解放され、与えられた生命に感謝感激し、互いに円融大和して安心立命の世界に生きる日が一日も早く訪れることを願っています。地球上の生きとし生ける生命が、母なる地球の生命と、さらには宇宙の大生命の流れと呼応し、天地宇宙間に妙なる大調和のオーケストラが響きわたるときこそ、この地上に最後の生命として送られた人類の使命が達成されたときとなりましょう。
     なお、本書は理念・哲学に徹し、あえてアジア太平洋を中心に世界の国ぐにの現場で汗を流しているオイスカの実践活動には触れなかったことをご了承下さい。実践活動・体験の記録については、拙著『アジア発、地球へ』をご紹介させて頂きます。

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第1章  生命の起源としての大宇宙
    宇宙からの訪問者
     今年(1994年)7月後半、木星にシューメーカー・レビー第9彗星が衝突する…。千年に一度あるかないかといわれるほどの出来事に、私たちはもうすぐ遭遇しようとしています。木星は私たちのすむ地球と同じ太陽系の一員であり、当然のこと、天文マニアのみならず一般の人びとにも非常に興味をそそっており、現在、世界中で大きな話題となっています。
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      SL9
     シュユーメーカー・レビー第9彗星(SL9):HST・NASA
               (HST:ハッブル宇宙望遠鏡)
               (NASA:アメリカ航空宇宙局)

     この衝突では、なんと広島型原爆の一千万倍から十億倍ものエネルギーが放出されるといわれていますが、残念ながらその瞬間は地球から見ると木星の裏側で起きるため、直接見ることはできません。しかし、木星は地球の約11倍もの大きな半径を持つにもかかわらず、わずか9時間56分で自転しているため、4時間ほど後には木星の中央付近に衝突地点を観測することができます。いったいどのような変化が起きるか、興味深く見守っています。ただ専門家によりますと、彗星の非重力効果のために衝突しない可能性もわずかながら残っているということです。
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        SL9と木星の衝突の跡
         SL9の衝突の跡:HST・NASA
          SL9は1994年7月17日から22日にかけて、
         次々と木星に衝突した。
     1992年12月のはじめ頃、直径約1キロメートルと推定される小惑星トータティスが、地球に最接近するという現象がありました。最接近とはいっても、地球と月の距離の約10倍とのことでしたが、2004年にはこの小惑星が地球の引力圏に入る可能性がある、と警告した科学者もおりました。しかし、2004年9月に再び最接近するにしても、ある専門家の試算では、トータティスの距離は地球から156万キロで、月と地球の距離(38万キロ)の約4倍もあるそうですから、地球に衝突する可能性はまずないようです。
     toutatis-2
       トータティス
        トータティス・NASA
        ○地球から約400万kmの最接近の頃における
         レーダー観測で得られた画像。4回の観測ご
         とに向きが異なっている。

     ただ、今から約6500万年ほど前には、トータティスより大きい同じような小惑星が地球に激突し、この衝突によって大量のチリが大気中に充満して気候に大異変が起き、このために恐竜が絶滅した、という有力な説があるように、地球はその長い歴史のなかに幾多の想像を絶するような出来事を刻んできているのです。
     NASAとして知られるアメリカ航空宇宙局の発表によりますと、このような小惑星が私たちの生存中に地球に衝突する確率は1万分の1、といわれていますが、その場合は当然、地球文明は滅びることでしょう。
     私はここで人類の破滅について書こうとしているのではありません。宇宙科学の発達により、今までの未知なる宇宙の実態が科学的に究明されていくにしたがい、宇宙の活動が地球、そして人類はじめ万物の生命と深いつながりをもつことが実証されていくことに、深い感動とともに人類としての使命感を覚えるものです。そこで、生命の連鎖と循環ということについて、日頃心にいだいていることを披瀝し、皆様と共に生命の尊さや神秘さについて考えたいのです。人間の生命を知ろうと思えばどうしても地球上だけに止まらず、生命の根源である宇宙を訪ね、宇宙の起源にまでさかのぼることになります。
     幸いに、一昨年1992年は"惑星地球へのミッション"をテーマとする「国際宇宙年」で、国際連合が定めた国際年の一つでした。ご承知のとおり、国連は各国の政府によって構成されている国際機関です。そして各国政府は国民によって構成されていることは申すまでもありません。したがって、国連が定めることは常に国民の総意であるとは断言できないものの、私たち一人ひとりの意思が相対的に反映されている、ということができます。少なくとも「国際宇宙年」は、国連史上初めてのことだと思われますが、地球上の争いごとや民族間の相克に関係のない宇宙に目を向ける年でしたので、反対する人はほとんどいなかったのではないでしょうか。宇宙に目を向けるということは、逆に宇宙から私たちの住む生命の星・地球に目を向けることでもあります。
     大宇宙には、2000億個以上、あるいは説によっては1兆個以上もの銀河が存在している、といわれます。その銀河の中には、天の川銀河とも呼ばれている私たちの銀河よりもはるかに大きいものが無数にあります。1秒間に地球を7週半する光が1年かけて進む距離を1光年と定められていることを、私たちは学校で学びました。また、光の速さは真空中では一定で、秒速約30万キロメートルであることも学びました。この光の速さで測定すれば、私たちの銀河の直径は約10万光年だといわれていますが、この広がりは、宇宙を地球の大きさにたとえると、わずかに学校の体育館ほどの大きさに過ぎないそうです。
     さらに、中心にある太陽と最も外側の軌道を廻っている冥王星の間を、光の速さで進んで約5時間半ほどで通過する「太陽系」は、私たちの銀河を人間の体にたとえた場合、1つの細胞の核よりも小さな存在となります。このような比較をすれば、私たち人間個々の存在は、原子よりも小さいほとんど"無"に近い存在にすぎません。しかし、この"無"に近い存在の人間が、150億光年の時空を越えて、宇宙の大生命と目に見えない一筋の糸で結ばれている存在であることに思いを馳せるとき、私たち生命の連鎖の限りない神秘さにふれ、生命の尊厳を自覚できるのです。
     結論が先になりましたが、生命の連鎖について稿を進めたいと思います。なお、宇宙の年齢は150億年とも200億年ともいわれますが、拙稿では約150億年として書きすすめます。
     すでに人類は、地球を離れ宇宙に飛び立ったかなりの数の宇宙飛行士たちをつうじて 暗黒の宇宙から見た地球に対し、賛美と愛着の心をメッセージとして送っています。その飛行士たちの飛んだ宇宙というのも、たかだか地上300~400キロメートルに過ぎません。いわば、地球のうすい表面なのです。とはいえ、そのわずかな距離でさえ、地球が人類にとってかけがえのない住み処であることを知るには充分だったのです。
     大きな飛躍は1969年、米国のアポロ計画による月面着陸(アポロ11号)によってなされました。
     このアポロ計画で宇宙体験をしたある飛行士は、「地上生活が身についた人類にとっては、月面は死の環境でしかなかった。大気圏外の生活は、何億年も昔、若い海にしか住まなかった生物が陸に上がった時に、死の環境の中で順応し生きる手段を身につけた時のように、何億年に一度あるかないかの進化をもたらすのではないか。苛酷な環境でより強い種が生まれることになるかもしれない」という主旨の発言をしています。
     これは、過去の地上生物の進化の歴史をたどるとき、さまざまな意味あいから興味ある発言です。
     さて、小惑星トータティスは接近 しただけで何事もなく通り過ぎていきましたが、それとは別に、突然日本を訪れた小さな訪問者がありました。それは、トータティスがマスコミを賑していた頃、つまり、1992年12月10日に島根県・美保関町の民家を直撃した「美保関限石」です。その隕石の年齢は46億歳ということです。
     隕石とは宇宙空間に漂う小天体が互いに衝突を繰り返すなどして小さく割れ、軌道を外れて地球に落下、到達した岩石のことです。ある資料によりますと、これまでに世界で発見された隕石の数は二千数百個。それ以外に南極大陸や森林地帯、砂漠地帯、海など、人の目に触れにくい地点に落ちたものもあるはずですから、それら未発見のものまで含めますと、地球に到達した隕石の数は相当あることでしょう。私たちが、このわずか数キログラムの隕石に深く限りない関心をいだくのは、年齢も地球と同じであり、原始太陽系星雲の形成時以来の仲間であるためなのでしょうか。しかも地球に到達する前に6100万年もの間、他の隕石とぶつかり会うごともなく宇宙をただよっていたというのです。
     私たちが夜空を眺めるとき、ときどき目に入る流れ星は、これらの限石や宇宙のゴミが大気圏に突入する際に大気との摩擦によって燃えつきる現象です。ですから、大気は、人間や他の生物に有害な紫外線が地上に直接降り注ぐのを防いでくれているばかりでなく、宇宙からの落下物から地球生命圏を守る大切な役割を果たしてくれていることがよくわかります。もし大気が遮ってくれなかったら、宇宙空間から小石のような隕石が無数に降ってくることでしょう。
     たとえば、大小のクレーターに覆われた月の表面を思い浮べてください。あれは隕石が衝突してできた孔の跡です。月には大気が存在しないために 地球と違って風化されることもなく、そのままの形をとどめているのです。月の回りに大気がないことはアポロ計画はじめその他の科学調査で判明しています。そして、月の石の分析から、月には隕石がたくさん降り注いだことがわかりました。隕石がところかまわず降り注いだために表面が砕けて砂となってしまい、今、月の表面は地下3メートルまで砂で覆われているといいます。
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               月面
                月面・月光天文台撮影

     もし地球が大気の衣服で防御されていなかったら、月と同じような運命をたどっていたかもしれません。そう考えますと、大気のありがたさを改めて感謝せずにはおれません。私たちは大気の働きの重要さをこのような現象からも伺い知ることができるのです。
    このように「国際宇宙年」は飛び入りの訪問者によって、私たちの目を一層宇宙に向けてくれました。
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科学による宇宙創成論
     そして、この年(1992年)は次々と新しい発見がありました。そのなかでも特筆すべき発見が、アメリカ航空宇宙局(NASA)の宇宙背景放射探査衛星の観測でもたらされました。
     この探査衛星はCOBEと呼ばれ、1989年11月に打ち上げられたもので、1992年(平成4年)4月に発見の発表がなされました。その発見というのは、宇宙背景放射に10万分の3度、比率にして0.001パーセントという、ごくわずかな温度の"ゆらぎ"が存在することを突き止めたことです。
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       宇宙背景放射探査衛星[COBE]・NASA提供

     宇宙は、約150億年前に「ビッグバン」という大爆発によって誕生した、というのが現在もっとも一般的に受け入れられている宇宙モデルです。ビックバン宇宙のアイディアを確立したのはアメリカのジョージ・ガモフ博士(ロシア生まれ)です。しかし、その大爆発にもそのタネとなるものがあったはずです。宇宙が誕生する前の姿はどうだったのか、150億年前の姿は誰も知るよしもありませんが、タネを発芽させる"ゆらぎ"があったと仮定することはできるでしょう。これゆえに、ビックバンは「神の一撃」とも呼ばれているのです。そしてついに、悠久の宇宙原始の時代に、この目にもとまらぬわずかな"ゆらぎ"が存在していたことが発見されたのです。
     yuragi     
         背景放射のゆらぎ
         宇宙背景放射のゆらぎ・NASA提供
         ・COBEの測定した宇宙背景(3K)放射の天球上での温度のゆらぎ。
         図の赤い部分は平均より10万分の3度、温度の高いところ、一方青
         い部分は温度の低いところを表わしています。

     宇宙にビックバンの名残の電波として「宇宙背景放射」というのがあることが約30年前に確認されました。そして、その温度(絶対温度で約3度、摂氏マイナス270度)は宇宙のどの方向でも一様だ、といわれてきました。ところが、この背景放射が本当に一様ならビックバン宇宙論は成立しないのです。なぜなら、"ゆらぎ"がなければ宇宙は膨張も収縮もできないはずだからです。これは、私たちのまわりで時々発生する"無風"状態のような現象で、このときは、あたかもすべての生物までが息をひそめているような錯覚さえ覚えることがあります。したがって、"ゆらぎ"なしでは銀河の生成もあり得ないのです。
     この宇宙論では、この"ゆらぎ"がタネとなります。10万分の3度というのは、私たちの身のまわりでは何の意味もなさないでしょう。しかし、宇宙の年齢150億年にとっては非常に重要な意味を持っているのです。この"ゆらぎ"が存在しなかったら、太陽も地球も、また月の存在もあり得なかったでしょうし、人類の存在もなかったはずです。この"ゆらぎ"に宇宙の生命の流れの原点があるという考え方です。
     日進月歩の勢いで進む科学は、ビックバン宇宙論にとどまることなく、理論的にも限りない展開を試み、今や神の領域とされていた宇宙創成の仕組みをも解明しようとしています。ビックバン宇宙論では説明できなかった点、つまり、なぜ宇宙が火の玉になったのか、なぜ宇宙が膨張をはじめたのか、なぜを補足する「インフレーション宇宙論」があります。誕生直後の宇宙が、真空のもつエネルギーによって普通のビックバンモデルとは比べものにならない急激な膨張「インフレーション」をおこし、それが終わると真空エネルギーが火の玉になるというものです。
      そして、この桁違いに急激な膨張によって、宇宙本来曲がっていたとしても、見かけ上平坦な宇宙となり、宇宙の地平線をこえる広大な領域まで宇宙が同じ姿をしていることを説明するものです。この論にも当然のことながら問題点が出てきます。
     いくつかの創成論の中で、私が興味を抱くものに「無からの宇宙創生」論があります。アメリカのビレンキン博士(ロシア生まれ)が『無からの宇宙創生』という論文を発表したとき、直感的考察による宇宙創成論は多くの科学者に衝撃を与えました。「無」など物理法則では判らないと考えられていた科学者たちのなかに、「何いいかげんなことを」と反論が多かったのも当然でありましょう。そのような論理は、哲学か宗教のなかでのみ通用すると思われたからでしょう。
     ところがその後、宇宙物理学者のホーキング博士が宇宙創成からインフレーション、膨張、そして収縮、消滅にいたるすべてを量子論的に取り扱い、それを数学で解明することによって得られたシナリオのなかで、最も確率の高い宇宙進化の経路がビレンキン博士のそれと一致したということです。
     私たち素人にとってはその理論の詳細は難解で、容易に理解できるものではありませんが、科学者たちは宇宙の誕生と生命について次々に新しい理論を考え出し、さまざまなシナリオを描いていきます。それらは観測と数字によって実証されていきます。ところが、この広大無辺の宇宙に実態はかくも涙ぐましいばかりの科学者の努力に答えるどころか、次から次へと矛盾点を湧出し、しかも同じ科学者の手による新しい発見要素によってそのシナリオをくつがえしていきます。
     しかし、ここで注目すべきことは、人類が現代物理学の基本理論、相対論、量子論などを駆使して、これまで物理学や科学の対象とならぬと思われてきた宇宙そのもの創成について語り始めたことです。ようやく、現代科学が哲学や宗教の領域に足を踏み入れたといえましょう。とはいえ、語られる宇宙創成論はどこまでいっても理論的な発展であって、観測的にはどうかというと、光や電波のような電磁波による観測手段に頼る限り、どのような大型の望遠鏡を使っても、宇宙の創成を知ることはできないということです。現時点ではハッブルの法則によって導かれている、宇宙の年齢150億年を越えて観測することは不可能である、ということです。
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科学も大自然のことわりのなかに
     何故に、このような科学によって繰り広げられる宇宙創成理論を紹介したかといいますと、私自身、その哲学や理念のなかにつねに一貫した宇宙観をもち続けているためです。そして、宇宙の大生命に発する生命の流れのなかに、天地万物とともに重要な要素として人間の存在があり、すべての生命が連鎖し循環する大調和のなかに地上平和と繁栄、幸福がある、と確信するからです。
     無論、科学のアプローチの仕方と違って、精神的な求め方であります。ものを外側から見る見方と、内側から見る見方の違いでしょう。外側から見る方法を否定しないのは無論のことです。逆に光学機器を通して物理学的に宇宙生命の実態に触れ、その美しさ、壮大さに心打たれるとともに、実態を証明しつつ、なお究明し続ける科学の努力に惜しみない敬意と賞賛を贈るものです。
     ここまで人類社会の進歩を導いた近代科学。そこでは宇宙をモノとして冷静に見る科学の目、科学する心は至上のもので、それなくして科学は成立しないでしょう。
     しかし、人間の力を過信するあまり、科学の力で宇宙のすべてを解明してみせる、という高慢な心で宇宙に相対するとき、宇宙と科学は対立関係に立つことになます。科学も、そして科学する人間も所詮、宇宙の大自然のことわり理のなかに存在します。たとえ人間が科学技術を駆使して、宇宙に、例えば月に住むことが可能なまでに至ったとしても、宇宙の法則を順守してはじめて可能となるのです。
     人間の開発力も宇宙大自然の法則からずれることはできません。したがって宇宙の力、すなわち大生命の力の前に、もし人間が謙虚さを失って慢心に陥り、開発のすばらしさのみに目を奪われるとき、思いがけない落とし穴に道を阻まれることを覚悟しなければならないでしょう。謙虚さをもって宇宙大生命の中に科学を共生させ、慎んで探求する心に立つときその真心に宇宙の実態の方が歩み寄り、真理の座がもたらされることとなるでしょう。常にモノと心の調和によって生命が保たれているという真理が、このような人類の宇宙への大飛躍の前夜にこそ、一層重要な意味をもつことを言及しておきたいと思うのです。
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必要な人間の賢い選択

     150億年前とも言われる人間の想像もつかない遥かな昔に誕生した宇宙。そのとき以来の大生命、大産業の流れの果てに、確実にその流れの分派を受けて、極微な生命を宿して生活する人間・万物。宇宙創造に立ち会った人もいなければ、見た人も聞いた人もありません。しかしながら、それを確信した人間が、普遍的生命のおや祖として宇宙の尊厳に畏敬の念をいだき、感謝の祈念をささげるということを非科学的、非合理と片づけることもできないはずです。
     すべてをモノとして認識するあり方が人間の思想までも席巻し、人間の心も唯物科学思想が支配するところとなったならばどうなることでしょう。温かみを失った殺伐とした心の砂漠が人間社会に広がるとき、地球の砂漠化以前に人類世界は崩壊することでしょう。科学本来の目的が人類の福祉にあり、地球社会の発展と幸福を導くための向上にあるとするならば、人間の賢い選択が必要となります。人類の福祉との調和、倫理との調和が保たれる道が選ばれなければなりません。
     幸いにも近年の科学は、従来の分極化、細分化から全体的にとらえる方向へと進んできていることは望ましいことです。生命科学の名が生まれたように、すべての生命とかかわりのなかでとらえ、全体の調和のなかで考えていく今日の科学の進み方はまことに期待されるべきものといえます。生命は決して個々バラバラに存在するものではあり得ず、有形無形に関連しあって、地球上からさらなる宇宙生命との間に通いあっていることに気がつきたいものです。
     人間にとって幸福とは何か、豊かさとは何か。あるいは人生とは、生命とは、の問題も、このような視点に立って考えなければならない時代に来ていると思います。それは学界、教育界の分野は無論ですが、政治、経済、外交、国際関係の分野でも、今後、より重要な要素となることでしょう。そして、どちらかといえば近代科学を生んだヨーロッパの科学者の中で奥深い人間の豊かさを感じさせる所見が聞かれる、ということを聞いたことがありますが、それは彼らのなかに哲学や宗教、音楽、絵画などに造詣の深い人びとが多かったということです。
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ハッブル宇宙望遠鏡による観測成果
   
   さて、今しばらく宇宙の話をすすめたいと思います。
     現在、人類が観測できる最果ての宇宙は100億光年の銀河団のようです。これは1992年12月はじめに、前述したアメリカのハッブル宇宙望遠鏡の観測によって発見されました。この望遠鏡は1990年の4月に打ち上げられ、「空飛ぶ天文台」と呼ばれているものです。
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         ハッブル宇宙望遠鏡ハッブル宇宙望遠鏡(NASA)

     ハッブルとは、宇宙の膨張を観測によって証明したあの有名な天文学者エドウィン・ハッブルにちなんで名付けられたものです。この望遠鏡の鏡の精度は、およそ東京から静岡までの距離(約200キロメートル)で1円玉を識別できるほどだといわれています。大気に遮られないこの望遠鏡の開発によって、地上に設置されたいかなる望遠鏡とも比較にならない、鮮明な美しい宇宙の映像を手にすることが可能となりました。
     そして、地球から約1500光年のかなたにあるオリオン星雲の中で「原始星」が形成される様子もとらえました。また、地球から約5900万光年離れたおとめ座銀河団の中に、"ブラックホール"という、星が終焉する様子もとらえました。これによって、理論的に存在するとされていたブラックホールや原始惑星が事実として確認されました。このことは、宇宙のなかでも新たな星が生まれまた死ぬという、いのち生命の流れがあることを物語っています。宇宙もまた、基本のところで私たちのいのち生命の循環と共通の舞台にあるということができます。否、私たちのいのち生命の循環こそが宇宙の悠久の流れに沿っている、というべきでしょう。
     さらに、1993年2月に、日本の文部省宇宙科学研究所が打ち上げたエックス線天文衛星「ASTRO-D」が注目されています。これは100億光年以上のかなたの宇宙の果てを見渡すことで、誕生直後の宇宙に何が起きたかを調べるのが主な目的とされています。まさに目覚しいほどの科学の進歩です。この衛星は地球上空を一周したあとで「あすか(飛鳥)」と命名されました。
     asca
        あすか 
         X線天文衛星「あすか」・(宇宙科学研究所 提供)

     そして、3月30日、観測態勢が整うのを待っていたかのように、地球から約1000万光年離れた銀河「M81」の中に超新星「SN1993J」がタイミングよく出現。寿命を迎えた巨大な恒星が大爆発を起こして出現する、超新星の発生直後の姿をとえたものとして国際的な注目を集めています。
      m81n2-4
         M81
           おおぐま座の系外銀河M81(撮影:月光天文台)
            明るさ7.9等、距離約1200万光年。系外銀河M81は
           私たちの銀河系のような星の大集団である。
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  生命の祖(おや)である地球 

     宇宙は生成と消滅を繰り返しています。宇宙の中の銀河や恒星、そして地球上の生命から原子にいたるまで同じことがいえます。地球上にある諸元素は、銀河系内でガスから恒星、恒星からガスへの循環の後に、太陽系星雲に取り込まれたものです。
     ビッグバン理論によれば、宇宙のはじまりは水素とヘリウムという最も軽い元素が真っ先に生成され、それ以外の炭素や酸素といった重い元素は星の中で次々に造られていきました。超新星爆発で重い元素は宇宙に撒き散らされ、ガスとなり、また収縮して星となっていきます。何回も繰り返してだんだん銀河系の重い元素が増えていったということです。
     宇宙には、生成と消滅を何回も何回も繰り返した元素もあれば、同時に宇宙初期そのままのフレッシュな元素も混ざっています。銀河系が誕生してから約100億年以上、星の寿命を仮に平均して数千万年とすると(星の寿命は質量で決められ、質量が小さいほど寿命は長いといいます。例えば太陽で100億年、太陽の10倍の質量をもつ星は3000万年ほどということです)当然、200世代以上前までの先祖を持つ星も存在することになります。
     いろいろな履歴をもった元素が、人間の体の中、あるいは地球上に幾重にも折り重なって存在しているのです。太陽の向こうにも太陽を生んだ先祖があるのです。私たちの体を形作っている元素もすべて、あるときは燃えていた恒星の一部であったり、星の爆発、収縮のプロセスを繰り返してきたものなのです。
     素粒子の極微(ミクロ)の世界と宇宙の極大(マクロ)の世界が結びついていることが明らかにされてきたのも、ここ10年ほどの科学の成果です。
     まさに、人間はその構成元素から見ても、ルーツは宇宙にあり、母なる地球とともに宇宙の祖(おや)として生命を与えられているということが認識されています。ミクロの世界では、分子、原子構成や原子核をつくる中性子、陽子、さらにそれらを形作る素粒子についても同様です。
     遠く宇宙からの連鎖と循環のなかに生命があることを知るならば、科学的には素粒子の流れとしてとらえられますが、生命的には宇宙からの悠遠の大生命の流れのなかに、目にも止まらぬ小さな分派としてわが身に受け止めているのが人間です。
     一個の生命を目にも止まらぬほど小さく、はかないものと見るか、あるいは宇宙から発せられた大生命を確実に受け止め、その血脈を受け止めた活活たる生命であると見るか、生命観の分かれるところです。そこから発生する人生観、世界観も異なったものになるのは必然です。
     人間が生きていることを不思議とも思わず、すなわち生命が存在することを当たり前と考えてしまえば、モノとしての肉体は存在しても、大生命の循環の流れはその固体で停止することになり、大自然の生命の流れからはずれた宇宙の孤児となってしまうことに気がつきたいものです。
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限りなく膨張しつづける宇宙と「暗黒物質」

     ところで、宇宙には銀河どうしの衝突によって星が爆発的に誕生する「スターバースト」という現象があることが発見されました。これは太陽の10倍以上の質量をもつ大きな星が一度に数万個から数十万個も誕生する現象ですが、このような現象を起こしている銀河がすでに6千個も見つかっているといいますから驚きます。
     これはあたかも、地球上で人口"爆発"といわれる現象があり、特に発展途上国では飢饉や貧困を増大している姿と二重写しのような印象さえ受けます。ただ、地球との違いは、宇宙は限りなく膨張していて、スターバーストを受け入れるゆとりがある、ということでしょう。
     1992年には重要な発見がまだありました。それは「暗黒物質」といわれる物質の存在です。英語ではダークマターと呼ばれていますが、光も電波もエックス線も出さないので、どんな望遠鏡でも見ることができません。ところが150億光年の広がりをもつ宇宙の質量の合計が、銀河や構成のガス雲など実際に目(天体望遠鏡の目)に見える物体の質量を合計しても、全宇宙の一割ほどにしかならないのです。
     後の9割は何か?ということで、これを「失われた質量」と呼び、天文学者は1930年にその存在に気づいていたといわれます。それが本当に存在するという証拠がやはりアメリカ航空宇宙局(NASA)の観測衛星でほぼ確認されました。それは、観測衛星がエックス線撮影に成功したガス雲の温度が1000万度もあり、普通は高温のために飛散してしまうガスが実際には飛散していないというものです。大気中でもガスはガラス容器のような遮るものがなければ飛散してしまうことを私たちは日常生活の中で経験していることです。
     たとえば、太陽の表面温度は約6000度といわれていますが、そのエネルギーは1億5000万キロの距離を越えて、地球の生命圏を保護してくれています。そして、地球に到達するのは太陽が発する全エネルギーの22億分の1に過ぎないそうです。それでも、私たちはこの太陽の恵みを十分に活用していないのです。果てしない宇宙の中で1000万度もの高温ガスが飛散しないのは、太陽のなんと5000億倍の重さ(質量)をもつ見えない物質の重力(引力)でひきつけられているからだというのです。まさに、私たちの想像を超えた重力ではありませんか。
     私にはこの目に見えない物質、すなわち暗黒物質が宇宙の生命を支えている存在であるように見えるのです。これは大気(空気)が地球の生命圏を支える存在でありながら、そのものに色も臭いもなく、人間の目や肌で感じることができないのと同じでしょう。
     大気は化学的には窒素、酸素、二酸化炭素をはじめその他の微量な元素で構成されています。そして上空には成層圏があり、さらにはオゾン層があって生命圏を保護しています。暗黒物質も天体望遠鏡の"目"ではその存在を確認することはできませんが、宇宙生命圏を維持する存在、それが暗黒物質である、ということができるでしょう。科学の究明によって、私たちの生命圏と宇宙の生命圏とはその本質において相互に"連鎖"していることが明らかにされつつあります。
     「暗黒」というと暗いイメージが浮かび上がりますが、ダークマターという英語からの翻訳でこうなったもので、見えないという意味の暗黒です。「ダーク」(暗い)というのは、宇宙空間そのものが暗いためにこのような呼び名になったのでしょう。
     科学技術の発達によって、遠く100億光年のかなたにある星団にいたるまで観測できるようになりましたが、不思議なことに、地球を取り巻いているような"大気"が宇宙空間に発見されたというニュースはまだありません。大気がなければ光を反射することができないので宇宙空間は暗いのです。このことは宇宙飛行士が証明しているとおりです。おそらく、暗黒物質とは真っ黒な物質ではなく、その本体は無色透明、無臭で清く、たとえ手で触れても空気のように何も感じない、それでいて存在感のある「無象の実態」である、と形容することができるでしょう。
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      ようこうの撮影した太陽
       「ようこう」のX線望遠鏡がとらえた太陽・(宇宙科学研究所 提供)
        ○1991年8月、文部省宇宙科学研究所が太陽観測衛星
         「ようこう」を打ち上げた。初期の連続観測で、フレアの
         発生機構に2種類あること、太陽風の新たな吹き出し機
         構など、理論の新展開を促す多くの発見を行った。2001
         年現在も活躍を続け、従来の太陽のイメージを塗り替え
         ようとしている。
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地球の不思議

     さらに地球にだけ人類万物の生存を可能にする大気が存在するということは、単なる偶然と片付けるにはあまりにも多くの偶然が、宇宙のなかのただ一つの惑星・地球に重なり築き上げられてきていることに驚かない人はいないでしょう。目に見えない宇宙の意志が働いて、目的を持って造化の妙を傾倒されたとしかいいようがありません。宇宙と地球そして人類・万物は、時空を超えて"生命の糸"で結ばれる、と解釈することができます。私はこれを「いのち生命の連鎖」(ライフ・チェーン)と表現したいと思います。
     地球上に生活する生命体はどこから来たのでしょうか。かつてオパーリンのいう「生命の起源」はあくまで地球環境のなかにありましたが、研究が進むにつれて、宇宙空間に生命の元となる元素や分子も発見され、条件さえ整えば、どこででも生命体は発生する、といわれるようになりました。
     隕石の中に発見された有機物には非常に高級な有機分子があり、アミノ酸の存在も示唆されています。微粒の中にまるで生命体としか考えられないような、独特の形の物質が見出されてもいます。生命の起源が地球に止まらず、宇宙空間にまで広がり、さらに150億年の流れがあるにもかかわらず生命発現の実際の場が地球である、ということが不思議なのです。
     それでは地球はどのようにして誕生し、進化したのでしょうか。それを知る手がかりが、隕石と、隕石が衝突して出来たクレーターにあります。隕石の成分を調べることによって、あるいはクレーターを研究することによって地球誕生のシナリオを描くことができます。クレーターに覆われた月や火星の表面、そして地上に残されたクレーターなど、原始地球の姿が想像できるものです。
     「宇宙は生成と消滅を繰り返している。超新星爆発で重い元素は宇宙に撒き散らされ、ガスとなり、また収縮して星となる」
     と前項で書きましたが、地球も星のひとつですから、同じ経過をたどったことと思われます。先ず、超新星爆発によって撒き散らされたガスや塵が渦を造り始め、中心に大半のガスが集まって原始太陽ができました。その周囲に取り残されたガスや塵が集まって、10キロメートルほどの大きさの微惑星が形成され、やがて微惑星どうしの衝突が始まります。粉々になったり合体したりを繰り返し、月ほどの大きさの原始惑星へと成長していきます。
     重力の大きいものは引力も大きく、次々に他の微惑星を吸収し、ようやく原始地球の誕生です。そして原始地球はさらに勢いを増しながら微惑星を引き付け成長していきます。大きくなればなるほど引力も大きくなり、衝突速度も早くなります。大衝突によって地表は一瞬のうちに溶け、溶けたマグマが地表を覆い始め、その上にまた衝突が起こり、地球全体がマグマの海となりました。
     衝突の瞬間に微惑星も溶け、その成分は当然のことながら分かれていきます。重いものは下に沈み、もっとも軽い気体は大気を造り、水は水蒸気となって外に飛び出し、原始地球の上にぶ厚い水蒸気の大気を形成していきました。少しずつ微惑星の数も少なくなり、衝突も終わり、やっと冷え始めました。
     地表の温度が300度になったとき、ついに雨が降り始めました。最初の雨です。いつ果てるとも知れないほどの豪雨。ノアの洪水以上の想像を絶する大洪水であったと思います。そうして原始地球に海が誕生しました。もし原始地球の位置が少しでも太陽に近かったら、水蒸気は分解されて宇宙空間に離散し、金星のような海のない惑星になっていたことでしょう。
     ぶ厚い水蒸気の雲が切れて太陽光線が地表に届き、海水の蒸発と降水という水の循環がなされるようになりました。やがて大陸ができ、大気中の一酸化炭素も海や大陸に吸収され、徐々に減っていきました。
     こうしていろいろな要素が複雑に絡みあいながら、生命誕生という奇跡が海の中に起こったのです。少なくとも35億年前にはバクテリアやラン藻が誕生していたことが明らかになっています。それは西オーストラリアの内陸や沿岸部で発見された原核生物の化石、ストロマトライトの存在です。
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    ストロマトライトの化石・(月光天文台地学資料館)

 これらの原始バクテリアの光合成によって、大気の成分は変化していきました。そして、最初の陸上植物の化石がカナダとイギリスで発見されました。どちらもシダ植物のマツバランに似ているところから、古生マツバランと呼ばれます。これはおよそ4億年前のことです。
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    マツバランの化石・(月光天文台地学資料館)

 海の中から陸上へと上がるためには大気の条件が整っていなければならないので、この頃になると大気中の酸素量が現在とほぼ同じレベルに達していたこと、あるいは有害な紫外線を遮るオゾン層が形成されていたことなどが推測されます。これらの原始植物が岩石だらけの陸に士を造り、水を蓄え、動物を養い、さらに次の植物を育てていったのです。その積み重ねによって今日の地球環境ができ上がったといえましょう。
 大気と水の大循環があってはじめて、万物は進化の道をたビることができたです。惑星科学者の松井孝典氏は、その著書『宇宙誌』の中で次のように述べています。「46億年という地球の歴史を振り返ってみると、この惑星はその進化の端緒から、生命にとって一定の安定した環境を実現するために、ひたすら邁進してきたかのように思える。
 海も大陸も大気も、すべては生命の誕生に向かって細心に調整され、いったん生命が誕生すると、今度は生命そのものを自らの環境を維持するための重要なファクターとして取り入れてしまう」
 「地球は表層付近でいわば二酸化炭素を吸ったり吐いたりしながら、一定の安定した環境を保っている……地球は自らの安定した地表環境を維持するための、注意深いフィードバック機能を備えているのだ。このような機能はいわば”母なる地球”の見えざる手がなせる業であり、そこにまた、生命との関わりにおける地球の絶えざる意思を読み取ることができるように思える」
 地球の誕生も必然であり、人類がこの地球に生まれたのも、生まれるべくして生まれでたことを意味するものでしょう。
 人間はじめ動物や植物は、地上にあって、土、水、空気、太陽エネルギーの恩恵のなかに関連し合いながら生命生活を営んでいます。そして、それらの生態の基盤は、大気、海、海洋底、大陸、マントルなど母なる地球の生命活動のなかにあります。このように、大自然の働きが二重三重に絡み合って現在の地球環境が保たれているのです。ということは、その連鎖の糸を一本切ることによって、一つのバランスが由朋れ、やがては環境全体が破壊されることを知らなければなりません。
 生物だけを見ましても、食うか食われるかの関係ともいえます。つまり食物連鎖というシステムのなかにあります。プランクトンを食べる小魚、それを追う中型魚、それを追う大型魚、それを獲物とする陸上動物という一方通行だけではなく、逆に力尽きた大型魚をプランクトンが食べるなど、相互に複雑に絡みあい、網の目のように関連しあっており、その絶妙な仕組みが生態系だといわれています。
 自然状態の生態系は調和し安定しながら働いており、それだけに一つが乱れると全体に影響が及びます。自らの修復機能が働く間はよいとして、ある限界を越えると予想外の脆さを露呈することを知らねばなりません。
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人類がつくった異質の生態系

     地球上に長い長い年月をかけてできあがった自然の生態系の最後に仲間入りをした人類ですが、初期には自然とうまく調和して生活していました。しかし、やがて人類は計画的に食糧を生産することを覚え、あるいは狩猟技術の向上等によって、十分な食糧を確保することができるようになりました。寿命を延ばし、増加に増加を重ねた人類にとって、自然生態系は不便なものとなってしまいました。
     増え続ける人口を養うために、自然からの収奪に熱中する」ことになったのです。そして、いつしか自然の生態系への侵略者、攪乱者となり、自然万物を強引に支配する圧制者となったのです。子孫を残すために食べて生きるという純朴な自然生物の生き方から、儲けるために、すなわち欲望を満たすために生き、そのために食べ 快楽を求めて日々を過ごすという、異質の人類生態系をつくり出しました。欲望はますます強くなり、もはや生活レベルを後戻りさせる勇気はないかのようです。より豊かに、より便利に、より快適に、という拡大方向から抜け出すことができません 
     宇宙から流れる大生命の末端に生まれた人類。その人類にのみ思索する能力を与えられたということは、優れた知能と技術力により、物質的開発とともにモノの奥深くに宿る精神、さかのぼれば宇宙の大精神、大生命につながる普遍の大いなる存在を思索する心、すなわち人間の霊性の向上が必要とされていると思うのです。
     知性とともに霊性高きがゆえに万物の霊長と呼ばれたのでしょう。としたならば、霊長としての役目は何かと問われれば、生命を送り与えてくれた祖(おや)の心を覚り、生命の連鎖と循環を知り、過去・現在・未来の歴史的流れのなかに、そして現世界の流れのなかに与えられた生命を力一杯に生きることにある、と答えたいのです。
     大地の上に生命を送ってくれた母なる地球。空気、山、川、海、大地、そして、そのなかに織りなす生態系。すべての生命のつながりによる恩恵に対しては、感謝の誠を捧げる以外何がありましょうか。そこから戴いた生命は、人間一人に止まるものではなく、還流させることが自然の流れです。つまり循環であり、生命のお返しです。
     自然に逆らうことなく正直に生きる動物や植物、山、川、海、さらには大気にさえも、人間は感謝どころか邪気や毒気をまき散らして汚染させ、傷つけています。それらの生命は素直に自然の理(ことわり)のなかにあります。それぞれの生命がもつ自浄力や修復機能の限界を越えたとき、その報いは人間の世界に返ってくることは自明の理です。
     地球上の生命の生活は共生であり、互いに生命を照らしあい、認めあい、調和していくなかにあります。それらの自然環境のなかに世界の万民もまた互いに認めあい、助けあい、円融大和した世界を築くことこそ、悠久の宇宙から生命の連鎖のなかに託された宇宙意思であると確信するものです。
     今日の唯物個人主義、拝金思想、経済優先主義による環境破壊をはじめ、さまざまな社会問題は、人間社会を自壊させる以外ないまでに、大自然の道を外れた方向に進んでいます。いったい発展とは何か、豊かさとは何か、それらが本当の幸福につながっているのか、と考えさせられることが多いのです。そして何より人類・万物を支え、生命の元を供給し続けている地球母体に、どれほど迷惑をかけ、徼慢の爪で傷つけ、親不孝を働いているかを考えたいのです。
     ただ一つの地球、かけがえのない地球といわれながら、その美しいはずの地球上には多くの不均衡が渦巻いて混濁の雲がたれこめています。世界を取り巻くさまざまな問題も、突き詰めるところ、人類文明の発展の歴史のなかで物質繁栄に伴うはずの精神的価値観の欠落が大きな要因となっていると思うのです。
     生命を育む大地や大自然の法則を離れて、人類の生存はあり得ないことをいつしか忘れ、物質的豊かさ、便利さを享受するにつれ、人間の心は大地を離れ、大自然の恩恵を忘れ、人間の力を過信し始めたのです。そして 人間が万物の王者であるかのごとく錯覚し、人間の頭脳がつくり出した科学と技術の力で、 世の中のすべてを解明、開発できると確信するようになりました。
     事実、今日の私たちの生活はその恩恵に取り囲まれ、もはやそれを拒否して円滑な社会生活が成立するような状況ではありません。その貢献に充分感謝しながらも、あえて述べさせていただければ、これ以上、自然と人間との逆転した思考が世界に蔓延したとき、取り返しのつかない不幸が人間社会に始まるということです。否、既にその深みにはまり込んで身動きできなくなっているのが、今日かと思います。
     この跛行的流れをひきずったまま、今日の環境問題は私たちに反省を迫っています。待った、の赤信号を発し、猛省を促しているといってよいでしょう。私たちはそれを肝に銘じて 小手先の対症療法ではなく、ライフスタィルの見直しから、基本的には地球道徳を喚起するといった環境問題の根本療法を地球規模で考えるべきでありましょう。生命連鎖の断絶は宇宙に対する人類の冒とくです。
     suto-2      
       ストロマトライト・(東京大学総合研究博物館 提供)
       ○西オーストラリア、ハメリンプールに現生するストロ
        マトライト。満潮時に水中カメラで撮影したもの。スト
        ロマトライトは、光合成バクテリア(ラン藻類)が水中
        で構築した炭酸カルシウムの構造物。オーストラリ
        アの35億年前の地層からも、その化石が発見され
        ている。
          光合成によって酸素を発生し、現在の地球環境
        を作るのに主要な役割を果たしたとされる。
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 深刻な地球環境問題

     世界各地で環境と人類生存をテーマとした会議が開かれていますが、1991年の秋に大阪で日本の科学者と文化人のグループによるフォーラムが開かれ、「99年後の2090年、人類は滅亡する」というショッキングな報告書が発表されました。これは科学的なデータをもとにまとめられたもので、①これまでのような経済成長(年3%)が続くと2024年に人口は現在の1.6倍になり、食料や資源不足が始まるものの、生活を向上させたいという人びとの動きは止められない、②2057年までには破滅の可能性に気付き、先進国と南の国ぐにとが妥協の時代に入るものの、生活水準の低下と慢性的な不況の時代が続く、③そして結局、資源の限界とともに、世界は無秩序状態に陥り、環境破壊もあいまって人類は滅亡するとの三段階の破滅へのシナリオが描かれています。
     人類の破滅が決して遠い未来のことではないという、警告を込めた予言ではありますが、これには今後起こり得る異常気象や災害、戦争などの要素は加味されていないようですので、現実はさらに厳しい事態が予想されます。これは、環境問題が深刻になった今日でもなおライフスタイルをいささかも変えようとせず、得手勝手なエゴで行動する、その一方で科学技術を過信し科学が環境問題を解決してくれる、と責任転嫁する人びとの意識の甘さに対する、科学者グループ自身による警告であると受け止めることができます。
     また、環境問題で環境リスクという言葉がありますが、これは未知なるリスクであり、原因も結果もよく分からないリスクが起こり得ることをいいます。環境科学者がそのリポートの中で述べている「地球環境について明確な説明を科学に求めるのは難しい」との言葉は、肝に銘ずべきものと思います。
     科学はある意味では、すべてが終った後でないと完全な説明ができないというもので、説明はあとからくるというのです。完全に説明できる段階になったとき、そのときにはもう、人類がこの地上に存在していない、ということにもなりかねません。
     しかし今後、科学の果たす役割はますます重大となり、特に環境問題に関しては調査、分析、技術研究、開発など、全人類の期待を担うものであるだけに、国の政策としても、充分な支援が必要でしょう。一方、国民サイドでは科学の恩恵に感謝しつつも、科学を過信するあまり、責任をそちらに転嫁し、まずいことが起きたら科学者の責任、というのではあまりにも無責任であり、無知というものです。
     今、私たちは近代社会の利点と盲点をよく承知して、どのような行動をすべきか、人間本来の知性が必要とされているのです。
     ある学者が今の日本の経済発展について語っています。日本は経済面、いわば卵の殻は大変大きくなった。しかし、中身に当たる人の考え方は昔とそれほど変わっていないのではないか」と。それが、さまざまな矛盾や国際的な摩擦を生んでいるというのです。
     同じ論法で科学の成果について語るなら、「人類は科学と技術の進歩により、卵の殻は驚くばかりに大きくなった。しかし、中身に相当する人間の考え方が豊かさをともなわず、むしろ精神的には昔より貧弱なものとなっているのではないか」となりましょうか。それが、機械文明の暴走、人心の荒廃、環境破壊などの問題を誘発しています。自らつくり上げた不調和な卵から、どんな雛を世に送り出そうとしているのでしょうか。
     次の世代を生きる子供たちに、どうして奇形の雛を手渡すことができましょうか。現代を生きる私たち大人の責任は重い、と自覚せねばなりません。
       egao10
            フィリピンの小学生・(OISCA静岡 提供)
            ○子供たちに明るい未来を。現代を生き
              る大人たちの責任は重い。 
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「月」の存在と人類

     ここで、いま一度、地球の衛星である月を見てみたいと思います。月の起源に関しては、いくつかの説があります。例えば、地球のマントルの一部がちぎれて月になったという親子説。あるいは、太陽系の別の場所ででき地球の重力にとらえられたとする他人説(捕獲説)。地球と同じガスと塵から地球軌道付近で同時につくられたとする兄弟説などです。しかし、いずれの説も決定的な証拠がなく、月の起源はこれだと断定できるものはありません。
     唯一わかっていることは、アメリカが1969年から72年にかけて打ち上げたアポロ宇宙船の乗組員たちが採集した月の石を分析した結果、その成分が地球のマントルと類似していることです。マントルとは外套という意味で、地下約35キロの深さから地球の核の上部まで、厚さ約2900キロまでの部分の総称です。月のマントルの厚さは地球のそれの約40パーセントの1200キロほどと推定されています。
     2年ほど前に上梓した『アジア発、地球へ』 初版の第三章「月が育む生命」で 月の多様な働きについてふれましたが、地球と月の構造にはこのような共通項があることを知ると、月への親近感がより強くなるのを覚えます。
     最近では、2010年頃をめどに「月面基地」構想が実現しそうな動きが活発となってきています。月面探査船アポロが持ち帰った月の石(砂)には重量にして約42パーセントの酸素が含まれており、これを使った地上での実験では、水素ガスを送り込み水素と酸素を化合させることによって、10キログラムの月の石(砂)から200グラムの水を抽出できたという報道があります。水ができればそこから酸素をつくり出すことができます。水のリサイクルシステムには、人間の汗や尿までも組み込まれることが研究されているといいます。
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      月面基地
       初期の月面基地のイメージ・(宇宙開発事業団 提供)
       ○月にある資源を求めて、人間は月に住むようになるかも
        しれない。そうなれば、宇宙線、強烈な太陽紫外線、流
        星物質などが直接表面に降り注ぐ月面では、地下に居
        住するようになるだろう。遠くに地球が浮かんでいる。

     また、月の石(砂)にはへりウム3という元素が含まれており、その量は石(砂)10万トンにつき1000トンといわれ、月面全体ではこのへりウム3が約50万~60万トン埋蔵されていると推定されています。これはエネルギー換算で地球に存在する(過去に使用した分も含めて)石油や石炭などの化石燃料の10倍に匹敵するといわれ、現在の地球全体のエネルギー需要を何と1900年間にわたって満たしうるという莫大なものだそうです。しかも、エネルギー源としては、クリーンなエネルギーであるというキャッチフレーズです。
     へリウムは、太陽の中で水素の核融合によって多量に生産されているというように、宇宙のなかでは水素に次いで多い元素です。ところが、太陽より多量に放出されながら、大気に妨げられて地上には到達できないため、地球にはほとんど存在しない元素です。月には大気がないため、降り注いだものが砂の中に蓄積されているのです。
     振り返ってみますと、人類の宇宙開発は1957年、ソ連のスプートニク1号から始まり、米ソ超軍事大国間の競争となり、12年後の1969年にはアメリカがアポロ11号による世界初の有人月面着陸を成功させました。その時の宇宙飛行士の言葉「一人の人間にとっては小さな一歩であるが、人類にとっては偉大な躍進の一歩である」は、今も私たちの耳に生々しく残っています。
         tuki-t2
           月着陸
            月面に星条旗を立てるアームストロング船長・(NASA)
            ○アメリカの宇宙船アポロ11号から分離した月着陸船は、1969
            年7月21日(日本時間)、月面着陸に成功。人類史上初めて人
            間が月に到着した。

     そして、20年後の1989年、アポロ月面着陸20周年記念式典でのブッシュ大統領演説は「21世紀には再び月に戻ろう。月に住むために」と語っています。現在、実用化へ向けてさまざまな実験が行なわれています。月の砂からの資源利用です。基地を建設する材料としてのアルミ・鉄・シリコンなどはすべて月の砂や岩石の中にあるといいます。地球から運ぶよりはるかに便利であることはいうまでもありません。
     地球と月との間に建設される宇宙ステーション"フリーダム"は中継基地となり、太陽電池の発信基地となります。スペース・シャトルは地球との間を何度も往復して月での作業を助けます。宇宙実用化の時代の到来を告げる宇宙開発はもはや冒険ではなく、技術的にも自信を持ってまかなえるビジネスである、と報道されています。地球上の石油エネルギーが枯渇してからでは間にあわない、余裕のある今のうちに始めなければ、という考え方には説得力があります。
    iss-1
      国際宇宙ステーション
       建設中の国際宇宙ステーション・(NASA)
       ○米、欧、日、加にロシアも加わった国際宇宙ステー
        ション構想。完成時の重量220t、高度400km、全高
        73m、幅108mで常時4人の乗員が駐在し、宇宙実験
        などを行なう予定であった。アメリカの財政事情のた
        め計画は縮小されたが、実施に向って進められている。
         2000年10月31日より3人の乗員が駐在している。

     確かに、人口爆発・エネルギー・環境問題など、人類に突き付けられている多種多難な問題を解決する方策として 月へ行き、その資源を利用するということは 今日の科学技術レベルで可能なことかもしれません。しかし、今それしか人類生存を支える道はないといい切れるのでしょうか。大変斬新的、魅力的なプログラムであり、もはやそれに対して懐疑的であったり、引き止めようとする態度は人類の進歩と発展の道を阻む反逆児となりましょう。それでもなお人間は本当に万策尽きたのだろうか、と思わざるをえません。
     単に月をロマンの対象として残しておきたいとか、地球上の人類同士どこまでも美しいヒューマニズムで助けあいをと唱え、ついに共倒れになるのも止むなしとするのでもありません。私が強調したいのは、人類世界の流れのなかに大きく口を開けた欠陥に気がつきたいということです。
     科学技術が進み、地球環境を守るために月面の資源を有効活用することは 一見すばらしじことのように思えます。しかし、これが物としての資源の追求開発という発想であることに恐れを感じます。唯物思想による対症療法のそしりを免れないのではないかと危倶するのです。そのような選択肢をとる人類世界は本当の健康体といえるのでしょうか。未来の子孫たちが、もし人類が生存可能だとして、20世紀の最後を生きた私たちを子孫を思った賢明な生き方であったと称えてくれるでしょうか。
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「地球道徳」から「宇宙道徳」へ

     大いなる宇宙意思によってこの地球上に生命を与えられた人類は、母なる地球の上に供給案配されたあらゆる資源、生物とともに、生命の連鎖と循環のなかで地球環境に調和し、大きくは宇宙の大生命に和していくことを宿命づけられていると確信しています。にもかかわらず、地球で欠落した部分を省みることのないまま地球を脱出して、宇宙開発へ飛び込むことの危険を訴えたいのです。
     人類が地球道徳を反省する心のゆとりをもてないまま、先を急がねばならないことは本当に不幸なことです。人類生存の危機が叫ばれている今日、生存の基盤が物質的なものだけでなく、物質を支える目に見えない精神的な基盤を見落としてはならないことを心から訴えたいのです。加速度を増して大自然の法則から離れていくひずみに誰かが気づき声を発せねばとの思いに動かされて……。人間は一度新しい発見を得ると開発の名のもとに暴走し、自制心をなくした行動に走りがちです。このことを私は恐れます。
     私は月をこのように痛めつけることが、「太陰」としての月の役割に狂いを生じ、終局的には地上の人間の体や精神に異常をもたらし、逆に生命を危うくするのではないか、と危倶の念を禁じえません。人類は地球という住み処に生存する英知と資源を宇宙意思より与えられているはずです。
     人間社会には「人間道徳」があり、地球と人類万物の調和のために「地球道徳」が必要であるように、宇宙にあっては、宇宙の秩序と地球人類の共存を維持するために「宇宙道徳」の遵守が必要ではないか、と強く考える今日このごろです。
     1992年の11月に東京でアジア太平洋国際宇宙年会議が開催されました。そのなかで「宇宙飛行士の見た地球」というテーマでパネルディスカッションがあり、毛利衛さんや秋山豊寛さんら八名の宇宙飛行士が意見発表を行ないました。私はその場にいたわけではありませんが、新聞報道から察しますと、「地球は人類の母だと感じた。宇宙から見ると国々の区別はつかなかった。故郷は地球だと思った。地球の美しく豊かな色はカメラでは表現できない。共通の船に乗る人類は平和に助け合って生きなければならない……」ということに集約できるようです。
     私はつねづね「母なる地球」ということを提唱してまいりましたが、宇宙飛行士が地球を"人類の母"と形容したのは、理論や理屈を超えた正直な心情であったと思われます。これに精神的な要素を加味したものが「地球道徳」の基本理念です。
     このように 1992年の「国際宇宙年」は多くの新しい発見とともに 私たちに多くの教訓を与えてくれました。しかも、宇宙は"普遍"ということと"絶対"ということが通用する唯一の場所です。人類は普遍にして絶対の教訓を現代だけでなく、未来の世代の生存のために活かさなければならないと考えます。科学技術の発達は喜ぶべきことですが、それが人類の"おごり"となったときに破滅が訪れることは、過去の輝かしい文明の崩壊が如実に物語っています。今こそ過去の歴史を他山の石として教訓とすべきでしょう。
     地球はおそろしく低い確率で誕生したといわれています。前にもふれましたように、太陽系が存在する天の川銀河のなかにはバルジと呼ばれる火の玉のような中心部から左右にそれぞれ約5万光年の円盤の中に 億単位の数の太陽のような恒星が存在しているのです。そして、この広大な宇宙の中には天の川銀河のような銀河集団がさらに億単位の数で存在していることも現代科学は発見しています。これらの銀河や銀河集団のなかには、天の川銀河をはるかに凌駕する大きさのものが無数にあるといわれています。
     とはいえ、これまでに発見された100億光年かなたの銀河までの宇宙には、生物を宿すような条件を備えた星は発見されていません。そして今、150億光年かなたの宇宙初発から百億光年の間の"未知の宇宙"の探究に関心が寄せられており、世界中の科学者や天文学者がこの"未知との遭遇"をめぐって先陣争いを展開しています。
     このような科学的な背景から、地球の誕生はおそろしく"低い"確率であったという見方は容易に理解できます。これを偶然と見るか、必然と見るかは、見る人の見解によるでしょうが、私は地球の誕生は宇宙創造からの"必然"の結果である、と信じています。なぜなら「生命の連鎖」は偶然を超越したものであるからです。
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第2章  ヒトの生命-神の大芸術
小宇宙であるヒト

 一人の人間(ヒト)もまた地球の誕生と同じように、おそろしく低い確率を経て誕生しています。数億の精子が同じ条件で同じ点から出発して、ひとつの卵子が待つゴールに到達できるのは、通常の場合、ただひとつの精子であることは生理学が証明しているとおりです。
 残された精子は途中ですべてギブアップを余儀なくされるという、過酷な生存競争が母胎のなかで展開されるのです。そして、いま地球の人口は56億人を超えたといわれていますが、一人として全く同じ遺伝子を継承している者はいません。ここに私たちは生命の神秘性や尊厳性、重要性を認識することができます。まさしく、神の大芸術と呼ぶほかありません。「生命(いのち)の連鎖」は「生命の循環」でもあり、それ自体神秘に満ちたものである、ということができます。
 生物学でヒトであることは細胞の核の中に23対の染色体を有していることと定義づけられています。そして、ご存知のように男女の性を決定づけるものはその中のただ一対の染色体です。XX型が女性で、XY型が男性であることも知られています。このように、一対の染色体の違いが男女の違いになるわけですが、性を決めているのは実は染色体ではなく、その中に組み込まれている「遺伝子」であることが解明されています。
     Tvsensyo
      染色体
       ○細胞の中の染色体・(NHK「遺伝子」より)
        塩基性色素に染まりやすいのでこの名がある。
        この中のDNA(デオキシリボ核酸)に遺伝情報が
        含まれている。

 ヒトであれ、他の動物であれ、植物であれ単細胞の微生物にいたるまで、遺伝子には遺伝情報が満載されています。遺伝子がもつ情報を解明することによって、生命の本質まで探ろうという計画が進められています。これをバイオテクノロジーといわれる生命工学に応用すれば、病気の早期治療にも役立ちますが、他方、生命操作や生命の複製も可能だといわれています。
 最近では、遺伝子の「特許」をめぐって世界の学者がしのぎを削っているという報道を目にすることが多くなりました。もともと人間がつくりだしたものでない遺伝子までが特許の対象になる時代に私たちは生きているのです。果たして、これが正常な世界の流れなのでしょうか。
 天空では、宇宙の起源、つまり宇宙の生命の起源をめぐって科学者や天文学者が覇権を競う一方で、肉眼ではうかがうことのできない這伝子をめぐって生物学者が覇権を競うという、極大から極微の範囲で熾烈な競争が日夜展開されているのがきょうの日です。
 これらの競争が関係者のエゴ(が我)に基づくものでなく、人類社会の発展のための真理探究につながるものであることを願わずにはおれません。生命の連鎖のなかに調和ある発展をする姿にこそ平和と繁栄があり、それが宇宙の意思に沿うものであると確信するものです。
 遺伝子は細胞の中にあります。そして、人間はもちろん、微生物にいたるまであらゆる生命体を構成する基本単位は細胞です。この細胞の大きさはというと、一個が10~30マイクロメートル。1マイクロメートルというのは1000分の1ミリメートルですから肉眼で見ることは到底できません。
 私たちの体は約60兆個の細胞で構成されているといわれています。そして一軒の家が台所、風呂、便所、寝室、食堂、居間、玄関などの機能を備えているように一つの細胞の中に生命の基本的な働きをすべて備えているというのです。人間はよく「小宇宙」にたとえられます。宇宙が億単位の銀河や星で構成されていることはすでに触れました。銀河や星を細胞にたとえれば、全大宇宙は人間の大きさということになりますから、人間はまさしく「小さな宇宙」です。
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細胞の三つの機能

 生命の基本的な働きとして 細胞は3つの機能を有しているといわれます。その1つが自分と同じものをつくり、子孫を増やすという働きです。これは細胞分裂という形で行なわれます。2つ目は、自分で栄養分を吸収してエネルギー源とし、新陳代謝を行なうことによって自分自身を一定の状態に保つように自己制御する働き。そして第3の機能は、外からのさまざまな情報を取り入れて 外界の環境の変化に即座に対応することができる、というものです。
 私たちの体を構成している約60兆個もの細胞の一つひとつが、単独では肉眼で見ることができない微小な物体であるにもかかわらず、宇宙のなかで新しい星を誕生させる働きや、人間が自分の性質を受け継いだ子供を誕生させるのと同じように、自分と同じものをつくり出す働きを行なっているのです。
 目をこらして自分の手や腕をじっと見つめていても、いかに視力の優れた人でさえ、肉眼でそのような働きを感知することはできません。細胞にこのような働きを与えているのは、いったい誰なのでしょうか。
 太陽と同じくらいの質量をもつ星の場合、原始星(星の卵)の時代はおよそ100万年程です。人間の胎児が母胎内で過ごす期間はおよそ280日ですから、新しい細胞の誕生は、その大きさからして瞬時のできごとなのでしょう。広大な宇宙の大生命から人間の生命、微細な細胞にいたるまで、生命は生き代わり死に代わりして悠久の循環を繰り返しているのです。ここにもまた「生命の連鎖と循環」の神秘さをうかがい知ることができます。
 細胞の2つ目の働きである新陳代謝と自己制御を考えてみましょう。最も分かり易いのが、絶えず角質化しつつ更新する表皮細胞です。ちょっとした傷であれば数日できれいな皮膚になります。また、私たち人間は恒温動物で、常に一定の体温(36度5分前後)を保っています。
 もし体温を維持できなくなった場合、体内の新陳代謝が阻害ざれ死ぬこともあります。そのために体温が上昇すると汗を出して熱を放出。逆に寒いとき住 皮膚の末梢血管の収縮やふるえなど、体を動かして熱を生む方向へと働いて一定の体温を保とうとします。このように人間の体自体は驚くほど精巧にできています。しかし、人間の行動はそうはいかないようです。
 例えば、わが国は旧ソ連に次ぐ世界第二位の食糧輸入国です。にもかかわらず私たち日本人は飽食に慣れ、食生活ではあまりにも無駄が多すぎます。農家の人びとが汗水たらして働いて一年に収穫できるコメの総量が1000万トン強といわれていますが、それに匹敵する量の残飯が出ているという信頼できる統計があります。飽食の結果としての暴飲暴食や偏食、さらに不規則な生活態度がさまざまな病気を引き起こしているといえます。
 あるいは近年、悪化の一途をたどっているといわれるオゾン層破壊や酸性雨、地球温暖化は、地球自体からの警告です。さらに環境を汚染、圧迫する大量ゴミ廃棄。このような現在の社会の姿に ミクロの細胞は私たち自身の体の至るところで歯ぎしりしているに違いありません。
 私たちは細胞がもつ生命維持のための基本的な働きからさえも学ばなければならないようです。そして 極大と極微の両方の世界から猛省を促されているのが、21世紀の前夜に生存している人類の姿であるといわなければなりません。
 細胞の第3の機能である外部環境への適応性から導き出される教訓は何でしょう。交通手段が高度に発達して地球は狭くなった、といわれるほどに今や地球のどの地点へもジェット機で飛んで行ける時代です。情報や通信手段の発達によって たとえアマゾンの密林の奥地であれ、ヒマラヤの山頂であれ、地球上のいかなる地点での出来事もリアルタイムで茶の間にいて見ることができるようになりました。
 つい半世紀前には夢であったような、地球の外から自分たちの惑星を眺めることもできます。100億光年かなたの宇宙の姿や、宇宙のなかで新しい星が誕生し、また死んでいく姿をも観測できる時代です。
 人類はこれほどの科学技術の発展を謳歌しながら、外部および内部環境の変化に速やかに対応しているのでしょうか。たとえば人口問題です。現在、世界人口の4人に3人が発展途上国に住んでいるといわれていますが、2050年には10人のうち9人までが途上国に生まれて、そこで一生を終わるだろうと予測されています。
 そして これら発展途上国に住む人びとの大多数が、貧困、飢餓、栄養失調。病気との闘いで一生を終えることになります。ここには数億個の精子同士の競争にただひとつ勝ち抜き、卵子と結びついて宿された生命が人間としての童要な役割をもって誕生しながら、生命の尊厳さを味わうこともなく一生を終えるという現実があります。
 その数のあまりの多さを直視するどき、この一例だけでも人類は環境の変化に速やかに対応できなかったことを反省しなければならないと思います。
 ヒトの体内では、細胞が外部環境に速やかに適応する機能を失ったときに発生するものが癌はじめ諸々の病気です。今、世界の焦点となっているエイズもそうでありましょう。地球規模では環境悪化がその最たるものといえましょう。癌やエイズがそうであるように、早期発見と治療を怠れば死を待つのみです。もちろん、予防に勝る薬はないわけですが、自覚症状のないままに病気にかかってしまうこともありますから、早期発見と治療が肝心です。
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貧困、人口、そして環境問題

     同じように、たとえば貧困問題にしても、今世紀の初めころまでは、水が高いところから低いところに流れるのが自然であるように 人口増加は豊かな国や豊かな地域で起こるものであり、貧しく不便な国ぐにでは増加率が低いと考えられてきました。それが、専門家の予想をも裏切って、発展途上国といわれる南の貧しい国ぐにで顕著となり、有効な対応手段を見出せないまま現在に至っています。世界銀行をはじめ、国際機関やそれぞれの国の努力にもかかわらず、近い将来に貧困問題が軽減される見通しはありません。人口増加率が現状のままで推移すると、貧困状態がとくに厳しいアフリカでは、今後25年で人口が倍になると推定されています。ヨ-ロッパでは人口の倍増に140年かかると推定されていますから、実に6倍近い早さでの人口増加です。
     環境問題も同じです。たとえばフロンガス。フロンは炭素に塩素・フッ素の原子が結びついた化合物の総称で、これが開発された当時は無毒で燃えにくく、化学的にも安定しており、金属を腐食しないため、すばらしい発見だともてはやされたものでした。このため工業分野はもちろんのこと、私たちの日常生活のなかでさえ“なくてはならない”ほど重宝なガスとなりました。その活用例は冷蔵庫やエアコンの冷媒、スプレーの噴霧剤など、数え上げればきりがありません。
        m-sumog
           マニラのスモッグ
           ○スモッグで覆われたフィリピンの首都・マニラ
           途上国を中心に大都市圏の公害問題は年々
           深刻となりつある。(提供・フィリピンの日本大使館)

     1974年にアメリカの化学者ローランドが、大気中に放出されたフロンガスが成層圏に達し、そこで強烈な紫外線を浴びて分解され、塩素原子を放出していることを発見し、連鎖反応的にオゾン層を破壊する可能性がある、と指摘したときもほとんど問題になりませんでした。しかし、1982年に 南極観測にあたっていた日本隊が“オゾンホール”という成層圏にオゾンの穴が開く現象を初めて観測してから、フロン問題が急速にクローズアップされてきました。南極上空にオゾンの穴が現われるとは誰も予想していなかったのです。少量を用いれば素晴らしい効果を発揮する薬が、多量に飲めば恐ろしい毒となるようなものです。
     現在はフロンを規制するための国際条約が定められていますが、必ずしも各国の足並みが揃っているとは言い難いのが実情です。このことはニ酸化炭素の排出量を規制する条約にもあてはまります。人間の活動によって滅びるようなひ弱な地球ではありませんから、まず先に滅びるのは人類ということになりましょうが、そのような滅亡の目前にあってさえ、生存のために足並みを揃えることができないのは宇宙意思を体得できない人類の悲しい性(さが)なのでしょうか。
     人口問題に関しては、人口学者がよくこんな例え話をする、と聞いたことがあります。「池の中に一株の蓮が生えた。これは年々2倍になり、100年後に池一杯になって窒息全滅した。ではこの蓮が池の半分を占めたのは何年目か。答えは99年目、すなわち全滅の前年である」。池を地球に 蓮を人口に置き換えてみようということです。98年かかって池の4分の1を覆っても危機感はありませでした。翌年、池の面が半分になった時でも、誰もそれほどあわてなかった。しかし、死滅は翌年に来ていたというのです。
     人口増加、地球温暖化、酸性雨、オゾン層破壊などの要素が重なって魔の“99年目”をもたらす可能性を誰が否定できるでしょうか。その場合、150億年のかなたから連綿として続いてきた「生命の流れ」はどうなるのでしょうか。私は世界の人びとにこのことを強く訴えたいのです。
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進む遺伝子の研究

     さて ヒトの体は約60兆個の細胞で構成されていると述べましたが、遺伝子といわれるDNA(デオキシリボ核酸)は、その細胞の中のさらに小さな核の中にあります。遺伝子DNAの構造が解明されたのが1953年といわれていますから、まだ40年しか経っていません。しかし、この間の遺伝子に関する研究の成果には目を見張るものがあります。
     DNAは2本の糸がらせん状にからみあっていて その2本の糸が離れないように塩基と呼ばれるものが対になってつないでいます。1個の細胞の中にある、 DNAを取り出して端と端でつないで1本のひもにすると全長2メートルもの長さになるそうです。もちろん、これとて肉眼で見える存在ではありません。そして、2メートルもの長さの糸が直径数マイクロメートルの細胞核の中にたたみ込まれているというのですから、想像を絶します。
     塩基には4種類あり、その配列は無限で、その配列1つひとつが貴重な遺伝情報となっているというのです。1個の細胞の大きさが100分の1~3ミリメートルで、その中の核と呼ばれる部分に30億もの塩基対が詰め込まれるのですから、超ミクロであるのは当然ですが、このような極小な存在にまで秩序と法則が保たれていることを知るとき、大自然の力の深遠玄妙さに頭が下がるばかりです。
     ところで、30億ともいわれる塩基対からなっているヒトの遺伝子の中で、有効な機能をもつ遺伝子はわずか5パーセントにすぎず、95パーセントは這伝子として機能していないとのことです。この5パーセントのうち、現在までに塩基配列と機能の両方が解明されている遺伝子DNAは約2000~5000個だそうです。そして、この解明された遺伝子をめぐって世界の科学者たちの問で特許争いが演じられているという次第です。
     ここで注目したいのは、遺伝子とはいいながら、DNAのほとんどが“無駄”な存在だということです。本当に無駄なのかどうかは今後の研究にまたなければならないでしょうが、有効な機能をもったDNAを銀河や星にたとえれば、無駄なDNAは宇宙の90パーセント以上を占める暗黒物質と対比することができます。すなわち無駄であると見えるものが実際は無駄ではなく、全体を支える有効な存在であるのかもしれません。ということは、むしろ未来への発展の要素が存在しているとも考えられるのです。
     とはいえ、DNAには生命の流れの基本である遺伝情報が満載されており、それは非常に重要な存在です。動物ばかりでなく、植物もその構成要素の基本はアミノ酸で作られているわけですが、生命のもととなったアミノ酸が地球で初めて作られたのが約35億年以前だといわれています。そのアミノ酸をもとにして単細胞の原始バクテリア類やラン藻類が生命体として誕生しました。これら最初の生命体の中にはすでにDNAが存在しており、その働きによってバクテリアやラン藻類の子孫が生まれ、現在にいたっている、というのが通説です。
     日本人の精神文化の源であるコメ〈イネ〉 とヒトとの間にも、共通の遺伝子が意外にたくさんあるようです。農林水産省がすすめているイネの遺伝子解読計画である「イネゲノム計画」では、これまでに解明したといわれる働きがわかっている遺伝子約200のうち、ヒトと共通の遺伝子が28もあったそうです。
     今後さらに研究がすすめば、もっと多くの共通遺伝子が解明されることでしょう。このように、生命を維持する最低限のシステムのなかでは、動物も植物も、ヒトもイネも、基本的には同じだということを共通遺伝子の存在が証明している、ということになります。宇宙の初発に源を発する「生命の連鎖」システムがあらゆる生命に普遍的に及んでいることがわかります。
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神聖であるべき生命の誕生

      人類学の分野では、人類の祖先として「アダムとイブは存在したか」が大きな議論になっているようですが、日本ではご存知のように最古の古典である『古事記』の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)の物語に象徴されるように、生殖説をとっています。この2柱の神が協力して、国生み、神生み、さらに海・川・山・野・草木を生み、そして人間万物をお生みになった、ということです。
     生むということは、生むものと生まれるものとの間に血のつながりがあるということです。創造となると全く別物です。日本では、これによって、大地・山川草木などすべてこの世に存在するものは、同じ祖(おや)をもつ兄弟という思想が生まれました。自然あっての自分であり、自然の営みに順応することによって自分も生かされるのです。ここに自然を大切にする自然崇拝の思想が無理なく根づいたのです。
     古来、人類はなぜか男女がほぼ半分の比率で誕生してきました。これは決して人為的に操作してそうなったものではなく、自然の摂理で行なわれてきたものに違いありません。“子供は天からの授かりもの”という表現にすべてが集約されていると思います。生命の連鎖や循環は大自然の摂理のなかにあり、それにしたがってこそまことの生命の繁栄となり、宇宙の意思に沿うものとなりましょう。
    ところが、最近はどうでしょう。「男女産み分け」が研究の域を越えて実践されているというニュ-スを目にするにつけ、愕然とさせられます。しかも、少産時代を反映して女児に人気が移っているというのです。これは人工受精の技術を応用した方法でなされ、何故か女児にのみ成功率が高いのだそうです。逆に 男の子が生まれるY精子はうまく分離できないために 産み分けには応用ができないといわれます。
     この方法が初めて公表された8年前は、「神の摂理に反する」として批判が続出したことをかすかに記憶していますが、まことに慣れとは恐ろしいもので、最近では社会の抵抗感も徐々に薄らぎ、この方法で女児出産を希望するケースが増えているともいわれます。このようにして女児を儲けたからといって 全体から見て相対的な男女比のバランスがくずれるとは思えませんが、倫理上は大きな問題があります。人間の誕生は大自然の摂理にゆだねてこそ自然なのであり、そこにこそ「ヒトの使命」があることを認識すべきでしょう。
     細胞の例をあげながら、生命の基本的な働きの一つとして 自分と同じものをつくり子孫を増やす、という自己複製の機能があることを77頁でふれましたが、世の中には不妊に悩む女性や夫婦がいることも事実です。そして、どうしても子供の欲しい夫婦は体外受精や代理母や第三者の精子の提供を受けて 人工受精を行なうAIDという方法などによって、子供を儲ける努力をしています。これは、中絶や避妊という子供を「産まない」ための技術の裏返しですが、医学や医療技術の発達が、生殖も人間がコントロールできるという過信を導いているのではないかと危惧しています。
     これも、最近の新聞報道に、アメリカの民間団体「不妊治療センター」(ICA)に日本人女子留学生が卵子の提供者として登録された、という記事がありました。他人から提供された卵子による出産は、アメリカだけで2000人を超えているとのことです。これは提供された卵子と夫の精子を体外受精させて妻の子宮に戻すという方式です。遺伝的には夫と提供者の子供となるのですが、“産みの母”になることができるというものです。日本の学会はこのような不妊治療を認めていないようですが、需要のあるところに供給ありというのでしょうか、この「不妊治療センター」だけでも常時数百人の卵子提供者が登録されている、とこの新聞は報じていました。しかも卵子提供の対価が1件につき2500ドル(約30万円)と聞きますと、生命までが“人道”という美名のかげで 安易な学費稼ぎの手段として利用される危険性を孕んでいる、ということができます。
     このように、子供を欲しながら子供に恵まれない女性や夫婦には酷な表現かもしれませんが、体外受精や人工受精の技術が開発されなかった時代、それも遠い過去ではなかったと思いますが、に生きてきた祖先たちは生命を天与として謙虚に受け入れてきたに違いありません。そして、生命の連鎖が自然のまにまに循環して現在に至っていることを、いま一度考えてみる必要があります。そして、現在でも世界をひとつの家族としてとらえた場合、近代医学の恩恵に浴することができない人びとが圧倒的多数を占めている現実があります。
     不妊とは、子供が欲しくても子供ができない状態であるのに対して、産み分けは、子供ができないというわけではありません。ただ単に男の子よりは女の子が欲しい、という願望に基づく選択です。もちろん、可能な限り先天的な病を防ぐためというやむを得ない場合もあります。このように 不妊と男女産み分けには本質的な違いがあります。ではありますが、人為的な方法で“新しい生命”を誕生させるという共通項があります。「神の道」と「人の道」の共存は可能なのか、また許されることなのか、非常に難しい問題です。
     また、人間が生物である以上、誕生があれば必ず死を迎えることは周知のとおりです。「永眠する」あるいは「息を引き取る」という表現を使って人の死を言い表わしたように、これまで人びとは、心臓の停止、呼吸の停止、瞳孔の散大という3兆候をもって人の死としてきました。この死の判定は医学の知識のないごく普通の人にも理解できるものです。ところが、医学の進歩がこの伝統的な死の判定を変えようとしています。いわゆる脳死というものです。これを認めることによって、より新鮮な臓器移植が可能となり、他の人の生命を助けることができるようになります。
     しかし、この脳死という状態は素人には分かりません。なぜなら、心臓は動いているし、体も温かいのです。にもかかわらず、死の判定を下すものです。脳が死の状態にあるのでやがて必ず心臓も止まるであろうという、医療機器の示すデータによって医者自身が認める死です。つまり、極端ないい方をすれば、大自然の手を離れて人間の手に死の瞬間が委ねられるということです。もし、これが法律で認められ一般化しますと、精子銀行や受精卵銀行ができたように、商品として臓器の売買が行なわれるようになるかもしれません。そうすると、欲の深い人間や富める者はお金の力で生命(より若く、より健全な臓器)をも買うことができるようになるのです。
     このように付随して起こる問題も心しておかなければなりませんが、もっと重大な問題があります。人の誕生と死は大自然の息呼吸に呼応して、自然のまにまに流れ、循環するものです。「息を引き取る」というように、大自然の御祖(みおや)の懐に引き取られるというのが日本人の死に対する観念でした。臨死体験者の話を聞くまでもなく、死後の世界の存在を信じ、先祖の霊を慰め敬う習慣のある日本では、「脳死」の判定を認めることに簡単には割り切れない複雑な思いがあり、躊躇するのは当然でしょう。ここでも「神の道」と「人の道」の共存は可能なのか、許されるべきことなのか、との厳しい問題に突き当たります。しかし、私はあえて「生命は人為的に操られるべきではない」と結論づけたいと思います。なぜなら、字宙の大生命を継承し、宇宙大自然の流れとともに生きることこそ、人が人(霊止・ひと)たる所以だと確信するからです。「霊止(ひと)」については改めて述べたいと思います。
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良識ある研究配慮を

     ところで遺伝子DNAの研究にはその機能を解明することによって、先天的な病気を胎児の段階で察知して治療することも含まれているといわれています。そのためにヒトの全遺伝子を解析しようという壮大な計画がヒトゲノム計画です。
     ヒト遺伝子の分析がすすめば、遺伝子の異常で病気になった体内に健常者の正常な遣伝子を組み込み治療することができるようになる、というものです。しかし、大自然の現象を見ても分かりますように、全て分かったつもりでいても、次には全く別の現象が起こり、考えられないことだ、を連発してきた人間です。ですから、100%解読し、ほとんどの病気の治療が可能になったと思っても、次の瞬間には全く別のより治療困難な病気が生じないとは断言できません。
     また、この道伝子解読にともなって起こる問題も多々あります。解読(診断)と治療が同時進行であればよいのですが、治療技術が遅れた場合、遺伝情報を知ることによって逆に人心を不安に陥れるかもしれません。エイズ患者と同じように、誤解による差別に苦しむことになるかもしれません。
     あるいは、100%遺伝子治療が可能になったとして、全患者がその恩恵に浴することができるでしょうか。そして、ここでも富める者が優先されるということは起こり得ないでしょうか。現在の人間の精神的なレベルでは、プライバシーの保護(個々の遺伝情報の取扱いの問題)、社会的・倫理的問題など克服すべき問題が次から次へと際限なく出てくるでしょう。科学の進歩以上に人間の精神が向上しなければ大変な問題が起こるかもしれません。精神的分野の教育の必要性を痛感します。
     さて、世界一の長寿国を誇る日本ですが、3年後の平成9年(1997年)には65歳以上の老年人口が15歳未満の年少人口を上回る、という統計があります。また、別の調査では30年後には65歳以上の老年人口が3.67人に1人となり、日本は超高齢化社会になる、と予測しています。
     そして、遺伝子の研究は“老い”までも遺伝子治療で克服できると豪語しています。そして、環境や食物などの外的要因も改善されれば“人生200年、300年も夢ではない”というのです。治療だけならまだしも、人間の寿命を人為的に延長することは、人為的な方法で子供を産み分けることと同等に「神の道」に反した愚考と思えます。
     それ以外にも特に遺伝子治療が孕む最大の危険性は、「遺伝子治療によって、ある遺伝子をひとりの生殖細胞に組み込んだ場合、それが子孫に伝わり、全人類に広がる可能性さえある」というものです。思想的な新人類ではなく、体的にも構造の違う新人類を誕生させることにもなりかねない、すなわち人間改造につながる危険性もあるということです。
     これこそ人間の思い上がり以外の何ものでもありません。生命科学の謎に迫る人びとの熱意には頭が下がります。が、宿命という言葉があるように、天からの授かりものの生命であり、大自然に生かされている生命です。生命に対しては慎みが大切です。それを忘れての暴走は取り返しのつかない結果をもたらすことでしょう。
     こうなった場合、150億年前の宇宙起源のかなたから連綿として続いてきた「生命の連鎖」にヒビが入り、人類は滅亡しないまでも人間はもはや人間ではない別ものの存在となってしまうでしょう。ビッグバン以前の宇宙を「神の領域」とするなら、遺伝子解明の分野でも生命の根幹にかかわる部分を「神の領域」としてこれ以上は立ち入らない、という良識ある配慮を世界の研究者に訴えたいのです。
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超ミクロの世界の働き

      遺伝子が極微の世界であることは指摘したとおりですが、極大(マクロ)の字宙創造を探る作業も、実はもうひとつの極微(ミクロ)の世界に関する学問の発展が決め手になったことはいまや常識となっています。つまり、「量子力学」といわれる学問の分野です。量子という言葉は私たちの日常生活のなかではほとんど登場してきませんが、原子や分子を扱う学問では、「粒子」という一定の大きさのものの単位を量子と呼んでいます。たとえば、人間を数える場合に0.5人とか1.5人とかいうように端数がでることはありません。ですから、人間1人を最少の単位とすると、この1人が量子に相当する存在となるわけです。
     私たちは空気と水がなければ生存できないことは当然ですが、光も生存には不可欠です。光によって世の中が見えてくることはもちろんですが、光はまた熱エネルギーの源です。たとえば、地球そのものの温度はマイナス18度だといわれていますが、もし太陽の光がなかったら、地球は氷の惑星となって人類の生存はおぼつかなかったでしょう。太陽の光のおかげで地上の平均気温が15度に保たれ、人間や他の生物の生存が可能となっているわけです。
     この太陽の光が、実は「波と粒子」の2つの面を同時に兼ね備えている、というのが量子力学によって導かれている結論なのです。光は波だ、ということを理解するのは物理学者でない私たち一般人にとっても、そう難しいことではありません。ラジオを聞いたり、テレビを見たりすることができるのは、電波があるからであり、その延長として光は目に感じる波長の波だ、と考えればよいわけです。太陽からの有害な紫外線が地上に届くのを防いでくれているのがオゾン層ですが、ここに登場する紫外線も太陽から出る光の波長のひとつなのです。
     いまや電子レンジはほとんどの家庭に普及しています。これを使えば煙を出さずに魚を焼くことができます。お酒の燗をすることもできます。これはマイクロ波や遠赤外線の作用によるものですが、人間の目には見えないものの、光の波を魚や煮物など温める物体に当てて熱エネルギーに変えて焼いたり煮たりしているのです。したがって、光は波なのです。専門的には、“波動”と呼ばれています。
     ところで、光は粒子である、ということは普通の人にはすぐに理解できることではありません。あの有名なアインシュタインは、光が粒子であることを証明してノーベル賞を受賞しました。そして、光の粒子を「光子」と表現しました。そして量子力学では、粒子と波動が混在していて一方だけに決めつけることはできない、としています。これはあくまでも超ミクロの世界の現象です。
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量子力学の発達で得た新たな宇宙論

     ところが、超ミクロの世界で起こり得るこのような現象が、宇宙創造の解明に決定的な役割を果たしたというのです。量子力学の考え方では粒子であると同時に波なので 少々の壁なら透過できるはずです。この現象を「トンネル効果」と呼んでいますが、ビッグバンと呼ばれる宇宙誕生のときに、宇宙のタネとなったものがトンネル効果によってそのタネを覆っていた壁を突き抜け、それから宇宙が成長したという解釈です。
     私たちの周囲には小さな種籾でさえ、殻がそのままの状態で芽だけが外側に出る、というようなトンネル効果現象はありえません。初期の宇宙は種モミよりもはるかにはるかに小さな存在だったと考えられています。もし、量子力学が発達していなかったら、今もって宇宙創造の原理を探る}」とはできなかったかもしれません。したがって、生命の起源をもたどることができなかったでしょう。量子力学が相対性理論とならんで20世紀の物理学を発展議せた最も重要な原動力だ、といわれるのはこのためです。
    量子力学が宇宙論に与えたもうひとつの非常に大きな影響は「真空のゆらぎ」の存在です。それ以前の物理学では、エネルギーがゼロの状態では真空となり、真空では電磁波といわれる波が消滅する、すなわち、真空の状態ではすべてが無になるといわれてきました。真空が無の状態であることは私たちにでも容易に理解できる論理です。これに対して、量子力学では、真空でも“ゆらぎ”は存在するとしています。150億光年かなたの宇宙創造の時代は何もない真空だったのでしょうが、やはり、タネとなる“ゆらぎ”があったという仮説は、量子力学で初めて成り立つのです。
     量子力学という超ミクロの現象を探る学問が、その対極にある宇宙という超マクロの進化を究明する学問に生命を与えるという、不思議な巡り合わせを思い、そして、この大宇宙のなかで生命の連鎖が絶えることなく続いていることが科学的にも立証される時代に生かされているとともに、感動を覚えます。
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無限に広がる宇宙

     さて、150億光年の広がりをもつこの宇宙の生命はいつまで続くのでしょうか。ビッグバンで始まったとされる宇宙が、やがて収縮に転じてビッグクランチと呼ばれる大崩壊につながるかもしれない、という推論がある一方で、地球の外側の軌道を回っているハッブル宇宙望遠鏡による観測から得られたデータの分析から、宇宙は永遠に膨張を続けており収縮に転じることはない、という結論もあります。これは1991年の発表でしたが、それを裏づけるように、昨年のはじめ、アメリカ国立電波天文台が宇宙の果ての電波源の観測から、現在続いている宇宙の膨張は将来少しずつスピードを落としつつも永遠に膨張を続け、ギリギリのところで収縮に転じることを避けられる、と発表しました。
    人類の起源を仮に300万年前としても、人類が生きてきた長さは宇宙の生命に比べればほんの「点」にすぎません。宇宙に始まりと終わりがあったとしても、人類の尺度からは宇宙は始まりも終わりもない「無始無終」の悠久の流れである、といっても過言ではありません。
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太陽と命運を共にする地球

     太陽はどうでしょう。太陽の直径は地球の109倍、太陽と地球の距離は、約1億5000万キロメートル、太陽の光は約8分で地球に届く、というような基本的なことは誰でも知っていることです。この太陽は巨大な水素ガスのかたまりで、中心部では核融合反応が絶え間なく行なわれていてエネルギーを作り出しています。このエネルギーの恩恵を受けて私たちの地球での生活があります。
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        地上から見た太陽:(月光天文台)
        太陽の表面は「光球」と呼ばれ、「黒点」が
        出現する。光球の温度は6000度、黒点はそ
        れより1000~2000度低い。 

     太陽の中心では毎秒7億トンという膨大な量の水素が燃えており、これによって毎秒500万トンずつ質量を失っているといわれます。それでも、太陽は46億年の間に4000分の1軽くなったにすぎません。今から約50億年後には、太陽は水素が燃え尽き、大きく膨らむとともに表面からガスが流れ去って白色矮星(はくしょくわいせい)となる、といわれています。とはいえ、太陽もまた人類の尺度からは永遠の存在であるといっても過言ではありません。
     地球の命運は太陽とともにあります。太陽がその寿命の最終段階にさしかかると、その外側が膨張し、現在の火星付近まで膨らむと考えられていますから、火星よりも太陽に近い地球は、当然太陽に飲み込まれてしまいます。しかし、これは今から50億年後のことといわれていますから、地球の生命もまた永遠である、と形容することができます。現代人の尺度からは永遠に等しいでしょう。
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時空を超えた精神のつながり

     また、宇宙という大きなスケールのなかでは、私たちの惑星・地球は、人体を構成する「細胞」の一つに対比することができます。細胞はそれぞれが役割を果たしていることは前に触れたとおりですが、そのなかでも地球という細胞の役割は際立って重要であることは申すまでもありません。
     癌にせよ、その他の病気にせよ、病気は一つの細胞がその機能を失うことから始まります。この場合、早期治療を怠ると病原菌をもった細胞が体全体に蔓延して、やがては命とりとなります。今、地球上では環境悪化、民族紛争、貧困など、すでに細胞をむしばむ複数の兆候が顕在化しています。地球という細胞が自らの治癒力を失ったとき、それが宇宙全体にどのような影響を及ぼすのでしょうか。
     そして、地球細胞のなかでは人類1人ひとりを仮に「遺伝子DNA」にたとえることができます。遺伝子という大きさは量子力学でいう「量子」に対比することができるでしょう。量子ということは「粒子と波動という2重の性質」を有していることを意味します。
     粒子は「肉体」、波動は「精神」であると考えてみましよう。波動なるがゆえにトンネル効果で壁を透過して宇宙の創造があったと仮定できたように、精神なるがゆえに時空の壁を透過して、私たちは遥かなる過去と未来にもつながりを持つことができるのです。時空を超えた精神のつながりこそ、生命の循環を支える精神的な基盤となり得るはずです。このようなことができるのは、この広大無辺な宇宙のなかで「人類だけ」なのです。
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大自然の秩序と法則への回帰

     このように、人間を中心にして、地球・太陽・銀河・宇宙が大の方向にあり、細胞・遺伝子(DNA)・分子・原子が小の方向にありますが、そのすべてが一定のメカニズムで秩序整然と存在していることが科学的にも立証されています。
     にもかかわらず、この秩序のなかに人間の力が及んで形成されたものは何一つとしてありません。人間もまた宇宙の秩序のなかで誕生した存在です。このことは地上に存在するといわれる1000万余の「種」にもいえることです。
     生命の連鎖もこの秩序のなかで保たれているのです。したがって、この秩序を乱すものがあれば自然選択されることになります。これも自然の秩序と法則のなかにあります。ひとり知識と自我を与えられた人間のみが慢心と欲望を増長させ、宇宙意思を無視し、秩序を乱す狼籍者となっているのです。
    宇宙はじまりのときに偉大なる生命ドラマの幕を開いた宇宙。日進月歩のスピードで進む近代科学は、今後もさらに宇宙誕生のタネを解明する手をゆるめることはないでしょう。しかしながら、私個人の考え方は、かくまで高度に進歩した人知の力に敬服しながらも、果たしてそこまで究明する必要があるか、と疑問に思うのです。
     宇宙のはじまりを大生命の流れの原点として人類が謙虚に受け止めて、至高かつ普遍の精神文明の源とすることに何の不都合がありましょうか。
     マクロの世界に、そして、一方ではミクロの世界にも伸びる科学のメス。究明が進むにしたがって、その利用をめぐって附随して起きる倫理の問題があります。“過ぎたるは及ばざるが如し”ともいいます。人類の築き上げてきた輝かしい功績を称えつつも、踏み外してはならない大自然の法則と軌道への回帰の必要性を切実に思うのです。
     今は科学文明の時代であり、ハイテク機器を駆使して宇宙の謎の究明にせまっていますが、宇宙空間は、昔も今も、まさに止むことなき生成発展の生命活動が行なわれています。
     それでは、ここで視点をかえて時代をさかのぼってみたいと思います。ハイテク機器はもちろんのこと望遠鏡もなかった古代の人びとは宇宙をどのような思いで眺めていたのでしょうか。
     日本の場合を辿ってみますと、遠いその昔、文明の利器も何もなく、森と共に生きた古代の人たちは、限りなく高く広々と広がる宇宙大空を「高天原(たかあまはら)」と呼んだ宇宙観・世界観を持っていたことが記されています。太陽や月も輝き、さらに無数の星がまたたく大空への最大の賛美です。
     しかもそれはただの空間ではなく、あまたの神々が集まっている、すなわち「神集り坐す(かみつまります)」と信じての表現なのです。神という表現をもって、無限の力が充ち満ちている大宇宙の働きを賛美し続けてきました。それを善言美辞といいますが、その善言美辞をつづり称えた言葉は「のりごと」とも「のりとごと」ともいわれました。それが、今日にも形式化された「祝詞(のろと)」として神社に伝えられているのです。
     思えば、現代人はこれだけめざましい科学的発展を得ながら、精神的には物質的思考に陥り、一部の専門家を除いては空を仰ぐ人も少なく、宇宙観、自然観も乏しく、人間的にも内思考で個人主義になっています。科学の恩恵を知らなかった昔の人たちの方がはるかに大らかな宇宙観をもち、自然を尊重する地球道徳を心得ていたのではないでしょうか。そのことに思いをいたすとき、人間の進歩発展とは一体何か、と考えさせられます。
     そして、悠久の昔の時代に生きた先祖たちが言葉に表わした宇宙的視野と発想が、今、ようやく宇宙科学の進歩によって確認されつつあるように思えるのです。西洋でも科学の成果がやっと「創世記」に近づいてきた、という科学者もいます。宇宙科学の発達と技術の進歩によって、旧約聖書のはじめに書かれている「創世記」が理解されるようになったともいえます。
     ここでは、「高天原に神集り坐す」との表現を生んだ日本人の思考のルーツを探ってみたいと思います。
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第3章  日本人の思考のルーツ
森になじんだ固有の文化

     山の多い日本列島に住んだ日本民族の先祖たちは、いつの時代と定かならぬほどの古い時代から、山岳の森に囲まれた原始生活を営んでいたと思われます。生命生活を営むに必要なものを森から得る狩猟採取の生活です。
     木や動植物たちとの共生であり、互いに食物の連鎖や生活の連鎖のなかで、自然に逆らうことなく調和した生活があったと思われます。森が四季おりおりに与えてくれる恩恵によって衣食住をまかない、そのなかで森になじんだ固有の文化が育まれていったのでしょう。五風十雨の温暖な気候に恵まれたこの国にして許された生活であったのかもしれません。
     山や川、海や空といった自然界の活動に順応し、そこには人間の個人主義やおごりというものは育ち得ず、山や川が暴れる、あるいは怒るという言葉があるように 自然は恐ろしきものであり、それをなだめ、いたわりながら人間生活を守る方法を考えました。後に為政者が一番重要視した治山治水の事業も、自然界への尊重と共生、そして伝承された精神に基づくものでした。それは人間の都合で勝手にやるという考え方ではなく、必ずや存在する神霊を尊び記り、人間生活に守護をいただくことの祈りがありました。
     こうした自然観と実生活の間に育(はぐく)まれ伝承されてきた道を、後世になって「神道(しんどう)」と呼ぶようになりました。千数百年前、大陸の文化が伝えられたときはじめて大和民族の自覚がうながされ、既存の信仰を「神道」と呼ぶようになったのです。
    自然に則して原始生活を送っていた当時の人びとのなかに「神道」などという言葉があった筈もありません。大陸から学問・知識・技術など多大な恩恵を受け、以後日本の文化は著しい発展を見るのですが、外来文化を同化する受け皿となったものが既に存在していたことに心をとめることが必要です。
     同じく「かんながらの道」とも呼ばれる所以は、神のまにまに ということでそこには自然の仕組みにしたがって生命生活を営む従順で素直な姿勢があります。
    また、そこには人間はじめ万物の生命基盤となる土や水・山・川・空・太陽・月・星、さらにその背後にある大いなる宇宙生命に対する畏れと感謝、あるいは美しさ.やさしさに対する賞賛やあこがれといったものがあったことでしょう。
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日本人が培ってきた自然観

     神道も宗教の一つと見られがちですが、趣が違うようです。自然を対象として古代の生活のなかから自然発生することによって成立してきた、民族の信仰の道と考えられます。
     あえて、宗教の枠組のなかに置こうとするならば、世界の名だたる宗教の儒教や仏教、キリスト教、回教などが創唱(そうしょう)宗教と呼ばれているのに対し、神道は原始宗教と呼ばれるものでしょう。すなわち、創始者もなく経典もなく、自然発生して幾世代にもわたってその生活のなかに伝承され、民族の文化や精神生活の源泉となっているものを原始宗教とい、創始者があって人びとを導き伝道活動をして、その言行録が経典となって後世の人まで導いているものが創唱宗教と呼ばれています。
     原始宗教は、日本のみならず、世界の国ぐににも大きな既成の宗教とは別に、地方において庶民の生活のなかに静かに深く伝承されているものです。それはまた、自然尊重の古い文化に支えられた先住民の信仰に共通するものでもあります。
     その時代、身近な山は先祖たちにとって神々と共に父祖たちの眠るところと信じられ、生命はそこへ帰るという考え方から、恐れだけではなく、慕わしさと懐かしみの心が深く育まれていったのでしょう。やがて神を祀(まつ)る社が建てられるようになり、その位置は小高い山あいに多く、うっそうたる森に囲まれて、傍には必ず水のせせらぎが聞かれる場所でした。
     時代の推移とともに形をなして伝えられた祭りや儀式は日本の文化伝統として現在に至るまで伝えられ、その祭り主の代表者が天皇であることは世界にもよく知られているところです。
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      三島大社
      ○緑の森に囲まれた静岡県の三島大社

     私がここで取り上げようとしているものは、形を超えて私たちの心深くに内蔵する自然観ともいうべき精神的価値観の世界です。
        「今日まで 科学者はずっと、宇宙が何であるかを説明する新しい理論の展開に心を奪われていて、なぜと問うことができないでいる。一方、なぜと問うことを商売にしている人たち、つまり哲学者は科学理論の進歩についていけないでいる」
    と、ホーキング博士は時代を見ています。
     まさにそのとおりです。もし、哲学者が「何故宇宙は存在するのか。何故人類は存在するのか」を問い、その答えを導き出すことができるならば、それは科学の一方的な暴走を許さないでしょう。
     とはいえ、彼が神の介入をかたくなに拒み、科学の力で宇宙のはじまりを解明できると自信をもっていることに感心させられます。「理性の勝利」によって「神の御心(みこころ)を知る」ことになるというのです。神の介入をかたくなに拒みつつも不思議なほど神を意識し、神にこだわり続けることに首をかしげさせられ、あたかも神と学との闘いであるかの感をいだかせられます。一神教のキリスト教によって 心の根底深くに創造主の神が宿っているためでありましょうか。それに対して日本人による科学啓蒙書にこれほど神ということばや表現が出てくることがあったでしょうか。「否」であります。では、日本人の思考のなかに全く神は存在しないのかといいますと、これも「否」でしょう。
     日本人には自ら無宗教を名乗り、神の存在に無関心な人が多いと見受けられます。ところが、不思議な現象が年に二度起こります。新年になると早朝から全人口の80%以上の人が神社・仏閣に家族づれで初詣をして祈願をします。また八月のいわゆるお盆の時期になると、これまた家族ぐるみでふるさと帰りをして先祖の墓参りをします。こうした習わしは一体どのような精神状態から発生するのでしょうか。心に思うことは何もなく、ただ習慣的に皆が行なうから、という極めて日本人的な横並びの習性なのでしょうか。
     お陰でこの二つの時期ばかりは、ざすがの大東京もひっそりと静まりかえり、車の排気ガスも減少し、美しい青空が広がります。祈る内容は何にせよ、神社・仏閣の前で、あるいは先祖の墓の前で手を合わせる姿は、日本人の美しい姿だと思います。これは世界のどの国、どの民族にも見られるもので、それぞれの宗教にしたがって祈る姿の素朴さ、美しさに共通するものです。どんな悪事を働いた人でもその瞬間、その人をとがめる人はいないでしょう。
     祈りは、目に見えない世界と目に見えるこの世とを結ぶ生命の流れを汲み入れようとしている姿であるから美しいのです。唯物思想とは相容れない精神状態にあることは明らかです。第三者の外国人が見て 日本人が自らいう「無宗教」とか「無信仰」と実際の行為に不思議がるのも無理もありません。
     日本の若者たちが途上国を訪ねたとき(特に田舎)、生き生きと行なわれているその土地の文化的なものに接し、深く感動させられるといいます。これは、自然の大地の上に先祖たちから伝えられ習慣として取り込まれたものに、人間同士としての共通項に目覚めるためと思われます。
     近代文明社会の流れに呑み込まれている現代の日本人は皆忙しく、年に二度だけ、民族の遣伝子に無意識のなかに伝えられたものに呼び覚まされて 奇特な行為をしているのかもしれません。宗教や信仰について無関心であったり、あいまいに見受けられる日本人の思考のルーツを考えるには、はるか遠い昔に遡らなければなりません。
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近代化がもたらした現代日本人の思考変化

    日本人は「あいまい」で「玉虫色」で「NOといえない」などは、外国人にとって理解し難い印象を与え、日本人にとって不利であるかもしれません。自然界に順応し調和を保つことには優れていても、国際舞台で論争に参加できない弱点はぬぐいきれません。
    言挙げせぬを良しとか、不言実行を良しとするだけでは、人類社会に投げ掛けられている多くの問題を解決していく上で不都合な点が多いことでしょう。その対策としてさまざまな分野での国際体験・国際協力、特に教育機関の役割は大きい筈て、今後ますますその面の施策が期待されます。
     ところで、今日の日本人の持つあいまいさは、本当に自然への順応と調和の精神から発するものでしょうか。それは疑わざるを得ません。思いますに それは近代化された現代思想と無意識のなかに受け継がれてきた思考との不調和による戸惑い、あるいは“ゆらぎ”ではないでしょうか。
    ゆらぎが自信のなさにつながるときマイナスの要素となりますが、これをプラスの要素に生かすことこそ、現代に生きる日本民族に課せられたテーマであると思うのです。
    文明の利器は家庭内にも充たされ、便利と快適を与えられた一方、社会には人間性を欠いた砂漠化が広がっています。個人主義のはきちがえは人間同士の疎外感を生み、社会全体を美しく住みよいものにする道徳を不在化させています。個々バラバラに、得手勝手な生き方をするところに公共心とか人間尊重心とか人情・友情は育つべくもなく、物質的には昔と比較にならないほど充たされていても、人びとの心は不安と孤独にさいなまれ、精神的病いが広がる一方です。
    さらに、豊かさを享受している日本人の甘えとも受け取れる国際社会に対する無知、無関心や自国に対する勉強不足、無関心が目立ちます。大自然や生命への感動ももたない空白の心は霊性も荒ぶり低下し、その意味では無宗教・無信仰といってよいでしょう。しかし人たるもの、頭につめこまれた物質的知識のみの銀行となってしまったのでは、あまりにも人間として温かみを欠いた心貧しいものとなりましょう。
    生命のルーツは大きくは宇宙大生命の血脈のなかにあり、生命なるが故に通いあい、感応しあう霊性を備えているのが人間であると確信しています。人(ひと)は霊(ひ)を止(と)めると解釈できます。霊をヒと読むのは、古典(日本書紀)に準じたものです。日本の文化や思考のルーツをたどるとき、さまざまなヒントを与えてくれる神話に目を向けてみたいと思います。
    先祖たちが素朴な言葉のなかに伝えた人生観、世界観、宇宙観をたずねてみたいのです。といいますのは、欧米から受け入れた文化や学問・思想のみを良しとして 伝承されたものを打ち消したものの、打ち消し切れないものがその精神構造や生活習慣のなかに残り、その両者の不消化と不調和から、日本人の思考のあいまいさがくるのではないかと思うからです。
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『古事記』にみる古代日本人の思考と生活

     8世紀初頭に編纂された書物に『古事記』『日本書紀』があります。この二つの書は、わが国古典の代表的なものです。8世紀は世界史的に見ればそれほど遠い過去とはいえないでしょうが、特に『古事記』はそれ以前の遠い過去からの伝承の記録として価値ある書であり、古代の日本人の生活や思考のあり方がうかがわれる、いわば手解きとなるものです。
     今日では考古学の分野で、日本最古の土器として縄文草創期にあたる1万2千年前のもの(長崎県洞窟遺跡)が知られていますが、それ以前の旧石器時代(3万年前)の石器は北海道から九州にいたる各地で発見されています。
    さらに驚くことに、1993年5月に宮城県高森遺跡で発掘された石器類45点は43万年前から61万年前のものと測定されたのです。何と、これは北京原人と同時代となります。科学的な3つの方法で地層の測定をした結果の発表ですから、私たち素人には疑うべくもありませんが、いずれにしても私たちにとっては気の遠くなるような古い昔の時代の人たちからの情報は、ひょっとすると異常な突出的進歩で道をはずした現代を見直すよすがとなるやもしれません。
     世界各地での遣跡の発掘により、さまざまな事実が発見・証明されていく興味深い時代ですが、科学の発達は300万年とも400万年ともいわれる人類の歴史さえ現代に近づけ、一つ地球の国土の上に古代と現代とが決して別々のものではなく、連綿と生命のつながりをもって結ばれていることを立証してくれているようです。それを受けて、現代を生きる私たちが未来へ向けてバランスを取り戻す手だてとなるならば、科学もさらに生きてくることでしょう。
     話が横道にそれましたが、その『古事記』には冒頭に
    「天地の初発の時、高天原に成りませる神の御名は、天之御中主神。次に高御産巣日神、次に神産巣日神、此の三柱の神は並独神成りまして、隠り御身なり」
    「アメツチのハジメのトキ、タカアマハラにナりませるカミのミナは、アメノミナカヌシノカミ。ツギにタカミムスヒノカミ、ツギにカミムスヒノカミ、コのミハシラのカミはミナヒトリガミナりまして、カクりミミなり」
    とあります。
    さらに読み進みますと伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)が国生み、神生み、山川草木を生んだ、と記されています。この二柱の神が私たちの祖先神である、と。そして、このような古書に表現されていることが、好むと好まざるとにかかわらず日本人の民族性を形づくる大きな要素になっていると考えられます。もちろん、そんなこと嘘だ、考えたことも無い、と否定される方もあるでしょう。しかし、それは既に日本民族の血となり肉となっていて、特別に意識しないでもいつの間にか親から子へ、子から孫へと代々受け継がれてきた伝統や文化、生活習慣のなかに生きていて、そう感じさせるのです。
    「高天原に成る」というこの「成る」は、子供が大人に成るという「成る」と同じ意味です。生まれて日々成長してやがて大人になる、すなわち生成発展して止まない「日に新たに、日にまた新たなる」の意味です。新しい生命の限りなき進展です。
    前にも触れましたように、現在の科学によれば、宇宙は約150億年ほど前の起源にはじまり、宇宙に存在するあらゆる物質やエネルギーの基はビッグバンと呼ばれる大爆発によって造られたとされています。膨張する宇宙といわれていますが、誕生直後の宇宙もすさまじい速度で四方八方に拡大し、その過程で素粒子が生まれ、電子や原子核が生まれた、とされています。
     そして10万年後、ようやく宇宙最初の原子である水素が生まれたという。水素は星の内部で燃えることによってほかのより重い元素に生まれ変わっていきます。寿命を迎えた星、つまり超新星爆発によってもさらに複雑な元素が生まれていきます。すなわち宇宙は星の誕生と死を繰り返しながら、次々に複雑な元素を生み出していく、万物生成発展の源であるといえます。
     また、宇宙に浮かび自転公転している太陽系惑星を例にとりましても、もし、一つひとつが自由勝手に行動すれば互いにぶつかってしまいます。不動の中心、あるいは焦点があって それを軸に秩序正しく活動しているからこそ、ぶつかることもなく、人間がその軌道を計算して惑星探査機を飛ばすこともできるわけです。もちろん、特異小惑星など他の天体に衝突する可能性のある星もあります。
    そして 天文学の分野で天体の運行は重力や引力の働きをもって説明できる今日です。しかし、そういった天文学の知識も何もない時代の人びとが、宇宙にそういう働きの存在を認めて それに対して「御中主(みなかぬし)」と名付けたことに深い感銘を受けるのです。
     次に「産巣日神(むすひのかみ)」ですが、日本書紀では、「産霊」の字を使ってあります。産む霊、または霊を産むということは、天地万物すべてのものに霊が宿り魂がこもっている、という考え方です。人の知恵でははかり知ることができないようすを、霊妙あるいは霊異(くしび)といいます。不思議な縁のことを奇しき縁といいますが、このことからも、「むすび」とはすべて物を生成することのくしびなる働きと理解できます。
    苔(こけ)や草の生えることのざまを「苔むす」「草むす」というように「むす」とは無かったものが自然発生的に生じ、それがだんだん生長するざまをいいます。実の生(な)ることを「実がむすぶ」といい、露の生ずることを「露がむすぶ」といいます。つまり自然の生成化育の働きを、一言で「産霊」というのは言い得て妙なる言葉です。生まれた男の子を「むすこ」といい、女の子を「むすめ」というのも意味の無いことではないのです。
     さらに、「産霊」は二つ以上のものを一つに連ねて統一するという意味もあります。紐を結ぶ、交わりを結ぶ、縁を結ぶなど、「むすぶ」とは二つ以上のものを結ぶことによって、新しいものが「むす」、すなわち生まれることです。ついでながら、両手でしっかり形を整えた御飯のことを「おむすび」といいます。稲は「命の根」ともいわれますように、私たちの生命(いのち)を末永くつなぎ止めるものです。稲霊(いなだま)のこもる御飯粒をたくさん、しかも、心を込めてしっかりむすび固めながら食べることによって生命力も強くなろうというものです。
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一神にして多神、多神にして一神

    日本神話によれば、天之御中主(あめのみなかぬし)が宇宙の中心にあって、その後、造化の活動で発生したものに次々神の名を贈り八百万の神となるのですが、八百万を一つに縮めれば天之御中主に帰一するという考え方です。太陽・月・星・地上の山・海・川・土・水などさまざまな働きに対して、また木や石などの自然物、そして食物、はては人間の排泄物にいたるまで、神の名を贈っているのです。
    そこに、当時の人たちが大自然のなかでいかに自然を尊重し、あるいは自然に対して、こまやかな気配りをしたかを窺い知ることができます。さらに、自然の生命の流れのなかに人間の生命をゆだね、自然と柔軟に調和と共生の道を歩んでいたことをも知ることができるのです。
    開けば八百万、縮めれば一神。一神にして多神、多神にして一神という考え方は、つかみどころのない、あいまいで心もとないものに感じられましょう。西洋の合理性や一神教の理念には合わないかもしれませんが、自然界の実態や生態系のありさまを観ますと、まことに多様性を含み、それらが関連し合って巧みに共生し、地球生活や宇宙生活が成り立っていることを知ることができるのです。非合理の集合による合理、とでもいうべきこの真理が宇宙の実態だと思うのです。
     人間でも一人でたくさんの一肩書を持っている人がいます。その一つひとつの肩書によって働く分野は違ってくると思います。つまり、働きに応じて肩書が変わるょうに、神も働きによって名前が違うわけです。多数の神でありながら一神であり、逆に一神であるかと思えば多神にもなります。つじつま合わせのようで、何ともいい加減だと思われる方もあるでしょう。
    しかし、このようなことを不思議とも何とも思わず、何の抵抗も感じずに受け入れてきたのが日本人なのです。それ故に、年の暮れにクリスマスを祝いながら、年が明けたら早々に神社参拝をすることに、何の戸惑いも後ろめたさも感じないのです。
     また、日本は風呂敷文化だともいわれますが、この風呂敷の発想もここに源を発していると考えられます。柔らかいので包む中身によってどのような形にもなります。変幻自在です。丸いともいえますし、四角とも、またあるときは三角ともいえるのです。大きくもなれば小さくもなり、さらに何もなければ小さく折り畳んで懐(ふところ)にしまうこともできます。まことに頼りない存在でありながら、いざとなれば何でも簡単に包んでしまいます。
    カバンはそういうわけにはいきません。それ自体の型が決まっていて、中身に左右されることはありません。ですから逆に、入れるものによってカバンを選ばなければなりません。カバン一つひとつが存在意義を持ち、しっかり自己主張しているわけです。
     さらにまた、縮みの文化でもあります。畳の部屋で生活する場合、何でも畳んで片付けてしまう必要があります。着物、ちゃぶ台、布団、人間まで膝を折って座ります。もし、畳の部屋で洋間のベッドを真似て布団を敷いたままにしておけば、だらしがないということになります。また、同じ一つの部屋でも、使う用途に応じて呼び名が変わります。食事のときは居間になり、客があれば座布団を出して客間になり、夜になれば布団を敷いて寝室になるのです。
    こういった生活習慣があればこそ、持ち運びが簡単で 使って便利なコンパクトな製品が次々に生産されるのではないでしょうか。比較的手先が器用だということも、毎日毎日、畳んだり広げたりして手を使うことによって、自然に身に付いた特技といえるかもしれません。
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天地の恵みとしての農業

    「むすび」について前述しましたが、私は人間の生命生活にとって一番根幹となる「むすび」の業を「農業」に見ています。日本には昔から「農は国の本」という言い伝えがあるのも、神話にその起源を発していることは日本人の知るところですが、そこに宿る産霊(むすび)の精神に気を留める人は今日では少ないのです。
    この産霊(むすび)の精神を忘れ去ったところに農の心が失われ、商品化、営業化した米や農産物と変化しました。営業のみに心をとらわれ、経済優先に走った結果が今日の農業の荒廃を招き、さらにそれが国士や人心の荒廃をもたらしたことは否めません。
     世界史が伝える日本への稲作の伝播は比較的遅く、今から2300年ほど前といわれていますが、ともかくも日本神話の伝えは天界から授かった稲穂として尊ばれ、建国以来すべて農業を中心として国の歩みが行なわれ、伝統文化を築き上げてきました。
    農民は百姓(おおみたから)と呼ばれ、近年まで、その地位は商業よりも工業よりも高いとして尊重する風習がありました。そこに伝わる「むすび」とは「天地のむすび」であり、母なる大地の上に万物に息吹と生命力を送り与えてくれる宇宙造化力に恭順して 人間のねんごろなる介錯によって産物を生産する業であったのです。
    人間にとっては苦しい労働提供ではありますが、天地のむすび、すなわち天地大自然の生命の循環のなかにあっては、人間の力はいかに小さな一部分であるか、そこに祈りと感謝と勤労の精神が育まれたものと思われます。人間中心主義や知識的イデオロギーも入る余地はないのです。そこに工夫された農法は自然の生命の循環によるリサイクルであり、土や作物に害を与えない自然物の導入による農業で おのずから環境との調和が保たれていました。
     やがて科学的分析法が進んで肥料成分を作り計量して施すようになりますと、増収への道が開かれました。土壌学・肥料学・栽培学・作物生理学・農業気象学……など、およそ細分化の限界にまで達したような学問体系に囲まれた感じで農業は進歩したかに見えます。しかし、「木を見て森を見ず」の譬えのように、農業という産業の真実の姿は大きな天地の業である、という根本を見失うことであってはならないと思います。
    農学栄えて農業滅びるといわれないためにも、原点に立ち返って、農業を含めた産業を大自然の生命の理(ことわり)のなかでとらえる視点が政治家にも学者にも、また生産者にも消費者にもすべての人びとに是非とも必要でしよう。
     今日いわれるところのバイオ一テクノロジーも自然の生命の連鎖と循環のなかにあり、大自然の原則に沿った研究であるはずです。生物のもつ有機物の合成。分解、あるいは無機物の科学的変換機能を探るといいますが、基本的に大切なことは宇宙の生命力をエネルギーとして栽培に引き込むことを意味していると思います。
     今、土は疲れ傷つき病んでいます。微生物の著しい減少により、ワラを水田に施しても分解が行なわれず、従来の農機具では刃が立たないほど堅くなった耕地が至るところに広がっており、もはや健全な農地には戻らないでしょう。母なる大地が万物を生まない塊(つちくれ)となってしまったところに、はたして国の生命はどこに宿り得ましょうか。
    地力が低下したのみならず、大量施肥によって河川は汚染され、出来た産物は穀類の形はなしていても天地のむすびによる真のエネルギーに欠け、栄養価の落ちたものとなっています。形や色など見栄えだけの野菜、甘さだけの果物に人びとは自分たちの生命を託そうとしているのです。
     世界から森林が失われ、砂漠化が広がる今日ですが、地球上のいかなる国士も宇宙大自然の造化力、大生命の活動によって生まれたものであり、本来、生命力のあるところに生物が住み、人間が住み、人間の誠意ある対応によって産業の道を開けば、必ずや母なる大地は恵みを与えてくれたのでした。その大地から生命の道を開くことが産業であり、まさにこのことが広い意味での農業の心だったと思うのです。
    強調したいことは、商業国家であれ、工業国家であれ、国是に農業を立てた国であれば、他の産業にもその精神は脈々と生かせるはずだと思うのです。むすびの精神は、これまで述べましたように天地のむすびであり、天地間にみなぎる生命の連鎖と循環の理に遵ずることです。
    地球上の海に川に山に野に産出する農・漁・林業も、同じ視点でとらえています。さらには、人類文明社会の繁栄に大きく寄与する工業・鉱業にしても、その原点は農業にあると解釈しています。ちなみに産業の「産」は、日本語で「むすび」すなわち、天地のむすびのなかにある作業であることにおいて同一基盤に置かれるものです。
     地下に蓄積された資源である鉱物も、遠い過去の地球造化作用による産物です。あるいは古代生物の遺骸ともいうべき蓄積物である石油や石炭などの化石燃料を採掘して人類生活に戴くという意味で 産業といいながら天産自給であり、母なる地球の生命のなかで行なわれた「むすび」の業です。過去から現在、そして未来につながり、地球生命と宇宙生命のむすびによって織りなされた天産物なのです。
    それらに対して その恩恵のなかに人間生活が成り立つものであれば、この奇しびなる生命の連鎖と循環の理に謙虚にならざるを得ないのです。ですから、天産自給の産業にもおのずから節度と慎みが伴われるのは当然のことといえます。現在だけの、あるいは自分たちだけの略奪と侵略の産業に陥ることなく、世界中の国ぐにと分かち合い、また未来の人びとに生命の連鎖を節制をもって贈り伝える務めが現代人には託されているはずです。
    日本は、1993年の戦後最悪といわれるコメの凶作によって 緊急輸入しなければならなくなりました。その量も230万トン。世界の市場を狂わせなければよいがと案じられます。世界の需要と供給、さらに一粒のコメさえもなく飢えている人びとのことを考えますと、飽食を反省するでなく、農業のあり方を反省するでなく、安易にお金で解決することは最善の策とはいえないでしょう。
     日本は、狭い国士ながら急な山あいの地も開墾してやっと十分に食べられるようになったばかりです。農業技術や知識の向上はもちろんですが、化学肥料や農薬の使用によって増産できるようになりますと、大地の生産力以上の無理な負荷を与えての増産であることを忘れて、簡単に減反政策がとられました。大地の放棄です。これでは大地ならずとも何と身勝手な、と怒りたくもなるというものです。
    異常気象によってコメができなかったということは、農薬も化学肥料も大型機械も役には立たなかったということです。コメを育てる最大の力は土や水、そして太陽エネルギーをはじめとする宇宙大自然の力にほかならないのです。それに人間の労働力が加わって豊かな実りがあるのです。
     地球自体が長い長い年月をかけて土をつくり、万物を養う環境をつくったことは前に書きましたが、その恩恵を忘れての経済至上主義の農業は当然のこと崩壊していくことでしょう。人類の生命を養う食糧を生産する農業。その農業を他の産業と同一視し、競争力をつけなければ、と過剰な生産を期待することがそもそもおかしいのです。
    それが大地自体のバランスを壊し、やがて生産する力をも奪ってしまって不毛の地と化していくのです。大地も人体と同じく生命をもった生きものなのです。こうした観点や国際的配慮に乏しい政治家の思いつきでその場かぎりの減反を強い、休耕田をつくり、はたまた復田をといわれても、生命ある大地は、心なき人間の身勝手にいかに応え得ましょうか。
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第4章  奇しびなる生命の連鎖と循環
神霊元子が充ち満ちる宇宙

     ところで、その半生余を神道の研鑚に捧げたオイスカの創立者中野興之助翁は、神道でいう「高天原に神集ります」の「神」に「神霊元子」の名を贈りました。
    「宇宙大空は広大無辺に広がっているが、単なる空間ではなく、そこには一分一厘のすき間もなく神がつまって活動している。これを宇宙霊界として観るとき、霊眼霊耳で観分け、聴き分け得る霊子である。これを神霊元子と申す」
       「科学が証明する原子より素粒子よりさらに極微に活動するざまは、玄々妙々、無始無終、至大無外、至小無内、至粋至純、人間の言葉で称えきれない至尊である」
    と述べています。
     人間はじめ万物をのせた地球は太陽系のなかの一つの惑星です。その太陽系を含む直径約10万光年の典型的なこの銀河は約2000億の星とガス、塵からなる巨大な天体です。そのような銀河が2000億個以上存在するという大宇宙は、人間の言葉では果てしない、時間的には永遠という以外ありません。
    それらの無数の天体に生命を送り、生死を繰り返させる循環を与える力は一体どこから送られてくるのでしょうか。ほかでもない宇宙大空間です。神集ります宇宙、すなわち神霊元子が充満する宇宙は大生命そのものと考えられます。
     生命なるが故に一時の休みもなく活動し、関連し合いながら生命生活を営んでいます。生命あるものは極大の宇宙の天体から地球、そして人間、動物、植物、極微の細菌、微生物に至るまでこの大生命の流れのなかにあります。一物たりともこの路線をはずれて存在するものはないでしょう。 
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人知を超えた大生命の流れと一つの意思

     さらに中野興之助翁は、
    「大なる宇宙の創造の起源において、一点の兆(きざし)が現われた時、そこには必ずや創造の意思が存在した筈である。宇宙意思は動かざるものであるが、厳然として存在する。その意思が目的をもって流れて働くときを、大精神という」
    と述べています。
     広大無辺の大宇宙にその起源以来連綿と繰り広げられている大造化作用は、果てしない宇宙大産業であり、到底人間の知識や力で想像の及ぶものではありません。宇宙に誕生と崩壊、すなわち、生と死という生命のドラマが際限なく繰り返されていることは前にふれたとおりです。この人知を超えた大生命の流れがただ漠然と無目的に働いているとは思われません。必ずやそこには、そのすべてを統率する一つの意思が存在すると確信するのです。
     その宇宙意思の目的は何か。それこそが、その起源より生命を育むことであり、未来永劫に大生命を流すことでありましょう。人間生命と同じく、幾久しき世代にわたり生死が繰り返され、現在も、そして悠久の未来へ向けて宇宙の大生命は意思を受けて流れることでしょう。極大から極小へ。至らざるところなき生成発展、一瞬たりとも止まることを知らず、唯ひたすら産業し、宇宙の万有万生すべてのものと関連し合いながらの宇宙産業です。
     その昔、世界の科学者たちは宇宙の様相をカオスと理解しましたが、ニュートン力学の法則以来、宇宙に秩序を認めました。最近、再びカオス説がでてきましたが、しかし、よく調べていくとそのカオスにも一つの法則、秩序があると科学書には解説されています。
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永遠なる生命

     生命とは、地球上に形ある体をもったものだけに「生命」という言葉をあてはめる世俗の常識から見ればおとがめを受けましょうが、その実態は、「生命」の流れが母なる地球の生命のなかに、ひいては宇宙生命のなかに脈々と流れている、ということを強調したいのです。
    人間の肉体一つをみましても、肉体が死して火葬されるにしろ、土葬されるにしろ、水葬されるにしろ、他のバクテリアや微生物によって分解され、大地に帰り大地の要素になることは間違いありません。
     その意味で生命は自分だけ、この世だけでなく、形はなくとも、微細な(顕微鏡的)物質要素としては永遠に続くことになります。
     「生命」の真髄は、このモノとしての要素だけではなく、「たましい」とも呼ばれる霊魂の永遠性でありましょう。それを永遠なるものになさしめるのが、宇宙の大精神、大生命への連鎖であります。人を霊止(ひと)と読ませたのは古人の知恵でしょうか。あるいは、本能的なものがそう読ませたのでしょうか。
    このようなことからも、人は霊性の向上、精神向上が物質的向上とともに不可欠なものであり、人間の本性であると言えるのです。
     この地球上に肉体をもって生命を授けられるということが、どれほど価値ある尊いものであるかを知ることが大切です。一個の生命を生む前に、父母の肉体は決定的ですが、父母の肉体も含めて、その背後に働く大生命の流れの法則と秩序のなかにあることを忘れてはならないと思います。ここに人間としての踏み越えてはならない慎みと、守らなければならない生命倫理があります。
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横暴きわめる人間中心主義

     より早く、より便利に、を目指して進む科学と技術。それを進歩と考え、その快適な美酒に酔い痴れて見境なく追求した結果、自然界の生命は傷つき破壊され、もはや取り返しのつかない地球環境をつくりつつあります。その破壊された環境のなかに、いかにして人類のみ生き長らえることができましょう。
     わき目もふらず急ぎ走る人類の進歩のスピードに対し、人間の生命生活を支えてきた他の生物たちは一体どうなるのでしょうか。生物たちはみな大自然のなかで長い長い年月をかけて、環境に順応して進化してきました。
    象の鼻があれだけ長くなるのに、キリンの首があれだけ長く伸びるのに、亀があの固い甲羅をつけるのに、どれほどの年月を要したことでしょうか。今日の生態系は地球の歴史とともに歩んできたものです。進化の過程で新しい種が出現する一方で、気候や地形などの環境の変化や種間の競争に敗れて絶滅した種も当然ありました。
    ところが、いま起きている絶滅のスピードは、かつてない激しさであり、これは明らかに人類の行動に起因するものです。種が滅びる速度は、6500万年前の恐竜時代で1000年に1種だったといわれます。時代が降って、16世紀ルネッサンスを境に生物種の消滅の速度は急激化し、1900年代で1年に1種、1950年代には1年に40~100種となり、1975年には1年間に1万種となった、と報告されています。
     そして、アメリカのカーター大統領(当時)の命によって組織された環境問題諮問委員会が80年代初頭に発表した特別調査報告書『西暦2000年の地球』では、2000年に向けた今後20年間で滅びる種の数は50~60万種であると予測されました。また最近発表された別の報告では、1990年から2000年へ向かって、平均して1年に4万~5万種の生物が地上から消えていくだろうと、より厳しい予測がなされています。
    人間中心主義、経済棲先主義に立つ今日の開発のスピードは環境を敵にまわし、生物の生命生活の速度を無視することによって、多くの生命を死滅に追いやっています。人類が進歩と繁栄を願って創った文明が自らの首を絞め、生命を断つ矛盾に気づきながら、そこから抜け出す道を見出せないでいます。
     他方、人間の飽くなき欲望をつのらせるかのような開発商品が、家庭内にまで氾濫する今日です。便利さや快適さは得られても、便利さ故に本来の人間の手足や頭脳さえも退化させられるのではないか、と失われる部分もあることを危倶します。本当の幸せや豊かさにつながるものか否か考えさせられます。そして今、こうしてペンを走らせている間にも、国連から贈られた世界の人口増加を示す人口時計は数を重ね、ついに56億を突破し、続く57億へ向けて刻々と数字を刻んでいます。
     爆発的な世界人口の増加のなかで、食糧問題は環境問題とともに深刻さを増す一方です。世界危機が穀類計算でもはじき出されていますが、農業の重要性を考えるのに、すでに失われた大地の復帰は絶望的であっても、環境、すなわち士や水その他の生命の連鎖の理のなかに基本的な反省を、と叫ばずにはおれません。
    経済優先の社会の仕組みから逃れることは至難ですが、現実に起きているのはそれ以上の人類の生存にかかわる環境の枠組みがストップをかけているということです。従来の考えのまま進めば、世界の国士の生命力を塞ぎ荒廃を促進させ、穀物市場の混乱を激化させ、果ては国際資本の手玉に取られるという事態さえ起こり得ましょう。
    今後、世界的に気象異変が恒常化する可能性も大きく、食糧という人命生存に直接かかわる資源外交の渦中に翻弄されるならば、石油危機の比ではないでしょう。そのしわ寄せは、経済基盤の整わない弱小国のさらに弱小部を襲うのは必至です。
     豊かさは人類全体、地球全体のなかにあります。モノと心のトータルのなかにあります。大自然の理は生命の連鎖と循環のなかにあることを肝に銘じて、行動に移りたいものです。死語にも等しいといわれるかもしれませんが、「身の程を知る」「身の程をわきまえる」などの言葉は、今の時代の人類の横暴さにこそあてはめられる言葉だと思うのです。
     遜悟空の話ではありませんが、自分の力で縦横無尽に暴れまわったつもりでいても、所詮はお釈迦様の掌の上であったというのと同じで、人間知識や技術力を駆使して開発が大飛躍的に進んだとしても、宇宙大自然の法則からはずれては人間生活の健全さと真の豊かさはないことを知るべきでしょう。
     加速度を増して谷底へころがり落ちるかのような人類の運命を思い、背筋が寒くなるようです。1992年6月、ブラジルのリオデジャネイロで規模において今世紀最大にして最後といわれた国際会議「環境と開発に関する国連会議」が開催されました。世界170ヵ国以上の大統領や首相らが一堂に会したため、地球サミットとも呼ばれました。
    しかし、その地球サミットではすでに遅かったのです。それでもそれに気がついた人びとによって会議が開かれ、地球の隅々から駆けつけたかってない多数の国・民族、多様な人びとによって、意識が一つにまとまったことは大きな第一歩であったといわねばならないでしょう。その後の第二歩、第三歩こそ重大で それに私たち全人類の運命がかかっていることを肝に銘じたいと思います。
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おわりに

     環境会議が行なわれる直前に、その会場となったリオセントロという国際会議場の近くで、「聖なる地球を考える集い」が開かれました。この集会の規模は決して大きいものではなく、施設も簡素なものでしたが、世界から集まった参加者によって醸し出された雰囲気は、集いの名称そのままの「聖なる地球」を愛おしむ熱気で充満するものでした。
    私はかねてより「地球道徳」ということを提唱してまいりましたが、幸いにしてこの集会で発表する機会を得ることができました。
     「地球道徳」の根底にある哲学は、やはり過去・現在・未来に通ずる天地宇宙という壮大な空間に広がる生命(いのち)の循環であり、連鎖です。そして、人間がその大いなる自然の一部に過ぎず、調和と共生のなかにこそ生存の道があることに目覚め、「身の程をわきまえ」「足(た)るを知る」心の喚起を願うとともに、特に先進国の人びとのライフスタイルに反省を求めたものです。本稿の目的もそこに集約されます。言葉足らずの感はまぬがれ得ませんが、意とするところをお汲み取りいただくため次に附記させて頂き、稿を閉じたいと思います。
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「地球道徳」の確立に向けて

-「聖なる地球を考える集い」におけるメッセージ-(1992)
「奇しびなる生命の連鎖」収録

「地球道徳」の時代へ

     今まで、人間道徳を説く人はあまたいました。国のために尽くす、親に孝行する、先生を敬う、困っている人や弱い人を助ける、嘘をつかない、物を大切にするなどなど。これは、互いに住みよい社会生活を築き、さらに社会を発展させるために必要と考えられる道徳です。この人間道徳は、国ぐにの気候、風土、宗教、文化によって違いはあっても、つまるところ人間と人間社会を主体としたものです。
    もちろん、これらも精神面を育てるうえで大切なものです。しかしながら、現在の地球規模で起きている現象は、これら従来の人間の頭で考えてきたことだけでは間に合わなくなってきています。そこで、人間を主体にした道徳から、地球を主体に置いた道徳へ。すなわち、「地球道徳」が必要となってくるのです。
     本来、人間道徳と地球道徳は重なり合わなければならないはずです。しかし、残念ながらそうならないところに、人間世界の未成熟を自覚しなければなりません。大自然の理、大生命のいのちの循環に目覚めて、忘れ去られていた心の豊かさの根源がそこにあることに、気がつきたいものです。人類あげての精神向上こそが、人間道徳を地球道徳に結ぶ手だてであり、母なる地球を守ることになるのです。
     今では誰しもが口にする、世紀末という言葉が象徴するように、人類が大きな曲がり角に立っていることを認識しています。人類史上、常に思想界をリードしてきた宗教の多くは時代の流れをつかみ得ず、旧態然としたドグマにつかり、寛容を欠くものとなり、人類の流れを正す力となり得なかったのです。
     現代社会は人間の欲望をみたす経済機構に重点を置き、物的価値すなわち製品をより豊富に生産する組織構造に全力を挙げているといえましょう。欲望の自由な充足を認めることが自由だと考え、これがすべての人によって強く主張されています。
    欲望の充足とは消費にほかなりません。この消費経済の自由こそが現代人を魅惑し、自由の名において生存競争を激化させているのです。すなわち、大量生産、大量消費、大量廃棄の悪循環の物流が世界に拡大されつつあります。
    この際限なき生産活動の増強のために 地球の資源は消費し尽くされようとしています。そして ついに環境が行く手を遮るところとなり、人類ははじめて立ち止って考えざるを得なくなった、というのが今日の姿でしょう。
     地球環境にとって致命的なのは人口爆発であり、貧困層の拡大であるといわれています。今後10年間は1秒間に3人の割合で毎年平均9700万人ずつ増え続け、2050年には百億人を突破すると予測されています。増加し続ける人口に対し、地球というたった一つの台所で一体どう賄えるのでしょうか。これが20億や30億の人口なら問題はなかったでしょう。
    百億になったとき、これらの人びとが現在のアメリカの生活水準で消費することになれば、石油は5年間で枯渇してしまうことになり、耕地減少などによる環境難民の続出は必至の情勢です。現在でも、世界人口のわずか13%に過ぎない先進国が世界のエネルギー消費量の75%を占めており、食うや食わずの絶対的貧困層は12億人にものぼるといわれています。
    この不均衡は人類全体の問題です。つまり、環境を守るためには先ずこうした不均衡を是正することが必須なのです。ここに 持続可能な開発を進める条件を整備しなければならない理由があります。
     しかし、心得ておかなければならないことは、人間の幸福が物質面だけで満たされるものではないということです。物だけの豊かさで幸せになれるならば、先進国の人たちの多くが物質的には不自由なく豊かな生活を得ながら、それでいて幸せを感じている人が少ないのは何故でしょうか。
    人類生存の基盤が精神と物質とにあるならば、物質の豊かさを幸福に結びつけるのも結びつけないのも精神であるからです。精神主義に陥って 物質をないがしろにせよ、というのではありません。しかし、先進国のなかに 麻薬、犯罪、家庭不和、離婚、青少年の非行、浮浪者などが多いという現象も、貧しさとは無縁の心の不満、精神的飢餓から生ずるものと考えられます。
    むしろ途上国のなかに、貧しいながら素朴な親切や、助けあいや明るい微笑みがあります。都会へ行くほど人情は薄れ、人間不信が蔓延化し心の砂漠化が侵蝕していっています。これも人間生活が大地や自然と離れるからでしょう。
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科学の進歩

     現代社会を見るとき、科学技術の恩恵を抜きにしては語れないのも事実です。例えば、テレビや通信機器の情報網によって、自然災害による被害を最小限にとどめることも可能になっています。あるいはそれらの情報網が、共産社会の壁を取り払う大きな要因になったことは周知のとおりです。第一、近代科学の恩恵がなければ、何万人という人びとが世界の隅々から集まり、一堂に会して人類的な重大会議を行なうことなどでき得ません。もちろん一方で 人びとを運ぶその大きなジェット機が、大変なエネルギーの消費と廃棄をもって目的を果たしているということも事実ですが。
     また、今では科学が生んだ光学機器がマクロの宇宙から、ミクロの微生物の活動まで すなわち、人間に忘れ去られた自然界の営みをつぶさに知らせてくれるようになりました。それに人間が驚き、深い感動と安らぎを覚えるのも皮肉なことです。中南米の森の生態をテレビで放映しているのを見たことがありますが、アリと植物の共生は見事なまでの知恵と工夫、寛容と忍耐、危険とユーモアにあふれるドラマの展開でした。
    体長2ミリ~5ミリの小さな生物をカメラで鮮やかにとらえる技術にも驚かされます。アリの大群が森の動植物の残骸の運び屋となったり、掃除人となったりして森をよみがえらせているのです。森の中で展開されているさまざまな動植物の生活を見ていると、森はまことに教えの宝庫です。知識をつめ込むだけの学校より、はるかに価値ある自然界の生命の教育の場なのです。そこには数学、理科、社会、科学、生物、芸術など何でもあります。
     一方、1989年、アメリカの無人惑星探査機ボイジャー11号が、太陽系のはるか彼方から送ってきた地球の兄弟惑星たちの美しい映像を、誰しも忘れることはできないでしょう。
     私たちの住む母なる地球、宇宙を飛んだ飛行士の誰しもが賛美してやまなかった青く美しい惑星・地球。一体、何の力がこの大きなるもの、美しきものを支え、自転公転させ、しかも狂いなき秩序整然たる動きを可能ならしめるのでしょうか。
    無象実体の宇宙空間に人知の及ばない大きな力、エネルギーが働いているのは事実で、この活力、活気あふれる実体を大生命、また大精神と呼ぶことができます。そして、当然そこに宇宙の意思の存在を仰ぎ、その意思に沿いたいと願うのが人間の本能であり、本性であると思うのです。このような考え方が、科学と共生できる日も遠くはあるまいと思います。無論、地球を生命体としてとらえるか、物体としてとらえるかで見方が大きく分かれます。しかし、これからは、前者の見方が大きな意義をなす時代であろうと思います。
     科学も地球環境問題に関して、従来の個別の研究とは別に、地球生命システム科学として、総合的にとらえる姿勢が生まれています。環境問題や生態系は複雑に微妙に組み合わざって、生命連鎖で成り立っており、個々バラバラに切り離すことのできない仕組みとなっています。総合的生命のつながりを認めて、そこに科学の目が入ることは、科学の大きな進歩と受け止められます。
    個別化、分極化、深化を目指して突き進んだのが近代科学といわれますが、今は、その逆向きの、統合的に見る方向をたどっているといえます。部分の究明もトータルのなかで人間社会の福祉に生かされることになります。このことは医学でも言われ、西洋医学が一部東洋医学を取り入れるようになったのも、このような意識の改革があってのことでしょう。
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水と土と緑と

     今、太陽系惑星のなかで地球だけが特別な存在であり、地球だけが水がたっぷりと存在する-地球表面の70%が海に覆われている-水の惑星であることが明らかとなっています。もし、地球がもう少し太陽に近かったなら、水は水蒸気となって宇宙空間に離散し、金星のように岩石だらけの惑星になっただろうといわれています。まさに地球は奇跡の星なのです。その奇跡の星・地球にのみ生物が存在するのです。生命の発生と生存にとって 水は不可欠の要素であることが分かります。
     思えば、地球上の人間万物にとって生命の基盤をなす士と水は、その大気とともに 母なる地球が悠久の生命をかけて生みなした造化の賜物です。
     地球誕生は約46億年前。太陽を中心に他の惑星たちとともに関連しあいながら盛んな造化活動を行ない、ようやくにして姿、形を整え、海の中に原始生命が発生したのが約35億年前。時の流れとともに大気の成分も変化し、海から陸へと、最初の植物が上陸したのはおよそ4億年前とされています。生物の上陸とともに徐々に士が形成されていったのです。 
    それまで陸地に土はなく、岩石だらけだったといいます。これは土の構成成分(空気と水で半分、残り半分が砂などの無機物と落ち葉などの有機物)を考えれば納得できることです。土の層がだんだんと厚くなるにつれて貯える水の量も多くなり、より多くの植物を育てることができ、動物をも養うことができるようになったのです。
    以来、生物は互いに食べたり食べられたり、助けたり助けられたりして長い長い時間をかけて多様化してきたのです。
     太陽熱を受けて生じた、大気の流れによって地上に作り出された水の循環は、陸地と海との間にも循環し、その過程で土に貯えられた水が、地上に住む人間万物の生命に絶ゆるごとなく潤いを与えてくれるのです。士。水・大気・太陽エネルギー・植物・動物などの相互作用で現在の地上生態系をはじめとするあらゆる大自然の循環順律が完成したといえます。
     士は、空気・水・砂や砂利などの無機物と人間をはじめとする動植物の廃棄物や遣骸といった有機物で構成されています。その有機物を食料にしているのが土壌生物であり、その土壌生物の働きがあってはじめて 士に還元された有機物が無機物となります。その無機物は水に溶けて肥料となり、植物を育てます。
    大地には浄化力があるというのは、この微生物が汚物でも何でも皆食べてくれるからです。一方で大量の農薬や化学肥料は、土壌の中で大事な働きをしてくれているバクテリアの存在に多大な悪影響を与えているのは知られているとおりです。ちなみに このような自然の仕組みのなかで1センチの褐色の士の層が作られるのにも、何百年という年月がかかるといわれています。
     増加する人口を賄うのに、食糧だけ心配してこと足りるものではありません。水と土が保証されなければ、生命の基盤そのものの未来が消えることになるのです。
     地上に植物が発生し、動物が発生し、生命が充ちあふれてきたところで、最後に誕生した人類。生物種にして500万分の一、あるいは1000万分の一種にして、一番最後に誕生した人間に最高の知能が与えられたのは何故でしょうか。決して人間中心の世界をつくることを意味したのではなかったはずです。各々の生物は種に忠実に懸命に生き、使命を果たしているのです。それらの上に君臨する人間だけが資源を食い荒し、山を破壊し、海や川や空や大地を汚し、生態系を切り裂き、母なる地球を絶え切れないまでに傷めつけているのです。
     人間中心主義はエゴと倣慢を生み出し、自然との調和や共生を忘れ、いつしか自然の法則、大生命の流れから離れていったことに早く気がつかなければなりません。私は、だからといって森の生態系と共に暮らしていた大昔に帰れといっているのではありません。人びとの生活から、冷蔵庫や洗濯機、掃除機を取り上げようといっているのでもありません。
     万物の霊長と呼ばれる人類は、その霊性高きが故に、万物の慕い寄る存在であろはずです。地上の万物から贈られた有形無形の恩恵に感謝しこそすれ、生活連鎖、食物連鎖の生命のサイクルを人間が止めてしまい、そのエゴで汚染させたり、使い捨ててよいわけはありません。生命のサイクルは人類が終点ではなく、お返しせねばならないのが大自然の理です。
    自然との調和のなかに人間の知能を生かし、人間とともに万物が獄ぶ、より輝かしい豊かな地上世界を現出させるとき、はじめて人類完成の歓びを迎えることができるのです。地上の万物がそのところを得、使命を全うし、人間万物が共存共栄する、円融大和の世界へ導くのが人間の使命ではないでしょうか。人間の勝手さで、無秩序に開発と称してブルドーザーで土を破壊し木をなぎ倒したり、火を入れて焼いてしまうことの無謀を警告したいのです。
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過去の教訓を生かして

     古代文明はなぜ滅びたのでしょうか。それは森林の崩壊が大きな原因だと考えられています。人口増加に伴う農地の拡大、船材としての利用、都市建設や戦争など、つまり文明をつくるために森林が破壊されていったのです。
     森林の崩壊は有機物の激減となり、士の構造(団粒構造)に異変が生じます。そうなりますと土が士としての機能を果たし得ず、水を貯える能力まで奪われてせっかくの雨も恵みの雨とはならず、逆に雨が降る度に表土は流失していったのです。やがて大地は砂漠となり、食糧生産ができなくなってしまいました。土壌の生産力を失った文明は滅びるしかありません。
    そして今、人類は再び同じ道を地球規模に繰り広げようとしているのです。士と文明を守る絆は人間の精神であることは、古今を通じての真理であるといえましょう。
     母なる地球は生きて活動しています。そしてその生命は、さらに広大な宇宙の大生命と連動し、無限大とも思える大宇宙のなかに無数の天体と共存する、巨大な宇宙生命システムのなかの一つです。何故に、地球だけがかくも美しく絶妙な生命の大芸術ともいえる生態系をもつのでしょうか。かけがえのない地球とは、それを指さずして何を指すというのでしょう。天地宇宙の大自然に対して、畏敬の念を忘れ去ってしまった人類。大自然は恐ろしきものであると同時に、なつかしきもの、慕わしきもの、愛しきものでもあります。何故ならば生命のふるさとであるからです。
     今、人間世界は、人間とは何かを考える余裕もなく、物質経済に振り回され視界が曇らされて何も見えなくなっています。混濁の流れのなかにしばし立ち止まり、静かに母なる地球に、さらなる宇宙の大生命に思いをいたそうではありませんか。そして自然界の声に耳を傾けてみようではありませんか。世界のもろもろの問題は、私たちの心の切り替え次第では、それほど難問題ではないはずです。ただ皆が、その気になるかならないかが問題なのです。
     アマゾンの酋長や先住民の長老たちが、森の開発に鋭く反対を訴える話を聞きますが、これにも耳を傾ける必要があります。この人たちは、科学の機器に頼らなくとも先祖代々森に住み、誰よりも森をよく知る人たちです。そこで衣食住を賄い、薬を作り、産業を生み、森と共生し、何よりも森を守ってくれている人たちです。これからの開発には、このような人たちに対し、充分な対話と気配りをすることが大切です。
     1992年、コロンブス500年を祝うヨーロッパの人たちに対し、アメリカ大陸の先住民から待ったがかかったのも象徴的です。アメリカ大陸発見は、ヨーロッパ人にとっては輝かしい近代文明の幕開けを意味しますが、先住民たちにとっては征服と文化の破壊の500年であったのです。人類の世界史をひもとくとき、如何に多くの民族の文化や文明が、他からの征服によって地上から消されていったことでしょうか。その損失は人類共通のものであり、痛ましいかぎりです。その後遣症で今も立ち上がれない途上国の姿もあります。今日、環境問題で途上国が、先進国の豊かさは南の国ぐにの犠牲の上に作り上げたものだ、という言い分ももっともであるといわざるをえません。
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今こそ求められる意識改革

     人類の歴史を振り返ってみるとき、過去の善悪を唱え出せばカオスを生み出すだけで、現在の問題の解決とはなりません。感情は真実を見えなくします。今なすべきことは、冷静になって思考を原点に返すことです。人とは何であるか。人の使命とは何であるか。現在、私たちが立っている世紀末は、20世紀の世紀末ではなく、人類の歴史そのものの世紀末と考えてよいでしょう。
    必要なのは、人間の意識改革なのです。環境問題を考えるとき、よく産業革命以来の生き方に罪をかぶせるのが一般的ですが、それだけでは足りません。もっと長いスパンでの反省が必要です。
     現在でも、もし何か素晴らしい技術開発がなされて、一部的に(全体ではない)問題解決されたような印象をもてば、またもや危機感を離れ、何とかなる、自分だけ心がけても地球はどうなるものでもない、というエゴの生活に戻るでしょう。
    「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」ということです。長年の人類の歩みが弱肉強食、足るところを知らぬ、他からの搾取、地球からの搾取の歴史であったことを思い、先ず、すべてのエゴを取り除くことが大切です。個別ではなく全体を、対立ではなく調和を、対決ではなく協調を、征服ではなく融和を、という考え方に立ち返らなければなりません。何故ならば、生命の連鎖は天地宇宙間に住み分ける万有万生の大調和によって成り立っているからです。
     1992年、国際自然保護連合(IUCN)・国連環境計画(UNEP)・世界自然保護基金(WWF)で出された新世界環境保全戦略の中に「人間は、そうした方がよいと思えば、その振る舞いを変えるし、それが必要と悟れば一緒に行動するものだ」という信念に基づき、戦略は「変化」を狙ったものだと記されています。
     本当に人類の生存をゆさぶる地球の危機が分かったならば、豊かな生活をむさぼっている人たちが豊かさを削ることです。20年前や30年前に戻れというような極端な話ではありません。ほんの数年前の生活に戻る決意が、それほど困難なこととは思えません。実際にはもっと進んで痛みを分かち合えるはずです。
    もちろん、増加の一途をたどる人口に対し、環境のみを気遣い経済成長をないがしろにするつもりはありませんし、開発も必要なところは進められるべきでしょう。しかし、豊かな国にあって、飽くなき欲望をつのらせ、さらに豊かさと便利さを求めての開発は、厳に慎まれるべきです。
     豊かさを求めるならば、もっと別の、精神面の豊かさを取り戻すべきです。誤解を恐れず言わせていただきますならば、現在、企業は公害を最小限にとどめる技術開発に力を注ぎ、「地球にやさしい……」を躯い文句にいろいろな商品を作っています。しかし、冷静に考えればこれらの商品も資源を使っているのです。つまり、いくら地球にやさしい商品であっても、度が過ぎれば環境を破壊することに変わりはないのです。
    今、地球道徳の立場に立って、人類に求められていることは、「足るを知る」という意識です。ただそれだけであるといっても過言ではないでしょう。生産、消費、廃棄の拡大主義によるライフスタイルによって、自らの首を絞める環境破壊を犯したことを考えれば、地球にこれ以上の負荷を与えることは許されません。
     新世界環境保全戦略には、「持続可能な生活様式実現のための基本原則」として、その指導原理を定義しています。すなわち、「自然界のすべての生命を尊重し、大切にし、人間の生活を質的に向上させ、地球自体の活力と多様性を保護し、再生不可能な資源の消耗を最小限に抑え、人間の活動を地球の収容能力内に抑え、個人の生活態度と習慣を変え、各地域社会が自らそれぞれの環境を守れるようにし、開発と保全を統合化する国家的枠組を設け、地球規模の協力体制を作り上げること」と。
     私がこれまで述べたこと、地球規模にまで広がった環境を守る対策は、人間の精神の問題に帰し、人間の意識の覚醒以外にない点を少し深く言及した点を除けば、上記の指導原理と離れるものではないでしょう。
     地球を共通の母体として、よろずの生態系を載せた母なる地球生命に調和させた人間世界の発展こそ、ゆるぎなき未来を保証するものです。地球を主体に置いた地球道徳に、従来の人間道徳を重ね合わせるものは教育に他なりません。その意味で、環境と開発と教育を三本柱として行動をするものです。
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あとがき

     有史以来の、しかも今世紀最大規模の国際会議といわれたリオでの「地球サミット」開催から約2年が経過しました。ここでその成果についてあれこれ論じるつもりはありませんが、人類の生存を脅かす地球的規模のさまざまな環境問題を考えたとき、開催それ自体は時機を得た画期的なものであったと思っています。
    それを契機に世界の多くの人びとが、自分たちの置かれている地球環境の状況を知るところとなり、未来への不安とともに「如何にあるべきか」を問い、あるいは行動を開始した人も少なくなかったものと思います。
     しかし現在、人びとの意識、行動はどうなっているのでしょうか。残念ながら地球環境がますます悪化するなか、「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」ではありませんが、全体的には取り組みへの停滞感、あるいは後退感さえ覚える今日の日です。
    こうした状況を人一倍に憂うが故、オイスカ活動の背景ともなっている考え方の基本について私なりに著すことで少しでも世のお役に立てればと願い、今回出版の運びとなった次第です。
     ちょうど昨年6月に「地球サミット」一周年を記念して創設された『地球サミット賞』のNGO部門で、世界に数あるNGOの中から最初にオイスカが受賞するという思ってもみない栄誉に輝きました。
      summit
         地球サミット賞
         ○地球サミット賞を受ける著者(左より2人目:オイスカ静岡より)
          1993年6月30日、国連本部にて

     ニューヨークの国連本部で行なわれた授賞式に私は代表して出席するため訪米し、このとき国連関係者や欧米の各界の代表など多くの方々と親しく懇談するなかで理念の一端を披瀝する機会に恵まれました。そうした席上、「その考え方をどしどし世界に発信すべきだ」との声を多く寄せられたのも、本書を著すきっかけのひとつになりました。
     本来、文章を書くことが不得手であることから二の足を踏んでいたのですが、周りの薦めと同時に使命感も手伝って拙いながらしたためました。活字でもって意のあるところを表現するということの難しさをあらためて感じさせられましたが、考え方の一端をお汲み取りいただければ幸いです。
     なお、本著は当初から海外向けに発信することを念頭に置きながら書き進めたことを、ご了解いただきたいと思います。

      平成6年5月

                      中野良子
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