人類学の分野では、人類の祖先として「アダムとイブは存在したか」が大きな議論になっているようですが、日本ではご存知のように最古の古典である『古事記』の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)の物語に象徴されるように、生殖説をとっています。この2柱の神が協力して、国生み、神生み、さらに海・川・山・野・草木を生み、そして人間万物をお生みになった、ということです。
生むということは、生むものと生まれるものとの間に血のつながりがあるということです。創造となると全く別物です。日本では、これによって、大地・山川草木などすべてこの世に存在するものは、同じ祖(おや)をもつ兄弟という思想が生まれました。自然あっての自分であり、自然の営みに順応することによって自分も生かされるのです。ここに自然を大切にする自然崇拝の思想が無理なく根づいたのです。古来、人類はなぜか男女がほぼ半分の比率で誕生してきました。これは決して人為的に操作してそうなったものではなく、自然の摂理で行なわれてきたものに違いありません。“子供は天からの授かりもの”という表現にすべてが集約されていると思います。生命の連鎖や循環は大自然の摂理のなかにあり、それにしたがってこそまことの生命の繁栄となり、宇宙の意思に沿うものとなりましょう。
ところが、最近はどうでしょう。「男女産み分け」が研究の域を越えて実践されているというニュ−スを目にするにつけ、愕然とさせられます。しかも、少産時代を反映して女児に人気が移っているというのです。これは人工受精の技術を応用した方法でなされ、何故か女児にのみ成功率が高いのだそうです。逆に 男の子が生まれるY精子はうまく分離できないために 産み分けには応用ができないといわれます。
この方法が初めて公表された8年前は、「神の摂理に反する」として批判が続出したことをかすかに記憶していますが、まことに慣れとは恐ろしいもので、最近では社会の抵抗感も徐々に薄らぎ、この方法で女児出産を希望するケースが増えているともいわれます。このようにして女児を儲けたからといって 全体から見て相対的な男女比のバランスがくずれるとは思えませんが、倫理上は大きな問題があります。人間の誕生は大自然の摂理にゆだねてこそ自然なのであり、そこにこそ「ヒトの使命」があることを認識すべきでしょう。
細胞の例をあげながら、生命の基本的な働きの一つとして 自分と同じものをつくり子孫を増やす、という自己複製の機能があることを77頁でふれましたが、世の中には不妊に悩む女性や夫婦がいることも事実です。そして、どうしても子供の欲しい夫婦は体外受精や代理母や第三者の精子の提供を受けて 人工受精を行なうAIDという方法などによって、子供を儲ける努力をしています。これは、中絶や避妊という子供を「産まない」ための技術の裏返しですが、医学や医療技術の発達が、生殖も人間がコントロールできるという過信を導いているのではないかと危惧しています。
これも、最近の新聞報道に、アメリカの民間団体「不妊治療センター」(ICA)に日本人女子留学生が卵子の提供者として登録された、という記事がありました。他人から提供された卵子による出産は、アメリカだけで2000人を超えているとのことです。これは提供された卵子と夫の精子を体外受精させて妻の子宮に戻すという方式です。遺伝的には夫と提供者の子供となるのですが、“産みの母”になることができるというものです。日本の学会はこのような不妊治療を認めていないようですが、需要のあるところに供給ありというのでしょうか、この「不妊治療センター」だけでも常時数百人の卵子提供者が登録されている、とこの新聞は報じていました。しかも卵子提供の対価が1件につき2500ドル(約30万円)と聞きますと、生命までが“人道”という美名のかげで 安易な学費稼ぎの手段として利用される危険性を孕んでいる、ということができます。
このように、子供を欲しながら子供に恵まれない女性や夫婦には酷な表現かもしれませんが、体外受精や人工受精の技術が開発されなかった時代、それも遠い過去ではなかったと思いますが、に生きてきた祖先たちは生命を天与として謙虚に受け入れてきたに違いありません。そして、生命の連鎖が自然のまにまに循環して現在に至っていることを、いま一度考えてみる必要があります。そして、現在でも世界をひとつの家族としてとらえた場合、近代医学の恩恵に浴することができない人びとが圧倒的多数を占めている現実があります。
不妊とは、子供が欲しくても子供ができない状態であるのに対して、産み分けは、子供ができないというわけではありません。ただ単に男の子よりは女の子が欲しい、という願望に基づく選択です。もちろん、可能な限り先天的な病を防ぐためというやむを得ない場合もあります。このように 不妊と男女産み分けには本質的な違いがあります。ではありますが、人為的な方法で“新しい生命”を誕生させるという共通項があります。「神の道」と「人の道」の共存は可能なのか、また許されることなのか、非常に難しい問題です。
また、人間が生物である以上、誕生があれば必ず死を迎えることは周知のとおりです。「永眠する」あるいは「息を引き取る」という表現を使って人の死を言い表わしたように、これまで人びとは、心臓の停止、呼吸の停止、瞳孔の散大という3兆候をもって人の死としてきました。この死の判定は医学の知識のないごく普通の人にも理解できるものです。ところが、医学の進歩がこの伝統的な死の判定を変えようとしています。いわゆる脳死というものです。これを認めることによって、より新鮮な臓器移植が可能となり、他の人の生命を助けることができるようになります。
しかし、この脳死という状態は素人には分かりません。なぜなら、心臓は動いているし、体も温かいのです。にもかかわらず、死の判定を下すものです。脳が死の状態にあるのでやがて必ず心臓も止まるであろうという、医療機器の示すデータによって医者自身が認める死です。つまり、極端ないい方をすれば、大自然の手を離れて人間の手に死の瞬間が委ねられるということです。もし、これが法律で認められ一般化しますと、精子銀行や受精卵銀行ができたように、商品として臓器の売買が行なわれるようになるかもしれません。そうすると、欲の深い人間や富める者はお金の力で生命(より若く、より健全な臓器)をも買うことができるようになるのです。このように付随して起こる問題も心しておかなければなりませんが、もっと重大な問題があります。人の誕生と死は大自然の息呼吸に呼応して、自然のまにまに流れ、循環するものです。「息を引き取る」というように、大自然の御祖(みおや)の懐に引き取られるというのが日本人の死に対する観念でした。臨死体験者の話を聞くまでもなく、死後の世界の存在を信じ、先祖の霊を慰め敬う習慣のある日本では、「脳死」の判定を認めることに簡単には割り切れない複雑な思いがあり、躊躇するのは当然でしょう。ここでも「神の道」と「人の道」の共存は可能なのか、許されるべきことなのか、との厳しい問題に突き当たります。しかし、私はあえて「生命は人為的に操られるべきではない」と結論づけたいと思います。なぜなら、字宙の大生命を継承し、宇宙大自然の流れとともに生きることこそ、人が人(霊止・ひと)たる所以だと確信するからです。「霊止(ひと)」については改めて述べたいと思います。
ところで遺伝子DNAの研究にはその機能を解明することによって、先天的な病気を胎児の段階で察知して治療することも含まれているといわれています。そのためにヒトの全遺伝子を解析しようという壮大な計画がヒトゲノム計画です。
ヒト遺伝子の分析がすすめば、遺伝子の異常で病気になった体内に健常者の正常な遣伝子を組み込み治療することができるようになる、というものです。しかし、大自然の現象を見ても分かりますように、全て分かったつもりでいても、次には全く別の現象が起こり、考えられないことだ、を連発してきた人間です。ですから、100%解読し、ほとんどの病気の治療が可能になったと思っても、次の瞬間には全く別のより治療困難な病気が生じないとは断言できません。
また、この道伝子解読にともなって起こる問題も多々あります。解読(診断)と治療が同時進行であればよいのですが、治療技術が遅れた場合、遺伝情報を知ることによって逆に人心を不安に陥れるかもしれません。エイズ患者と同じように、誤解による差別に苦しむことになるかもしれません。
あるいは、100%遺伝子治療が可能になったとして、全患者がその恩恵に浴することができるでしょうか。そして、ここでも富める者が優先されるということは起こり得ないでしょうか。現在の人間の精神的なレベルでは、プライバシーの保護(個々の遺伝情報の取扱いの問題)、社会的・倫理的問題など克服すべき問題が次から次へと際限なく出てくるでしょう。科学の進歩以上に人間の精神が向上しなければ大変な問題が起こるかもしれません。精神的分野の教育の必要性を痛感します。
さて、世界一の長寿国を誇る日本ですが、3年後の平成9年(1997年)には65歳以上の老年人口が15歳未満の年少人口を上回る、という統計があります。また、別の調査では30年後には65歳以上の老年人口が3.67人に1人となり、日本は超高齢化社会になる、と予測しています。
そして、遺伝子の研究は“老い”までも遺伝子治療で克服できると豪語しています。そして、環境や食物などの外的要因も改善されれば“人生200年、300年も夢ではない”というのです。治療だけならまだしも、人間の寿命を人為的に延長することは、人為的な方法で子供を産み分けることと同等に「神の道」に反した愚考と思えます。
それ以外にも特に遺伝子治療が孕む最大の危険性は、「遺伝子治療によって、ある遺伝子をひとりの生殖細胞に組み込んだ場合、それが子孫に伝わり、全人類に広がる可能性さえある」というものです。思想的な新人類ではなく、体的にも構造の違う新人類を誕生させることにもなりかねない、すなわち人間改造につながる危険性もあるということです。
これこそ人間の思い上がり以外の何ものでもありません。生命科学の謎に迫る人びとの熱意には頭が下がります。が、宿命という言葉があるように、天からの授かりものの生命であり、大自然に生かされている生命です。生命に対しては慎みが大切です。それを忘れての暴走は取り返しのつかない結果をもたらすことでしょう。
こうなった場合、150億年前の宇宙起源のかなたから連綿として続いてきた「生命の連鎖」にヒビが入り、人類は滅亡しないまでも人間はもはや人間ではない別ものの存在となってしまうでしょう。ビッグバン以前の宇宙を「神の領域」とするなら、遺伝子解明の分野でも生命の根幹にかかわる部分を「神の領域」としてこれ以上は立ち入らない、という良識ある配慮を世界の研究者に訴えたいのです。