より早く、より便利に、を目指して進む科学と技術。それを進歩と考え、その快適な美酒に酔い痴れて見境なく追求した結果、自然界の生命は傷つき破壊され、もはや取り返しのつかない地球環境をつくりつつあります。その破壊された環境のなかに、いかにして人類のみ生き長らえることができましょう。
わき目もふらず急ぎ走る人類の進歩のスピードに対し、人間の生命生活を支えてきた他の生物たちは一体どうなるのでしょうか。生物たちはみな大自然のなかで長い長い年月をかけて、環境に順応して進化してきました。
象の鼻があれだけ長くなるのに、キリンの首があれだけ長く伸びるのに、亀があの固い甲羅をつけるのに、どれほどの年月を要したことでしょうか。今日の生態系は地球の歴史とともに歩んできたものです。進化の過程で新しい種が出現する一方で、気候や地形などの環境の変化や種間の競争に敗れて絶滅した種も当然ありました。
ところが、いま起きている絶滅のスピードは、かつてない激しさであり、これは明らかに人類の行動に起因するものです。種が滅びる速度は、6500万年前の恐竜時代で1000年に1種だったといわれます。時代が降って、16世紀ルネッサンスを境に生物種の消滅の速度は急激化し、1900年代で1年に1種、1950年代には1年に40〜100種となり、1975年には1年間に1万種となった、と報告されています。
そして、アメリカのカーター大統領(当時)の命によって組織された環境問題諮問委員会が80年代初頭に発表した特別調査報告書『西暦2000年の地球』では、2000年に向けた今後20年間で滅びる種の数は50〜60万種であると予測されました。また最近発表された別の報告では、1990年から2000年へ向かって、平均して1年に4万〜5万種の生物が地上から消えていくだろうと、より厳しい予測がなされています。
人間中心主義、経済棲先主義に立つ今日の開発のスピードは環境を敵にまわし、生物の生命生活の速度を無視することによって、多くの生命を死滅に追いやっています。人類が進歩と繁栄を願って創った文明が自らの首を絞め、生命を断つ矛盾に気づきながら、そこから抜け出す道を見出せないでいます。
他方、人間の飽くなき欲望をつのらせるかのような開発商品が、家庭内にまで氾濫する今日です。便利さや快適さは得られても、便利さ故に本来の人間の手足や頭脳さえも退化させられるのではないか、と失われる部分もあることを危倶します。本当の幸せや豊かさにつながるものか否か考えさせられます。そして今、こうしてペンを走らせている間にも、国連から贈られた世界の人口増加を示す人口時計は数を重ね、ついに56億を突破し、続く57億へ向けて刻々と数字を刻んでいます。
爆発的な世界人口の増加のなかで、食糧問題は環境問題とともに深刻さを増す一方です。世界危機が穀類計算でもはじき出されていますが、農業の重要性を考えるのに、すでに失われた大地の復帰は絶望的であっても、環境、すなわち士や水その他の生命の連鎖の理のなかに基本的な反省を、と叫ばずにはおれません。
経済優先の社会の仕組みから逃れることは至難ですが、現実に起きているのはそれ以上の人類の生存にかかわる環境の枠組みがストップをかけているということです。従来の考えのまま進めば、世界の国士の生命力を塞ぎ荒廃を促進させ、穀物市場の混乱を激化させ、果ては国際資本の手玉に取られるという事態さえ起こり得ましょう。
今後、世界的に気象異変が恒常化する可能性も大きく、食糧という人命生存に直接かかわる資源外交の渦中に翻弄されるならば、石油危機の比ではないでしょう。そのしわ寄せは、経済基盤の整わない弱小国のさらに弱小部を襲うのは必至です。
豊かさは人類全体、地球全体のなかにあります。モノと心のトータルのなかにあります。大自然の理は生命の連鎖と循環のなかにあることを肝に銘じて、行動に移りたいものです。死語にも等しいといわれるかもしれませんが、「身の程を知る」「身の程をわきまえる」などの言葉は、今の時代の人類の横暴さにこそあてはめられる言葉だと思うのです。
遜悟空の話ではありませんが、自分の力で縦横無尽に暴れまわったつもりでいても、所詮はお釈迦様の掌の上であったというのと同じで、人間知識や技術力を駆使して開発が大飛躍的に進んだとしても、宇宙大自然の法則からはずれては人間生活の健全さと真の豊かさはないことを知るべきでしょう。
加速度を増して谷底へころがり落ちるかのような人類の運命を思い、背筋が寒くなるようです。1992年6月、ブラジルのリオデジャネイロで規模において今世紀最大にして最後といわれた国際会議「環境と開発に関する国連会議」が開催されました。世界170ヵ国以上の大統領や首相らが一堂に会したため、地球サミットとも呼ばれました。
しかし、その地球サミットではすでに遅かったのです。それでもそれに気がついた人びとによって会議が開かれ、地球の隅々から駆けつけたかってない多数の国・民族、多様な人びとによって、意識が一つにまとまったことは大きな第一歩であったといわねばならないでしょう。その後の第二歩、第三歩こそ重大で それに私たち全人類の運命がかかっていることを肝に銘じたいと思います。
環境会議が行なわれる直前に、その会場となったリオセントロという国際会議場の近くで、「聖なる地球を考える集い」が開かれました。この集会の規模は決して大きいものではなく、施設も簡素なものでしたが、世界から集まった参加者によって醸し出された雰囲気は、集いの名称そのままの「聖なる地球」を愛おしむ熱気で充満するものでした。
私はかねてより「地球道徳」ということを提唱してまいりましたが、幸いにしてこの集会で発表する機会を得ることができました。
「地球道徳」の根底にある哲学は、やはり過去・現在・未来に通ずる天地宇宙という壮大な空間に広がる生命(いのち)の循環であり、連鎖です。そして、人間がその大いなる自然の一部に過ぎず、調和と共生のなかにこそ生存の道があることに目覚め、「身の程をわきまえ」「足(た)るを知る」心の喚起を願うとともに、特に先進国の人びとのライフスタイルに反省を求めたものです。本稿の目的もそこに集約されます。言葉足らずの感はまぬがれ得ませんが、意とするところをお汲み取りいただくため次に附記させて頂き、稿を閉じたいと思います。