日本神話によれば、天之御中主(あめのみなかぬし)が宇宙の中心にあって、その後、造化の活動で発生したものに次々神の名を贈り八百万の神となるのですが、八百万を一つに縮めれば天之御中主に帰一するという考え方です。太陽・月・星・地上の山・海・川・土・水などさまざまな働きに対して、また木や石などの自然物、そして食物、はては人間の排泄物にいたるまで、神の名を贈っているのです。
そこに、当時の人たちが大自然のなかでいかに自然を尊重し、あるいは自然に対して、こまやかな気配りをしたかを窺い知ることができます。さらに、自然の生命の流れのなかに人間の生命をゆだね、自然と柔軟に調和と共生の道を歩んでいたことをも知ることができるのです。
開けば八百万、縮めれば一神。一神にして多神、多神にして一神という考え方は、つかみどころのない、あいまいで心もとないものに感じられましょう。西洋の合理性や一神教の理念には合わないかもしれませんが、自然界の実態や生態系のありさまを観ますと、まことに多様性を含み、それらが関連し合って巧みに共生し、地球生活や宇宙生活が成り立っていることを知ることができるのです。非合理の集合による合理、とでもいうべきこの真理が宇宙の実態だと思うのです。
人間でも一人でたくさんの一肩書を持っている人がいます。その一つひとつの肩書によって働く分野は違ってくると思います。つまり、働きに応じて肩書が変わるょうに、神も働きによって名前が違うわけです。多数の神でありながら一神であり、逆に一神であるかと思えば多神にもなります。つじつま合わせのようで、何ともいい加減だと思われる方もあるでしょう。
しかし、このようなことを不思議とも何とも思わず、何の抵抗も感じずに受け入れてきたのが日本人なのです。それ故に、年の暮れにクリスマスを祝いながら、年が明けたら早々に神社参拝をすることに、何の戸惑いも後ろめたさも感じないのです。
また、日本は風呂敷文化だともいわれますが、この風呂敷の発想もここに源を発していると考えられます。柔らかいので包む中身によってどのような形にもなります。変幻自在です。丸いともいえますし、四角とも、またあるときは三角ともいえるのです。大きくもなれば小さくもなり、さらに何もなければ小さく折り畳んで懐(ふところ)にしまうこともできます。まことに頼りない存在でありながら、いざとなれば何でも簡単に包んでしまいます。
カバンはそういうわけにはいきません。それ自体の型が決まっていて、中身に左右されることはありません。ですから逆に、入れるものによってカバンを選ばなければなりません。カバン一つひとつが存在意義を持ち、しっかり自己主張しているわけです。
さらにまた、縮みの文化でもあります。畳の部屋で生活する場合、何でも畳んで片付けてしまう必要があります。着物、ちゃぶ台、布団、人間まで膝を折って座ります。もし、畳の部屋で洋間のベッドを真似て布団を敷いたままにしておけば、だらしがないということになります。また、同じ一つの部屋でも、使う用途に応じて呼び名が変わります。食事のときは居間になり、客があれば座布団を出して客間になり、夜になれば布団を敷いて寝室になるのです。
こういった生活習慣があればこそ、持ち運びが簡単で 使って便利なコンパクトな製品が次々に生産されるのではないでしょうか。比較的手先が器用だということも、毎日毎日、畳んだり広げたりして手を使うことによって、自然に身に付いた特技といえるかもしれません。
「むすび」について前述しましたが、私は人間の生命生活にとって一番根幹となる「むすび」の業を「農業」に見ています。日本には昔から「農は国の本」という言い伝えがあるのも、神話にその起源を発していることは日本人の知るところですが、そこに宿る産霊(むすび)の精神に気を留める人は今日では少ないのです。
この産霊(むすび)の精神を忘れ去ったところに農の心が失われ、商品化、営業化した米や農産物と変化しました。営業のみに心をとらわれ、経済優先に走った結果が今日の農業の荒廃を招き、さらにそれが国士や人心の荒廃をもたらしたことは否めません。
世界史が伝える日本への稲作の伝播は比較的遅く、今から2300年ほど前といわれていますが、ともかくも日本神話の伝えは天界から授かった稲穂として尊ばれ、建国以来すべて農業を中心として国の歩みが行なわれ、伝統文化を築き上げてきました。
農民は百姓(おおみたから)と呼ばれ、近年まで、その地位は商業よりも工業よりも高いとして尊重する風習がありました。そこに伝わる「むすび」とは「天地のむすび」であり、母なる大地の上に万物に息吹と生命力を送り与えてくれる宇宙造化力に恭順して 人間のねんごろなる介錯によって産物を生産する業であったのです。
人間にとっては苦しい労働提供ではありますが、天地のむすび、すなわち天地大自然の生命の循環のなかにあっては、人間の力はいかに小さな一部分であるか、そこに祈りと感謝と勤労の精神が育まれたものと思われます。人間中心主義や知識的イデオロギーも入る余地はないのです。そこに工夫された農法は自然の生命の循環によるリサイクルであり、土や作物に害を与えない自然物の導入による農業で おのずから環境との調和が保たれていました。
やがて科学的分析法が進んで肥料成分を作り計量して施すようになりますと、増収への道が開かれました。土壌学・肥料学・栽培学・作物生理学・農業気象学……など、およそ細分化の限界にまで達したような学問体系に囲まれた感じで農業は進歩したかに見えます。しかし、「木を見て森を見ず」の譬えのように、農業という産業の真実の姿は大きな天地の業である、という根本を見失うことであってはならないと思います。
農学栄えて農業滅びるといわれないためにも、原点に立ち返って、農業を含めた産業を大自然の生命の理(ことわり)のなかでとらえる視点が政治家にも学者にも、また生産者にも消費者にもすべての人びとに是非とも必要でしよう。
今日いわれるところのバイオ一テクノロジーも自然の生命の連鎖と循環のなかにあり、大自然の原則に沿った研究であるはずです。生物のもつ有機物の合成。分解、あるいは無機物の科学的変換機能を探るといいますが、基本的に大切なことは宇宙の生命力をエネルギーとして栽培に引き込むことを意味していると思います。
今、土は疲れ傷つき病んでいます。微生物の著しい減少により、ワラを水田に施しても分解が行なわれず、従来の農機具では刃が立たないほど堅くなった耕地が至るところに広がっており、もはや健全な農地には戻らないでしょう。母なる大地が万物を生まない塊(つちくれ)となってしまったところに、はたして国の生命はどこに宿り得ましょうか。
地力が低下したのみならず、大量施肥によって河川は汚染され、出来た産物は穀類の形はなしていても天地のむすびによる真のエネルギーに欠け、栄養価の落ちたものとなっています。形や色など見栄えだけの野菜、甘さだけの果物に人びとは自分たちの生命を託そうとしているのです。
世界から森林が失われ、砂漠化が広がる今日ですが、地球上のいかなる国士も宇宙大自然の造化力、大生命の活動によって生まれたものであり、本来、生命力のあるところに生物が住み、人間が住み、人間の誠意ある対応によって産業の道を開けば、必ずや母なる大地は恵みを与えてくれたのでした。その大地から生命の道を開くことが産業であり、まさにこのことが広い意味での農業の心だったと思うのです。
強調したいことは、商業国家であれ、工業国家であれ、国是に農業を立てた国であれば、他の産業にもその精神は脈々と生かせるはずだと思うのです。むすびの精神は、これまで述べましたように天地のむすびであり、天地間にみなぎる生命の連鎖と循環の理に遵ずることです。
地球上の海に川に山に野に産出する農・漁・林業も、同じ視点でとらえています。さらには、人類文明社会の繁栄に大きく寄与する工業・鉱業にしても、その原点は農業にあると解釈しています。ちなみに産業の「産」は、日本語で「むすび」すなわち、天地のむすびのなかにある作業であることにおいて同一基盤に置かれるものです。
地下に蓄積された資源である鉱物も、遠い過去の地球造化作用による産物です。あるいは古代生物の遺骸ともいうべき蓄積物である石油や石炭などの化石燃料を採掘して人類生活に戴くという意味で 産業といいながら天産自給であり、母なる地球の生命のなかで行なわれた「むすび」の業です。過去から現在、そして未来につながり、地球生命と宇宙生命のむすびによって織りなされた天産物なのです。
それらに対して その恩恵のなかに人間生活が成り立つものであれば、この奇しびなる生命の連鎖と循環の理に謙虚にならざるを得ないのです。ですから、天産自給の産業にもおのずから節度と慎みが伴われるのは当然のことといえます。現在だけの、あるいは自分たちだけの略奪と侵略の産業に陥ることなく、世界中の国ぐにと分かち合い、また未来の人びとに生命の連鎖を節制をもって贈り伝える務めが現代人には託されているはずです。
日本は、1993年の戦後最悪といわれるコメの凶作によって 緊急輸入しなければならなくなりました。その量も230万トン。世界の市場を狂わせなければよいがと案じられます。世界の需要と供給、さらに一粒のコメさえもなく飢えている人びとのことを考えますと、飽食を反省するでなく、農業のあり方を反省するでなく、安易にお金で解決することは最善の策とはいえないでしょう。
日本は、狭い国士ながら急な山あいの地も開墾してやっと十分に食べられるようになったばかりです。農業技術や知識の向上はもちろんですが、化学肥料や農薬の使用によって増産できるようになりますと、大地の生産力以上の無理な負荷を与えての増産であることを忘れて、簡単に減反政策がとられました。大地の放棄です。これでは大地ならずとも何と身勝手な、と怒りたくもなるというものです。
異常気象によってコメができなかったということは、農薬も化学肥料も大型機械も役には立たなかったということです。コメを育てる最大の力は土や水、そして太陽エネルギーをはじめとする宇宙大自然の力にほかならないのです。それに人間の労働力が加わって豊かな実りがあるのです。
地球自体が長い長い年月をかけて土をつくり、万物を養う環境をつくったことは前に書きましたが、その恩恵を忘れての経済至上主義の農業は当然のこと崩壊していくことでしょう。人類の生命を養う食糧を生産する農業。その農業を他の産業と同一視し、競争力をつけなければ、と過剰な生産を期待することがそもそもおかしいのです。
それが大地自体のバランスを壊し、やがて生産する力をも奪ってしまって不毛の地と化していくのです。大地も人体と同じく生命をもった生きものなのです。こうした観点や国際的配慮に乏しい政治家の思いつきでその場かぎりの減反を強い、休耕田をつくり、はたまた復田をといわれても、生命ある大地は、心なき人間の身勝手にいかに応え得ましょうか。