「奇しびなる生命の連鎖」

− 宇宙から人間へ −

  第3章  日本人の思考のルーツ

    森になじんだ固有の文化

 山の多い日本列島に住んだ日本民族の先祖たちは、いつの時代と定かならぬほどの古い時代から、山岳の森に囲まれた原始生活を営んでいたと思われます。生命生活を営むに必要なものを森から得る狩猟採取の生活です。
 木や動植物たちとの共生であり、互いに食物の連鎖や生活の連鎖のなかで、自然に逆らうことなく調和した生活があったと思われます。森が四季おりおりに与えてくれる恩恵によって衣食住をまかない、そのなかで森になじんだ固有の文化が育まれていったのでしょう。五風十雨の温暖な気候に恵まれたこの国にして許された生活であったのかもしれません。

 山や川、海や空といった自然界の活動に順応し、そこには人間の個人主義やおごりというものは育ち得ず、山や川が暴れる、あるいは怒るという言葉があるように 自然は恐ろしきものであり、それをなだめ、いたわりながら人間生活を守る方法を考えました。後に為政者が一番重要視した治山治水の事業も、自然界への尊重と共生、そして伝承された精神に基づくものでした。それは人間の都合で勝手にやるという考え方ではなく、必ずや存在する神霊を尊び記り、人間生活に守護をいただくことの祈りがありました。

 こうした自然観と実生活の間に育(はぐく)まれ伝承されてきた道を、後世になって「神道(しんどう)」と呼ぶようになりました。千数百年前、大陸の文化が伝えられたときはじめて大和民族の自覚がうながされ、既存の信仰を「神道」と呼ぶようになったのです。

自然に則して原始生活を送っていた当時の人びとのなかに「神道」などという言葉があった筈もありません。大陸から学問・知識・技術など多大な恩恵を受け、以後日本の文化は著しい発展を見るのですが、外来文化を同化する受け皿となったものが既に存在していたことに心をとめることが必要です。

 同じく「かんながらの道」とも呼ばれる所以は、神のまにまに ということでそこには自然の仕組みにしたがって生命生活を営む従順で素直な姿勢があります。

また、そこには人間はじめ万物の生命基盤となる土や水・山・川・空・太陽・月・星、さらにその背後にある大いなる宇宙生命に対する畏れと感謝、あるいは美しさ.やさしさに対する賞賛やあこがれといったものがあったことでしょう。

               

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   日本人が培ってきた自然観

 

 神道も宗教の一つと見られがちですが、趣が違うようです。自然を対象として古代の生活のなかから自然発生することによって成立してきた、民族の信仰の道と考えられます。
 あえて、宗教の枠組のなかに置こうとするならば、世界の名だたる宗教の儒教や仏教、キリスト教、回教などが創唱(そうしょう)宗教と呼ばれているのに対し、神道は原始宗教と呼ばれるものでしょう。すなわち、創始者もなく経典もなく、自然発生して幾世代にもわたってその生活のなかに伝承され、民族の文化や精神生活の源泉となっているものを原始宗教とい、創始者があって人びとを導き伝道活動をして、その言行録が経典となって後世の人まで導いているものが創唱宗教と呼ばれています。
 原始宗教は、日本のみならず、世界の国ぐににも大きな既成の宗教とは別に、地方において庶民の生活のなかに静かに深く伝承されているものです。それはまた、自然尊重の古い文化に支えられた先住民の信仰に共通するものでもあります。
 その時代、身近な山は先祖たちにとって神々と共に父祖たちの眠るところと信じられ、生命はそこへ帰るという考え方から、恐れだけではなく、慕わしさと懐かしみの心が深く育まれていったのでしょう。やがて神を祀(まつ)る社が建てられるようになり、その位置は小高い山あいに多く、うっそうたる森に囲まれて、傍には必ず水のせせらぎが聞かれる場所でした。
 時代の推移とともに形をなして伝えられた祭りや儀式は日本の文化伝統として現在に至るまで伝えられ、その祭り主の代表者が天皇であることは世界にもよく知られているところです。

  三島大社
  ○緑の森に囲まれた静岡県の三島大社
 私がここで取り上げようとしているものは、形を超えて私たちの心深くに内蔵する自然観ともいうべき精神的価値観の世界です。
「今日まで 科学者はずっと、宇宙が何であるかを説明する新しい理論の展開に心を奪われていて、なぜと問うことができないでいる。一方、なぜと問うことを商売にしている人たち、つまり哲学者は科学理論の進歩についていけないでいる」
と、ホーキング博士は時代を見ています。
 まさにそのとおりです。もし、哲学者が「何故宇宙は存在するのか。何故人類は存在するのか」を問い、その答えを導き出すことができるならば、それは科学の一方的な暴走を許さないでしょう。
 とはいえ、彼が神の介入をかたくなに拒み、科学の力で宇宙のはじまりを解明できると自信をもっていることに感心させられます。「理性の勝利」によって「神の御心(みこころ)を知る」ことになるというのです。神の介入をかたくなに拒みつつも不思議なほど神を意識し、神にこだわり続けることに首をかしげさせられ、あたかも神と学との闘いであるかの感をいだかせられます。一神教のキリスト教によって 心の根底深くに創造主の神が宿っているためでありましょうか。それに対して日本人による科学啓蒙書にこれほど神ということばや表現が出てくることがあったでしょうか。「否」であります。では、日本人の思考のなかに全く神は存在しないのかといいますと、これも「否」でしょう。
 日本人には自ら無宗教を名乗り、神の存在に無関心な人が多いと見受けられます。ところが、不思議な現象が年に二度起こります。新年になると早朝から全人口の80%以上の人が神社・仏閣に家族づれで初詣をして祈願をします。また八月のいわゆるお盆の時期になると、これまた家族ぐるみでふるさと帰りをして先祖の墓参りをします。こうした習わしは一体どのような精神状態から発生するのでしょうか。心に思うことは何もなく、ただ習慣的に皆が行なうから、という極めて日本人的な横並びの習性なのでしょうか。
 お陰でこの二つの時期ばかりは、ざすがの大東京もひっそりと静まりかえり、車の排気ガスも減少し、美しい青空が広がります。祈る内容は何にせよ、神社・仏閣の前で、あるいは先祖の墓の前で手を合わせる姿は、日本人の美しい姿だと思います。これは世界のどの国、どの民族にも見られるもので、それぞれの宗教にしたがって祈る姿の素朴さ、美しさに共通するものです。どんな悪事を働いた人でもその瞬間、その人をとがめる人はいないでしょう。
 祈りは、目に見えない世界と目に見えるこの世とを結ぶ生命の流れを汲み入れようとしている姿であるから美しいのです。唯物思想とは相容れない精神状態にあることは明らかです。第三者の外国人が見て 日本人が自らいう「無宗教」とか「無信仰」と実際の行為に不思議がるのも無理もありません。
 日本の若者たちが途上国を訪ねたとき(特に田舎)、生き生きと行なわれているその土地の文化的なものに接し、深く感動させられるといいます。これは、自然の大地の上に先祖たちから伝えられ習慣として取り込まれたものに、人間同士としての共通項に目覚めるためと思われます。
 近代文明社会の流れに呑み込まれている現代の日本人は皆忙しく、年に二度だけ、民族の遣伝子に無意識のなかに伝えられたものに呼び覚まされて 奇特な行為をしているのかもしれません。宗教や信仰について無関心であったり、あいまいに見受けられる日本人の思考のルーツを考えるには、はるか遠い昔に遡らなければなりません。



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