2001年3月、アフガニスタンのイスラム原理主義のタリバン政権により、バーミアンの仏像などの仏教遺跡が破壊されたという。イスラム教とは、偶像とは何か。
イスラム教は7世紀にアラビアで興ったモハメットを開祖とする宗教である。その勢力は中近東を中心に西は北アフリカ、東はインドネシアにもおよび、現代での信徒の数は世界の人口の2割近くを占めている。
イスラム教では聖典コーランの戒律により、豚肉を食べることや偶像崇拝が禁止されている。かつてイスラム教が支配した中近東地域の、古代の神像や動物などの遺跡が破壊されているのはそのためかもしれない。
イスラム教の寺院であるモスクは、具象的絵画で装飾することができず幾何学模様やアラビア文字などで飾られている。これがアラベスク模様である。
「偶像」を和英辞典で調べてみると、次のような言葉が出てくる。
idol (アイドル) 偶像(神)
image(イメージ) 像、彫像、画像、偶像
god (ゴッド) 神像、(〜にとって)神とあがめられた人(物)
Icon (アイコン) (絵、彫刻の)像、肖像、偶像;(東方教会)イコン、聖像
いずれも我々現代人にとってかかわりの深いものばかりで、驚かされる。若者が熱中するのがアイドルなら、パソコンのGUI(グラフィック・ユーザー・インターフェイス)はアイコンと呼ばれているし、インターネットにはさまざまなイメージがあふれている。インターネットは現代の偶像かもしれない。
日本語の「偶像」はややマイナスのイメージがつよいが、本来信仰の対象とされるもので、「聖像」をも含めた両義的な言葉といえるだろう。その実際は、信仰心のある人にとっては「聖像(イコン)」でも、信仰心のない人にとってはたんなる「偶像(アイドル)」でしかない。この価値観の違いは、もはや合理的説明の及ばない文化の違いというしかない。
インドネシアの「味の素事件」のように、ただ文化の違いではすまないのが、地球が狭くなった現代である。異文化の理解なくしては、食事も共にできない。文化の交流は現代の急務である。しかし拙速な理解は危険である。今回のタリバンの行為は、イスラム世界で必ずしも支持されているわけではない。
<中村セツ>
アメリカの1月20日は、ブッシュ新大統領の就任式でした。その就任演説を評論家の櫻田淳氏は、つぎのように評価しています。そして日本でも「国家の物語」が語られるべきだと指摘しています。
ブッシュ新大統領の就任演説によれば、米国の歴史は「偉大にして不朽の理想によって幾世代を通じて結び付けられた、欠点を持ち誤りを犯しがちな人々の物語」である。そして、「自らが継続させていても、その終わりを自らは見届けることはない永い物語」の中に、現在を生きるすべての米国国民がいるというのが、ブッシュ新大統領の認識である。
米国の政治的指導者層は、自らの役割を「自由と民主主義」に現される建国以来の「国家の物語」を先代から受け継ぎ、次代に引き継がせることであると認識しているのであろう。
そして、国民には「あなた方が観客や従僕でなく、(国家の物語に参加する)市民であることを求める」と続きます。
翻ってわが国では、総理の施政方針演説の中で、そのような「国家の物語」が語られたことはないようである。
「日本という国は、どこから来て、どこに向かおうとするのか」。少なくとも年に一度、このようなことについての「国家の物語」が、一国の政治指導者の口から語られる機会が用意されるべきであろう。
以上が櫻田氏の主張の要約です。
これからの文化を考える上で、かなり基本的なテキストになるのが、1998年のNHK人間大学で使われた青木保氏の「異文化理解への12章」だろう。その要点と思われるところをお伝えしたい。
○東西冷戦が終わり「文化」の問題へ
科学の20世紀の終わりころ、取り残された問題として、文化の問題が表面にでてきた。人々は文化の問題に向かうことを余儀なくされている。
○文化は重くて不合理なもの
人間は生まれ育ったところの文化(民族、宗教、言語、生活様式)に深く規定される。文化は実際人間にとって非常に重いものである。また日本で生まれて日本語を話すのが当たり前といっても、これを合理的に説明することはできない。文化とはそのような非常に不合理なものである。
○異文化との接触
異文化への関心こそ人類にとっての本源的衝動かもしれない。たとへば日本の近代化は、欧米先進文化に対する「あこがれ」が原動力となった面がある。西欧人も「オリエント」(ここでは中近東)に強い関心を持った。しかし最近になって中近東文化の捉えかたが、自分たちに都合の良いように、すなわち偏見に陥っていたのではないか、と反省されている。異文化理解については、「拙速ということが一番よくない」。
○現代の混成文化とステレオタイプな理解
現代では異文化との接触のない文化は、ないといってもいいだろう。ただ混成のあり方がまた、それぞれの文化によって違ってくる。現代では情報による「ステレオタイプ」な理解に陥りやすい。ナチスなど、異文化に対する弾圧や破壊が、20世紀を大きく特徴づけている。そこには人間を人間としてみる視点が欠けている。
○グローバライゼイションか「文化の衝突」か
情報技術の発展は、さまざまな情報が国境を越え(ボーダーレス)、地球全体に波及(グローバライゼイション)するといわれる。よくアメリカ文化の普及を文化侵略とかいうが、やはり大変普遍的なメッセージを発する魅力的な文化でなければ、そうは広まらない。しかし文化の違いは残るだろう。
現代は一方で、民族や宗教の対立が頻発する時代でもある。文化の違いは乗り越えられないとする「文明の衝突」論と、情報化社会によって画一化するという説が、大きな矛盾となって渦巻いている。
○自文化の発見
日本の国をもう一度見直そう、あるいは日本の固有文化を捉え直そうという衝動を、社会学では「ノスタルジー」と呼ぶ。いわば「ふるさと探し」、「自分探し」である。自文化の発見とは、ほかとのつながりが見えてくること。また文化の交流によって、自文化がわかることもある。
アジアの国々は、「デスカバリージャパン」のころの日本より、より複雑な形で伝統と現代の狭間に置かれているようである。
貝原益軒は江戸時代前期の儒者、博物学者である。彼は85歳でなくなったが晩年に多くの著作をなしている。その中でも「養生訓(ようじょうくん)」は江戸時代のロングセラーの第1位だったともいわれる。
「養生」というのは、江戸時代には病気予防の健康法や病後の手当てだけでなく、健康や生き方にかかわる事柄、つまり江戸時代の人々の共有した「文化」ともいえる。超高齢化社会を迎えた日本人にとって、西洋医学とはまたことなった養生法をしめしてくれるだろう。ここでは立川昭二氏の「養生訓の世界」(NHK人間講座)から、ほんの一部を紹介しよう。
「養生の術はまず心気を養うべし。心を和(やわらか)にし、気を平らかにし、いかりと慾とをおさへ、うれひ、思ひ、をすくなくし、心をくるしめず、気をそこなわず。これ心気を養う要道なり。」
「養生の術は、つとむべき事をよくつとめて、身を動かし、気をめぐらすをよしとす。」
「飲食をよき程にして過ごさず。」
「心は楽しむべし、苦しむべからず。身は労すべし、やすめ過ごすべからず。およそわが身を愛し過ごすべからず。」
養生の極意は「元気をめぐらし」、「身体、手足は働かすべし」というのです。また飲食はほどほどしなさい、とのことです。当たり前のようでいながら、親に諭されるような味があります。
また次のようにも教えています。
「人の生涯になすべき五計あり。まづ十歳の頃は、ひとへに父母の養いによりて成り立てり、父母の教えに背くべからず。これを生計という。二十歳はもとより身をつつしみ学問し、芸を習い、家学をつとめて、身を立てる計をなすべし。これを身計という。三十歳より四十歳にいたりては、家事をいとなみて、家を保つ計をなすべし。これを家計という。五十にしては子孫のためにはかる、子孫は年若く世事になれず、父まづそのために計をなすべし。これを老計という。六十より以上は、わが死後のことをいとなみはかるべし。」
益軒はまた
「年老いては月日の速き事、十倍なれば、一日を十日として、あだに日をくらすべからず。老後の一日、千金にもあたるべし。」
とも説いています。
<中村セツ>