人類の歴史を振り返ってみるとき、過去の善悪を唱え出せばカオスを生み出すだけで、現在の問題の解決とはなりません。感情は真実を見えなくします。今なすべきことは、冷静になって思考を原点に返すことです。人とは何であるか。人の使命とは何であるか。現在、私たちが立っている世紀末は、20世紀の世紀末ではなく、人類の歴史そのものの世紀末と考えてよいでしょう。
必要なのは、人間の意識改革なのです。環境問題を考えるとき、よく産業革命以来の生き方に罪をかぶせるのが一般的ですが、それだけでは足りません。もっと長いスパンでの反省が必要です。
現在でも、もし何か素晴らしい技術開発がなされて、一部的に(全体ではない)問題解決されたような印象をもてば、またもや危機感を離れ、何とかなる、自分だけ心がけても地球はどうなるものでもない、というエゴの生活に戻るでしょう。
「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」ということです。長年の人類の歩みが弱肉強食、足るところを知らぬ、他からの搾取、地球からの搾取の歴史であったことを思い、先ず、すべてのエゴを取り除くことが大切です。個別ではなく全体を、対立ではなく調和を、対決ではなく協調を、征服ではなく融和を、という考え方に立ち返らなければなりません。何故ならば、生命の連鎖は天地宇宙間に住み分ける万有万生の大調和によって成り立っているからです。
1992年、国際自然保護連合(IUCN)・国連環境計画(UNEP)・世界自然保護基金(WWF)で出された新世界環境保全戦略の中に「人間は、そうした方がよいと思えば、その振る舞いを変えるし、それが必要と悟れば一緒に行動するものだ」という信念に基づき、戦略は「変化」を狙ったものだと記されています。
本当に人類の生存をゆさぶる地球の危機が分かったならば、豊かな生活をむさぼっている人たちが豊かさを削ることです。20年前や30年前に戻れというような極端な話ではありません。ほんの数年前の生活に戻る決意が、それほど困難なこととは思えません。実際にはもっと進んで痛みを分かち合えるはずです。
もちろん、増加の一途をたどる人口に対し、環境のみを気遣い経済成長をないがしろにするつもりはありませんし、開発も必要なところは進められるべきでしょう。しかし、豊かな国にあって、飽くなき欲望をつのらせ、さらに豊かさと便利さを求めての開発は、厳に慎まれるべきです。
豊かさを求めるならば、もっと別の、精神面の豊かさを取り戻すべきです。誤解を恐れず言わせていただきますならば、現在、企業は公害を最小限にとどめる技術開発に力を注ぎ、「地球にやさしい……」を躯い文句にいろいろな商品を作っています。しかし、冷静に考えればこれらの商品も資源を使っているのです。つまり、いくら地球にやさしい商品であっても、度が過ぎれば環境を破壊することに変わりはないのです。
今、地球道徳の立場に立って、人類に求められていることは、「足るを知る」という意識です。ただそれだけであるといっても過言ではないでしょう。生産、消費、廃棄の拡大主義によるライフスタイルによって、自らの首を絞める環境破壊を犯したことを考えれば、地球にこれ以上の負荷を与えることは許されません。
新世界環境保全戦略には、「持続可能な生活様式実現のための基本原則」として、その指導原理を定義しています。すなわち、「自然界のすべての生命を尊重し、大切にし、人間の生活を質的に向上させ、地球自体の活力と多様性を保護し、再生不可能な資源の消耗を最小限に抑え、人間の活動を地球の収容能力内に抑え、個人の生活態度と習慣を変え、各地域社会が自らそれぞれの環境を守れるようにし、開発と保全を統合化する国家的枠組を設け、地球規模の協力体制を作り上げること」と。
私がこれまで述べたこと、地球規模にまで広がった環境を守る対策は、人間の精神の問題に帰し、人間の意識の覚醒以外にない点を少し深く言及した点を除けば、上記の指導原理と離れるものではないでしょう。
地球を共通の母体として、よろずの生態系を載せた母なる地球生命に調和させた人間世界の発展こそ、ゆるぎなき未来を保証するものです。地球を主体に置いた地球道徳に、従来の人間道徳を重ね合わせるものは教育に他なりません。その意味で、環境と開発と教育を三本柱として行動をするものです。