日本人は「あいまい」で「玉虫色」で「NOといえない」などは、外国人にとって理解し難い印象を与え、日本人にとって不利であるかもしれません。自然界に順応し調和を保つことには優れていても、国際舞台で論争に参加できない弱点はぬぐいきれません。
言挙げせぬを良しとか、不言実行を良しとするだけでは、人類社会に投げ掛けられている多くの問題を解決していく上で不都合な点が多いことでしょう。その対策としてさまざまな分野での国際体験・国際協力、特に教育機関の役割は大きい筈て、今後ますますその面の施策が期待されます。
ところで、今日の日本人の持つあいまいさは、本当に自然への順応と調和の精神から発するものでしょうか。それは疑わざるを得ません。思いますに それは近代化された現代思想と無意識のなかに受け継がれてきた思考との不調和による戸惑い、あるいは“ゆらぎ”ではないでしょうか。
ゆらぎが自信のなさにつながるときマイナスの要素となりますが、これをプラスの要素に生かすことこそ、現代に生きる日本民族に課せられたテーマであると思うのです。
文明の利器は家庭内にも充たされ、便利と快適を与えられた一方、社会には人間性を欠いた砂漠化が広がっています。個人主義のはきちがえは人間同士の疎外感を生み、社会全体を美しく住みよいものにする道徳を不在化させています。個々バラバラに、得手勝手な生き方をするところに公共心とか人間尊重心とか人情・友情は育つべくもなく、物質的には昔と比較にならないほど充たされていても、人びとの心は不安と孤独にさいなまれ、精神的病いが広がる一方です。
さらに、豊かさを享受している日本人の甘えとも受け取れる国際社会に対する無知、無関心や自国に対する勉強不足、無関心が目立ちます。大自然や生命への感動ももたない空白の心は霊性も荒ぶり低下し、その意味では無宗教・無信仰といってよいでしょう。しかし人たるもの、頭につめこまれた物質的知識のみの銀行となってしまったのでは、あまりにも人間として温かみを欠いた心貧しいものとなりましょう。
生命のルーツは大きくは宇宙大生命の血脈のなかにあり、生命なるが故に通いあい、感応しあう霊性を備えているのが人間であると確信しています。人(ひと)は霊(ひ)を止(と)めると解釈できます。霊をヒと読むのは、古典(日本書紀)に準じたものです。日本の文化や思考のルーツをたどるとき、さまざまなヒントを与えてくれる神話に目を向けてみたいと思います。
先祖たちが素朴な言葉のなかに伝えた人生観、世界観、宇宙観をたずねてみたいのです。といいますのは、欧米から受け入れた文化や学問・思想のみを良しとして 伝承されたものを打ち消したものの、打ち消し切れないものがその精神構造や生活習慣のなかに残り、その両者の不消化と不調和から、日本人の思考のあいまいさがくるのではないかと思うからです。
8世紀初頭に編纂された書物に『古事記』『日本書紀』があります。この二つの書は、わが国古典の代表的なものです。8世紀は世界史的に見ればそれほど遠い過去とはいえないでしょうが、特に『古事記』はそれ以前の遠い過去からの伝承の記録として価値ある書であり、古代の日本人の生活や思考のあり方がうかがわれる、いわば手解きとなるものです。
今日では考古学の分野で、日本最古の土器として縄文草創期にあたる1万2千年前のもの(長崎県洞窟遺跡)が知られていますが、それ以前の旧石器時代(3万年前)の石器は北海道から九州にいたる各地で発見されています。
さらに驚くことに、1993年5月に宮城県高森遺跡で発掘された石器類45点は43万年前から61万年前のものと測定されたのです。何と、これは北京原人と同時代となります。科学的な3つの方法で地層の測定をした結果の発表ですから、私たち素人には疑うべくもありませんが、いずれにしても私たちにとっては気の遠くなるような古い昔の時代の人たちからの情報は、ひょっとすると異常な突出的進歩で道をはずした現代を見直すよすがとなるやもしれません。
世界各地での遣跡の発掘により、さまざまな事実が発見・証明されていく興味深い時代ですが、科学の発達は300万年とも400万年ともいわれる人類の歴史さえ現代に近づけ、一つ地球の国土の上に古代と現代とが決して別々のものではなく、連綿と生命のつながりをもって結ばれていることを立証してくれているようです。それを受けて、現代を生きる私たちが未来へ向けてバランスを取り戻す手だてとなるならば、科学もさらに生きてくることでしょう。
話が横道にそれましたが、その『古事記』には冒頭に
「天地の初発の時、高天原に成りませる神の御名は、天之御中主神。次に高御産巣日神、次に神産巣日神、此の三柱の神は並独神成りまして、隠り御身なり」
「アメツチのハジメのトキ、タカアマハラにナりませるカミのミナは、アメノミナカヌシノカミ。ツギにタカミムスヒノカミ、ツギにカミムスヒノカミ、コのミハシラのカミはミナヒトリガミナりまして、カクりミミなり」
とあります。
さらに読み進みますと伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)が国生み、神生み、山川草木を生んだ、と記されています。この二柱の神が私たちの祖先神である、と。そして、このような古書に表現されていることが、好むと好まざるとにかかわらず日本人の民族性を形づくる大きな要素になっていると考えられます。もちろん、そんなこと嘘だ、考えたことも無い、と否定される方もあるでしょう。しかし、それは既に日本民族の血となり肉となっていて、特別に意識しないでもいつの間にか親から子へ、子から孫へと代々受け継がれてきた伝統や文化、生活習慣のなかに生きていて、そう感じさせるのです。
「高天原に成る」というこの「成る」は、子供が大人に成るという「成る」と同じ意味です。生まれて日々成長してやがて大人になる、すなわち生成発展して止まない「日に新たに、日にまた新たなる」の意味です。新しい生命の限りなき進展です。
前にも触れましたように、現在の科学によれば、宇宙は約150億年ほど前の起源にはじまり、宇宙に存在するあらゆる物質やエネルギーの基はビッグバンと呼ばれる大爆発によって造られたとされています。膨張する宇宙といわれていますが、誕生直後の宇宙もすさまじい速度で四方八方に拡大し、その過程で素粒子が生まれ、電子や原子核が生まれた、とされています。
そして10万年後、ようやく宇宙最初の原子である水素が生まれたという。水素は星の内部で燃えることによってほかのより重い元素に生まれ変わっていきます。寿命を迎えた星、つまり超新星爆発によってもさらに複雑な元素が生まれていきます。すなわち宇宙は星の誕生と死を繰り返しながら、次々に複雑な元素を生み出していく、万物生成発展の源であるといえます。また、宇宙に浮かび自転公転している太陽系惑星を例にとりましても、もし、一つひとつが自由勝手に行動すれば互いにぶつかってしまいます。不動の中心、あるいは焦点があって それを軸に秩序正しく活動しているからこそ、ぶつかることもなく、人間がその軌道を計算して惑星探査機を飛ばすこともできるわけです。もちろん、特異小惑星など他の天体に衝突する可能性のある星もあります。
そして 天文学の分野で天体の運行は重力や引力の働きをもって説明できる今日です。しかし、そういった天文学の知識も何もない時代の人びとが、宇宙にそういう働きの存在を認めて それに対して「御中主(みなかぬし)」と名付けたことに深い感銘を受けるのです。
次に「産巣日神(むすひのかみ)」ですが、日本書紀では、「産霊」の字を使ってあります。産む霊、または霊を産むということは、天地万物すべてのものに霊が宿り魂がこもっている、という考え方です。人の知恵でははかり知ることができないようすを、霊妙あるいは霊異(くしび)といいます。不思議な縁のことを奇しき縁といいますが、このことからも、「むすび」とはすべて物を生成することのくしびなる働きと理解できます。
苔(こけ)や草の生えることのざまを「苔むす」「草むす」というように「むす」とは無かったものが自然発生的に生じ、それがだんだん生長するざまをいいます。実の生(な)ることを「実がむすぶ」といい、露の生ずることを「露がむすぶ」といいます。つまり自然の生成化育の働きを、一言で「産霊」というのは言い得て妙なる言葉です。生まれた男の子を「むすこ」といい、女の子を「むすめ」というのも意味の無いことではないのです。
さらに、「産霊」は二つ以上のものを一つに連ねて統一するという意味もあります。紐を結ぶ、交わりを結ぶ、縁を結ぶなど、「むすぶ」とは二つ以上のものを結ぶことによって、新しいものが「むす」、すなわち生まれることです。ついでながら、両手でしっかり形を整えた御飯のことを「おむすび」といいます。稲は「命の根」ともいわれますように、私たちの生命(いのち)を末永くつなぎ止めるものです。稲霊(いなだま)のこもる御飯粒をたくさん、しかも、心を込めてしっかりむすび固めながら食べることによって生命力も強くなろうというものです。