「地球道徳」の確立に向けて

− 「聖なる地球を考える集い」におけるメッセージ −(1992)

  「奇しびなる生命の連鎖」収録

    ●「地球道徳」の時代へ

 今まで、人間道徳を説く人はあまたいました。国のために尽くす、親に孝行する、先生を敬う、困っている人や弱い人を助ける、嘘をつかない、物を大切にするなどなど。これは、互いに住みよい社会生活を築き、さらに社会を発展させるために必要と考えられる道徳です。この人間道徳は、国ぐにの気候、風土、宗教、文化によって違いはあっても、つまるところ人間と人間社会を主体としたものです。

もちろん、これらも精神面を育てるうえで大切なものです。しかしながら、現在の地球規模で起きている現象は、これら従来の人間の頭で考えてきたことだけでは間に合わなくなってきています。そこで、人間を主体にした道徳から、地球を主体に置いた道徳へ。すなわち、「地球道徳」が必要となってくるのです。

 本来、人間道徳と地球道徳は重なり合わなければならないはずです。しかし、残念ながらそうならないところに、人間世界の未成熟を自覚しなければなりません。大自然の理、大生命のいのちの循環に目覚めて、忘れ去られていた心の豊かさの根源がそこにあることに、気がつきたいものです。人類あげての精神向上こそが、人間道徳を地球道徳に結ぶ手だてであり、母なる地球を守ることになるのです。

 今では誰しもが口にする、世紀末という言葉が象徴するように、人類が大きな曲がり角に立っていることを認識しています。人類史上、常に思想界をリードしてきた宗教の多くは時代の流れをつかみ得ず、旧態然としたドグマにつかり、寛容を欠くものとなり、人類の流れを正す力となり得なかったのです。

 現代社会は人間の欲望をみたす経済機構に重点を置き、物的価値すなわち製品をより豊富に生産する組織構造に全力を挙げているといえましょう。欲望の自由な充足を認めることが自由だと考え、これがすべての人によって強く主張されています。

欲望の充足とは消費にほかなりません。この消費経済の自由こそが現代人を魅惑し、自由の名において生存競争を激化させているのです。すなわち、大量生産、大量消費、大量廃棄の悪循環の物流が世界に拡大されつつあります。

この際限なき生産活動の増強のために 地球の資源は消費し尽くされようとしています。そして ついに環境が行く手を遮るところとなり、人類ははじめて立ち止って考えざるを得なくなった、というのが今日の姿でしょう。

 地球環境にとって致命的なのは人口爆発であり、貧困層の拡大であるといわれています。今後10年間は1秒間に3人の割合で毎年平均9700万人ずつ増え続け、2050年には百億人を突破すると予測されています。増加し続ける人口に対し、地球というたった一つの台所で一体どう賄えるのでしょうか。これが20億や30億の人口なら問題はなかったでしょう。

百億になったとき、これらの人びとが現在のアメリカの生活水準で消費することになれば、石油は5年間で枯渇してしまうことになり、耕地減少などによる環境難民の続出は必至の情勢です。現在でも、世界人口のわずか13%に過ぎない先進国が世界のエネルギー消費量の75%を占めており、食うや食わずの絶対的貧困層は12億人にものぼるといわれています。

この不均衡は人類全体の問題です。つまり、環境を守るためには先ずこうした不均衡を是正することが必須なのです。ここに 持続可能な開発を進める条件を整備しなければならない理由があります。

 しかし、心得ておかなければならないことは、人間の幸福が物質面だけで満たされるものではないということです。物だけの豊かさで幸せになれるならば、先進国の人たちの多くが物質的には不自由なく豊かな生活を得ながら、それでいて幸せを感じている人が少ないのは何故でしょうか。

人類生存の基盤が精神と物質とにあるならば、物質の豊かさを幸福に結びつけるのも結びつけないのも精神であるからです。精神主義に陥って 物質をないがしろにせよ、というのではありません。しかし、先進国のなかに 麻薬、犯罪、家庭不和、離婚、青少年の非行、浮浪者などが多いという現象も、貧しさとは無縁の心の不満、精神的飢餓から生ずるものと考えられます。

むしろ途上国のなかに、貧しいながら素朴な親切や、助けあいや明るい微笑みがあります。都会へ行くほど人情は薄れ、人間不信が蔓延化し心の砂漠化が侵蝕していっています。これも人間生活が大地や自然と離れるからでしょう。


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  ●科学の進歩

 現代社会を見るとき、科学技術の恩恵を抜きにしては語れないのも事実です。例えば、テレビや通信機器の情報網によって、自然災害による被害を最小限にとどめることも可能になっています。あるいはそれらの情報網が、共産社会の壁を取り払う大きな要因になったことは周知のとおりです。第一、近代科学の恩恵がなければ、何万人という人びとが世界の隅々から集まり、一堂に会して人類的な重大会議を行なうことなどでき得ません。もちろん一方で 人びとを運ぶその大きなジェット機が、大変なエネルギーの消費と廃棄をもって目的を果たしているということも事実ですが。
 また、今では科学が生んだ光学機器がマクロの宇宙から、ミクロの微生物の活動まで すなわち、人間に忘れ去られた自然界の営みをつぶさに知らせてくれるようになりました。それに人間が驚き、深い感動と安らぎを覚えるのも皮肉なことです。中南米の森の生態をテレビで放映しているのを見たことがありますが、アリと植物の共生は見事なまでの知恵と工夫、寛容と忍耐、危険とユーモアにあふれるドラマの展開でした。
体長2ミリ〜5ミリの小さな生物をカメラで鮮やかにとらえる技術にも驚かされます。アリの大群が森の動植物の残骸の運び屋となったり、掃除人となったりして森をよみがえらせているのです。森の中で展開されているさまざまな動植物の生活を見ていると、森はまことに教えの宝庫です。知識をつめ込むだけの学校より、はるかに価値ある自然界の生命の教育の場なのです。そこには数学、理科、社会、科学、生物、芸術など何でもあります。
 一方、1989年、アメリカの無人惑星探査機ボイジャー11号が、太陽系のはるか彼方から送ってきた地球の兄弟惑星たちの美しい映像を、誰しも忘れることはできないでしょう。
 私たちの住む母なる地球、宇宙を飛んだ飛行士の誰しもが賛美してやまなかった青く美しい惑星・地球。一体、何の力がこの大きなるもの、美しきものを支え、自転公転させ、しかも狂いなき秩序整然たる動きを可能ならしめるのでしょうか。
無象実体の宇宙空間に人知の及ばない大きな力、エネルギーが働いているのは事実で、この活力、活気あふれる実体を大生命、また大精神と呼ぶことができます。そして、当然そこに宇宙の意思の存在を仰ぎ、その意思に沿いたいと願うのが人間の本能であり、本性であると思うのです。このような考え方が、科学と共生できる日も遠くはあるまいと思います。無論、地球を生命体としてとらえるか、物体としてとらえるかで見方が大きく分かれます。しかし、これからは、前者の見方が大きな意義をなす時代であろうと思います。
 科学も地球環境問題に関して、従来の個別の研究とは別に、地球生命システム科学として、総合的にとらえる姿勢が生まれています。環境問題や生態系は複雑に微妙に組み合わざって、生命連鎖で成り立っており、個々バラバラに切り離すことのできない仕組みとなっています。総合的生命のつながりを認めて、そこに科学の目が入ることは、科学の大きな進歩と受け止められます。
個別化、分極化、深化を目指して突き進んだのが近代科学といわれますが、今は、その逆向きの、統合的に見る方向をたどっているといえます。部分の究明もトータルのなかで人間社会の福祉に生かされることになります。このことは医学でも言われ、西洋医学が一部東洋医学を取り入れるようになったのも、このような意識の改革があってのことでしょう。

   

 

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