「奇しびなる生命の連鎖」

− 宇宙から人間へ −

  第2章  ヒトの生命 - 神の大芸術


     無限に広がる宇宙

 さて、150億光年の広がりをもつこの宇宙の生命はいつまで続くのでしょうか。ビッグバンで始まったとされる宇宙が、やがて収縮に転じてビッグクランチと呼ばれる大崩壊につながるかもしれない、という推論がある一方で、地球の外側の軌道を回っているハッブル宇宙望遠鏡による観測から得られたデータの分析から、宇宙は永遠に膨張を続けており収縮に転じることはない、という結論もあります。これは1991年の発表でしたが、それを裏づけるように、昨年のはじめ、アメリカ国立電波天文台が宇宙の果ての電波源の観測から、現在続いている宇宙の膨張は将来少しずつスピードを落としつつも永遠に膨張を続け、ギリギリのところで収縮に転じることを避けられる、と発表しました。

人類の起源を仮に300万年前としても、人類が生きてきた長さは宇宙の生命に比べればほんの「点」にすぎません。宇宙に始まりと終わりがあったとしても、人類の尺度からは宇宙は始まりも終わりもない「無始無終」の悠久の流れである、といっても過言ではありません。



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   太陽と命運を共にする地球

 太陽はどうでしょう。太陽の直径は地球の109倍、太陽と地球の距離は、約15000万キロメートル、太陽の光は約8分で地球に届く、というような基本的なことは誰でも知っていることです。この太陽は巨大な水素ガスのかたまりで、中心部では核融合反応が絶え間なく行なわれていてエネルギーを作り出しています。このエネルギーの恩恵を受けて私たちの地球での生活があります。

   
    地上から見た太陽:(月光天文台)
    太陽の表面は「光球」と呼ばれ、「黒点」が
    出現する。光球の温度は6000度、黒点はそ
    れより1000〜2000度低い。 


 太陽の中心では毎秒
7億トンという膨大な量の水素が燃えており、これによって毎秒500万トンずつ質量を失っているといわれます。それでも、太陽は46億年の間に4000分の1軽くなったにすぎません。今から約50億年後には、太陽は水素が燃え尽き、大きく膨らむとともに表面からガスが流れ去って白色矮星(はくしょくわいせい)となる、といわれています。とはいえ、太陽もまた人類の尺度からは永遠の存在であるといっても過言ではありません。

 地球の命運は太陽とともにあります。太陽がその寿命の最終段階にさしかかると、その外側が膨張し、現在の火星付近まで膨らむと考えられていますから、火星よりも太陽に近い地球は、当然太陽に飲み込まれてしまいます。しかし、これは今から
50億年後のことといわれていますから、地球の生命もまた永遠である、と形容することができます。現代人の尺度からは永遠に等しいでしょう。

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   時空を超えた精神のつながり

 また、宇宙という大きなスケールのなかでは、私たちの惑星・地球は、人体を構成する「細胞」の一つに対比することができます。細胞はそれぞれが役割を果たしていることは前に触れたとおりですが、そのなかでも地球という細胞の役割は際立って重要であることは申すまでもありません。

 癌にせよ、その他の病気にせよ、病気は一つの細胞がその機能を失うことから始まります。この場合、早期治療を怠ると病原菌をもった細胞が体全体に蔓延して、やがては命とりとなります。今、地球上では環境悪化、民族紛争、貧困など、すでに細胞をむしばむ複数の兆候が顕在化しています。地球という細胞が自らの治癒力を失ったとき、それが宇宙全体にどのような影響を及ぼすのでしょうか。

 そして、地球細胞のなかでは人類1人ひとりを仮に「遺伝子DNA」にたとえることができます。遺伝子という大きさは量子力学でいう「量子」に対比することができるでしょう。量子ということは「粒子と波動という2重の性質」を有していることを意味します。

 粒子は「肉体」、波動は「精神」であると考えてみましよう。波動なるがゆえにトンネル効果で壁を透過して宇宙の創造があったと仮定できたように、精神なるがゆえに時空の壁を透過して、私たちは遥かなる過去と未来にもつながりを持つことができるのです。時空を超えた精神のつながりこそ、生命の循環を支える精神的な基盤となり得るはずです。このようなことができるのは、この広大無辺な宇宙のなかで「人類だけ」なのです。

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   大自然の秩序と法則への回帰

 このように、人間を中心にして、地球・太陽・銀河・宇宙が大の方向にあり、細胞・遺伝子(DNA)・分子・原子が小の方向にありますが、そのすべてが一定のメカニズムで秩序整然と存在していることが科学的にも立証されています。
 にもかかわらず、この秩序のなかに人間の力が及んで形成されたものは何一つとしてありません。人間もまた宇宙の秩序のなかで誕生した存在です。このことは地上に存在するといわれる
1000万余の「種」にもいえることです。

 生命の連鎖もこの秩序のなかで保たれているのです。したがって、この秩序を乱すものがあれば自然選択されることになります。これも自然の秩序と法則のなかにあります。ひとり知識と自我を与えられた人間のみが慢心と欲望を増長させ、宇宙意思を無視し、秩序を乱す狼籍者となっているのです。

宇宙はじまりのときに偉大なる生命ドラマの幕を開いた宇宙。日進月歩のスピードで進む近代科学は、今後もさらに宇宙誕生のタネを解明する手をゆるめることはないでしょう。しかしながら、私個人の考え方は、かくまで高度に進歩した人知の力に敬服しながらも、果たしてそこまで究明する必要があるか、と疑問に思うのです。
 宇宙のはじまりを大生命の流れの原点として人類が謙虚に受け止めて、至高かつ普遍の精神文明の源とすることに何の不都合がありましょうか。
 マクロの世界に、そして、一方ではミクロの世界にも伸びる科学のメス。究明が進むにしたがって、その利用をめぐって附随して起きる倫理の問題があります。“過ぎたるは及ばざるが如し”ともいいます。人類の築き上げてきた輝かしい功績を称えつつも、踏み外してはならない大自然の法則と軌道への回帰の必要性を切実に思うのです。

 今は科学文明の時代であり、ハイテク機器を駆使して宇宙の謎の究明にせまっていますが、宇宙空間は、昔も今も、まさに止むことなき生成発展の生命活動が行なわれています。

 それでは、ここで視点をかえて時代をさかのぼってみたいと思います。ハイテク機器はもちろんのこと望遠鏡もなかった古代の人びとは宇宙をどのような思いで眺めていたのでしょうか。

 日本の場合を辿ってみますと、遠いその昔、文明の利器も何もなく、森と共に生きた古代の人たちは、限りなく高く広々と広がる宇宙大空を「高天原(たかあまはら)」と呼んだ宇宙観・世界観を持っていたことが記されています。太陽や月も輝き、さらに無数の星がまたたく大空への最大の賛美です。
 しかもそれはただの空間ではなく、あまたの神々が集まっている、すなわち「
坐す(かみつまります)」と信じての表現なのです。神という表現をもって、無限の力が充ち満ちている大宇宙の働きを賛美し続けてきました。それを善言美辞といいますが、その善言美辞をつづり称えた言葉は「のりごと」とも「のりとごと」ともいわれました。それが、今日にも形式化された「祝詞(のろと)」として神社に伝えられているのです。

 思えば、現代人はこれだけめざましい科学的発展を得ながら、精神的には物質的思考に陥り、一部の専門家を除いては空を仰ぐ人も少なく、宇宙観、自然観も乏しく、人間的にも内思考で個人主義になっています。科学の恩恵を知らなかった昔の人たちの方がはるかに大らかな宇宙観をもち、自然を尊重する地球道徳を心得ていたのではないでしょうか。そのことに思いをいたすとき、人間の進歩発展とは一体何か、と考えさせられます。

 そして、悠久の昔の時代に生きた先祖たちが言葉に表わした宇宙的視野と発想が、今、ようやく宇宙科学の進歩によって確認されつつあるように思えるのです。西洋でも科学の成果がやっと「創世記」に近づいてきた、という科学者もいます。宇宙科学の発達と技術の進歩によって、旧約聖書のはじめに書かれている「創世記」が理解されるようになったともいえます。

 ここでは、「高天原神集す」との表現を生んだ日本人の思考のルーツを探ってみたいと思います。
               



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