「奇しびなる生命の連鎖」
− 宇宙から人間へ −
第1章 生命の起源としての大宇宙
ハッブル宇宙望遠鏡による観測成果
さて、今しばらく宇宙の話をすすめたいと思います。
現在、人類が観測できる最果ての宇宙は100億光年の銀河団のようです。これは1992年12月はじめに、前述したアメリカのハッブル宇宙望遠鏡の観測によって発見されました。この望遠鏡は1990年の4月に打ち上げられ、「空飛ぶ天文台」と呼ばれているものです。
ハッブル宇宙望遠鏡(NASA)
ハッブルとは、宇宙の膨張を観測によって証明したあの有名な天文学者エドウィン・ハッブルにちなんで名付けられたものです。この望遠鏡の鏡の精度は、およそ東京から静岡までの距離(約200キロメートル)で1円玉を識別できるほどだといわれています。大気に遮られないこの望遠鏡の開発によって、地上に設置されたいかなる望遠鏡とも比較にならない、鮮明な美しい宇宙の映像を手にすることが可能となりました。
そして、地球から約1500光年のかなたにあるオリオン星雲の中で「原始星」が形成される様子もとらえました。また、地球から約5900万光年離れたおとめ座銀河団の中に、"ブラックホール"という、星が終焉する様子もとらえました。これによって、理論的に存在するとされていたブラックホールや原始惑星が事実として確認されました。このことは、宇宙のなかでも新たな星が生まれまた死ぬという、いのち生命の流れがあることを物語っています。宇宙もまた、基本のところで私たちのいのち生命の循環と共通の舞台にあるということができます。否、私たちのいのち生命の循環こそが宇宙の悠久の流れに沿っている、というべきでしょう。
さらに、1993年2月に、日本の文部省宇宙科学研究所が打ち上げたエックス線天文衛星「ASTRO−D」が注目されています。これは100億光年以上のかなたの宇宙の果てを見渡すことで、誕生直後の宇宙に何が起きたかを調べるのが主な目的とされています。まさに目覚しいほどの科学の進歩です。この衛星は地球上空を一周したあとで「あすか(飛鳥)」と命名されました。
X線天文衛星「あすか」・(宇宙科学研究所 提供)
そして、3月30日、観測態勢が整うのを待っていたかのように、地球から約1000万光年離れた銀河「M81」の中に超新星「SN1993J」がタイミングよく出現。寿命を迎えた巨大な恒星が大爆発を起こして出現する、超新星の発生直後の姿をとえたものとして国際的な注目を集めています。

おおぐま座の系外銀河M81(撮影:月光天文台)
明るさ7.9等、距離約1200万光年。系外銀河M81は
私たちの銀河系のような星の大集団である。
生命の祖(おや)である地球
宇宙は生成と消滅を繰り返しています。宇宙の中の銀河や恒星、そして地球上の生命から原子にいたるまで同じことがいえます。地球上にある諸元素は、銀河系内でガスから恒星、恒星からガスへの循環の後に、太陽系星雲に取り込まれたものです。
ビッグバン理論によれば、宇宙のはじまりは水素とヘリウムという最も軽い元素が真っ先に生成され、それ以外の炭素や酸素といった重い元素は星の中で次々に造られていきました。超新星爆発で重い元素は宇宙に撒き散らされ、ガスとなり、また収縮して星となっていきます。何回も繰り返してだんだん銀河系の重い元素が増えていったということです。
宇宙には、生成と消滅を何回も何回も繰り返した元素もあれば、同時に宇宙初期そのままのフレッシュな元素も混ざっています。銀河系が誕生してから約100億年以上、星の寿命を仮に平均して数千万年とすると(星の寿命は質量で決められ、質量が小さいほど寿命は長いといいます。例えば太陽で100億年、太陽の10倍の質量をもつ星は3000万年ほどということです)当然、200世代以上前までの先祖を持つ星も存在することになります。
いろいろな履歴をもった元素が、人間の体の中、あるいは地球上に幾重にも折り重なって存在しているのです。太陽の向こうにも太陽を生んだ先祖があるのです。私たちの体を形作っている元素もすべて、あるときは燃えていた恒星の一部であったり、星の爆発、収縮のプロセスを繰り返してきたものなのです。
素粒子の極微(ミクロ)の世界と宇宙の極大(マクロ)の世界が結びついていることが明らかにされてきたのも、ここ10年ほどの科学の成果です。
まさに、人間はその構成元素から見ても、ルーツは宇宙にあり、母なる地球とともに宇宙の祖(おや)として生命を与えられているということが認識されています。ミクロの世界では、分子、原子構成や原子核をつくる中性子、陽子、さらにそれらを形作る素粒子についても同様です。
遠く宇宙からの連鎖と循環のなかに生命があることを知るならば、科学的には素粒子の流れとしてとらえられますが、生命的には宇宙からの悠遠の大生命の流れのなかに、目にも止まらぬ小さな分派としてわが身に受け止めているのが人間です。
一個の生命を目にも止まらぬほど小さく、はかないものと見るか、あるいは宇宙から発せられた大生命を確実に受け止め、その血脈を受け止めた活活たる生命であると見るか、生命観の分かれるところです。そこから発生する人生観、世界観も異なったものになるのは必然です。
人間が生きていることを不思議とも思わず、すなわち生命が存在することを当たり前と考えてしまえば、モノとしての肉体は存在しても、大生命の循環の流れはその固体で停止することになり、大自然の生命の流れからはずれた宇宙の孤児となってしまうことに気がつきたいものです。
